こひちろうの独り言 |
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広島城を太田川の河口に建設するという企みは、この城は海への砦、館だろうと思う。家臣が人口の7割を占めることからも、開かれた都市としては考えられない。西国街道からも遠く、城下に入る街道も整備した痕跡もみあたらない。
城から海へつくられた平田屋川も西堂川もおなじく幅は13間約23.4mで石垣の護岸工事がおこなわれていた。ざっと現在では6車線、砦は海にだけ向いている運河だ。 ![]() 太田川河口付近の戦国の領主・武田氏は1541年、毛利氏によって滅亡。武田氏との同盟関係であった仁保島の城主の白井氏は、1551年に太田川河口に進出してきた毛利氏と草津や尾長で戦っている。そのころ毛利氏は五家荘とよばれていた河口一帯への進出、支配を始めていた。白井氏は戦いのすぐのちの1553年には毛利氏の支配下に入っている。このころから太田川河口の砂洲に毛利氏は埋立や水路の開削と島普請といわれる土地の整備をはじめていた。 1555年厳島合戦以後毛利元就は周防・長州を支配下において、太田川河口への城の建設を考えていたといわれる。長男の隆元の1563年の突然の死去があり、そして1571年元就が死去、跡を継いだ孫の輝元は「1589年二月廿日吉田の城より御出馬あり。・・御城地お見立てあるべしとて明星院山、新山、己斐の松山、この三ヶ所に登り給いて、土地の陰陽要害考合あり。この地全く繁昌の勝地なりとて同年四月十五日、二宮太郎右衛門奉行として鍬初あえい。御城取は京都聚楽二条をうつして縄張あり。 1822年編集・浅野藩知新集」 1591年輝元が入城、石垣などのすべての完成は1599年慶長4年といわれる。翌年の1600年の関が原の戦いのあと、太田川河口への城建設を毛利元就が思い、厳島合戦から34年のときを経て着手し、建設に10年を費やした城をわずか在時9年で去って長州・萩に遷された。 「豊臣期には、毛利元就は豊臣家の財政感覚に似た家であった。というより、むしろ秀吉のほうが毛利氏の財政感覚を真似たのかもしれず毛利氏のほうがその方面の先輩であったであろう。戦国期、つまり自由毛利家の時代は、この家は山陰山陽十カ国のぬしで、王というにちかい。しかも源平時代以前から自立的に栄えていた瀬戸内海の島々の水軍のほとんどを戦国毛利氏はその傘下におさめ、その意味では、いわば海上の王であり、その方面の経済感覚をはちきれるほど持っていた。司馬遼太郎 街道を行く1 長州路」 「毛利氏は広島城を主城としていた。その広島を去り、防長二州に押し込められたとき、大内氏のむかしをおもって山口を主城にしようとした。ところが幕府は“萩へゆけ”と追いやってしまった。幕府は、毛利氏が山口のような便利のいい場所に府城を置くと、また瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手をのばすかもしれないということをおそれ、遠い日本海の漁村へやってしまったのである。 司馬遼太郎 街道を行く1 長州路」 1894年8月に開戦した日清戦争の兵站基地が広島の宇品港になり、10月に召集された第7回帝国議会が大本営となった広島城で開催された。現在は基町にある広島市駐車場西側の場所に造られた木造平屋建築であった。 ![]() 兵站基地になった宇品港は1889年に完成している。 宇品港の建設は巨額の費用がかかり、建設を推進した県知事の千田貞曉は減俸をうけ、新潟知事に転出し落成式には参加してないといわれる。26年後の大正4年に評価されて銅像と千田神社が建立されている。 もう一つ宇品港建設に際して、神社にかかわる話がある。毛利輝元が城の建設の場所を決定する際に訪れた牛田の見立て山(新山)にあった神田神社が宇品港の北に移転さされている。 ※広島市HPより抜粋 「 神田神社は、文亀(ぶんき)3年(1503)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁公が祖国甲斐の国、今の山梨県からお城の守り神として牛田村神田に奉遷したのが始まりといわれています。当初は神田八幡宮と言っていたそうです。 最初は、現在の東区牛田にある東区スポーツセンター付近に建てられました。その後、武田氏は毛利元就公に滅ぼされ社殿は荒廃しました。しかし、元就公の孫の毛利輝元公が広島城に入ると輝元公は天正19年(1591)に荒廃した社殿を見かねて建て直し、守護神として祭りました。 明治22年(1889)神田神社の領地は旧陸軍省の軍用地となり、神田神社は牛田村、白島町、宇品町の三町村が協議の結果、当時広島県令であった千田貞暁公が造った新開地である宇品へ移転し、その護持を宇品の町民にまかせるようになりました。(広島市)」 自分には、この話にチョッと引っかかりがある。軍用地として接収されても、だいた転地は近い場所です。じつは今も神田神社は元にあった場所近くにあります、ってことで行って見たのですが、見つからなかった。そこで“広島ぶらりさんぽ”のHPで見つけました。掲載させていただきます。 氏神の神社を住民が協議して、手放すだろうか。事実、近くに移転させているのではないか。おおきな勢力の干渉があったにちがいない。それは? ![]() 広島城が海へむかってつくられた。その運河ともいえる二つの川は浅くなって、もちろん大きな船は入れなかった。新しい港が宇品を埋め立ててつくられる。そこに毛利輝元が広島城を建設する際に建設場所を見立てた新山の神田神社を移転する。そして町名までも神田としたことは、瀬戸内海の覇王として雄飛する拠点とした広島城建設の企てを300年後に実現しようとしたのではないだろうか。この議会開催時の総理大臣は初代になる伊藤博文であることからも、連想が大きくなる。毛利氏は広島城を取り戻した。 ならば、宇品港の建設をすすめた千田貞暁は長州藩士に違いない!? 薩摩藩士でした。
by forumhiroshima
| 2014-03-15 19:27
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