こひちろうの独り言 |
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変化した町
毛利氏は広島城を完成させ、そして内装一般の整備がやっと終わったとおもったら、「関ケ原ノ役という大変動期を切り抜けぞこね、敗北者の側に味方したいため・・36万9千石の防長二州にとじこめられて日本海岸の萩に城をおくことを強制され、・・中ぐらいの大名におとしめられ・・ 司馬遼太郎」と広島城から出て行った。 「毛利氏に代わり、安芸・備後49万石の大名となった福島正則は、・・領内の把握につとめ、城の北に通っていた街道を城の下、南にひきこみ、町人町の領域を広げるなどして、・・ 広島城総合案内・広島市」町人町を拡大したのは、城下人口の7割をしめていた毛利氏武士団の退去により空地が増加。その空間を埋めるためだったという。移動させた街道を、今の堺町から北上する街道を整備して、出雲・石見街道とした。 福島正則による街道の移動により、海への大動脈として掘割された平田屋川・西塔川に、それまで城の東口にのみにあった平田屋川の渡橋は川下に増加されて町内に架けられた。縦の海への展開はブッツりと、遮断された。 毛利氏の海の同盟者で水軍の将の村上武吉は秀吉の海賊禁止令により、周防大島に蟄居した。縦から横へと町の変化は、毛利城下にあった立町に加えて、横町を元安川左岸に成立し、横道が縦で遮られる突き当たりの町、袋町が出来たようだ。 私は袋町小学校出身で大好きな学校でした。だからか、どうも人生はいつも袋小路にはいります。ヘッヘ関係ないね。 いまの立町から八丁堀、胡町と並ぶ電停は、上り下りの停留所は交差点の対角線の位置にある。交差点を縦、横と渡って電停にゆくこともある。旧市内で東西、横に貫くルートは西国街道だけで、これに交差するいくつもの縦のルートとの交点が多く出来た為の残影ではなかろうか。そして、にぎあう交差点がこれまで時代ごとに移動してきたからだろう。それとも広電の趣味かな。バス停もおなじ混乱があるようにおもう。そうなら、歴史的結果だ!。でしょうか?な。 吉田・郡山城下から、南下してきたエビス エビスたち 広島城HPに「引御堂と胡堂」の記事があった。記事の要約。『毛利氏の広島城建設以前におこなった検地で、引御堂という地名の記載があり、別に1575年に九州、島津藩の島津義久の紀行文に引御堂通過の記事があり、そこは今の古市になる。広島藩の「知新集」に西光寺に胡堂が付属してありこの寺は毛利氏の時代に吉田から、安佐南区古市に移動した。 その場所を引御堂とあり、そののち広島城下の十日市、広瀬一帯あたりに移動した。そこも引御堂とよばれた。この寺が福島時代に東へ移動、一帯を胡町と東引御堂町とよばれ、十日市あたりは西引御堂町となった。西光寺は町年寄の指示のもと僧侶が管理した。町人の共同管理に運営が特徴。』 袋町小学校のころの11月20日のえべっさんはとても寒かった。えべっさんは吉田からおいでになった、と母がうれしそうに話していた。母の故郷は吉田と尾根一つ南、JR吉田口駅から数キロ。大きな町の広島に小さな町の吉田からきた神様が、やってきた。寒くてもあったかいフワーとした思い出。母のちいさな伝説の思い出。 古市の胡堂、十日市町そばの榎町の恵美須堂と走った。古市、十日市と市場のたった場所に胡堂がある。 八丁堀はご存知のビッグマーケットだ。ここに来て、胡神社はいつも見ている風景だ。が違った。胡神社の祭神は“大江広元・毛利輝元の祖先”とある。胡さんと合祀だけど。 福島正則も浅野藩も西の毛利からの幕府のための防御ライン、といわれる。その城下のお堀の八丁堀に毛利氏の祖先が鎮座する。その証拠に大江広元の木造が祭ってあったが原爆で焼けてしまったという。そして写真があったともいう。 図書館へ出かけた。その大江広元さんのご尊顔を探した。たくさんのページをくりました。あったのです。なんと袋町小学校のパンフレット。なにせ学区ですから。 いかに町民運営の神様だといえども、毛利氏の祖先を福島正則や浅野藩の城下の中心に移動させまつり、当地第一の祭りをおこなう。この不思議に“福島正則の妾さんに出雲御国の弟子の清七という女優さんがいた。この清七さんが吉田の出身だったことから、このラインで移動できたとも、そんなヨタ話があるくらいで誰も不思議だとおもったのだろう。 毛利氏も祖先を置いて行くってないだろう。幕末の長州と幕府との戦争の本陣は白神社隣の国泰寺に置かれている、広元さん、さすが、長州の勝利応援だった。毛利氏はこのために、置いていった!のでは?ないよね。 毛利氏は大江広元の墓を江戸時代1823年に鎌倉にあたらしく建てている。尾根中腹にある墓のふもとに石灯篭が1858年建立されている。毛利氏は大江広元を忘れてはいない。 翌年の1859年に吉田松蔭が萩から江戸に囚人籠に入れられて陸路で送られている。この囚人籠は西国街道を上っているので、胡神社の大江広元像の前を通っただろう。司馬さんは「世に棲む日日」で囚人籠の松蔭が備前で書いた詩を紹介している。 夢中の夢は真となり 醒めて後、 たちまち幻となる いずれの時か 大夢醒め 人生のうれいを脱却せん また胡神社に参拝した。暗く閉ざされたガラス戸にかしわ手を打った。松蔭の詩を写すために引き出した「世に棲む日日」を読んでみよう、と思った。
by forumhiroshima
| 2014-03-25 00:56
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