こひちろうの独り言 |
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司馬遼太郎の「世に棲む日日」を“フウー”読み終えた。高杉晋作の描写には血の匂いが沸き立っていた。
「広島城を追われた、・・国替えのときに、それぞれ広島の思い出になるものを持って萩に移ったが、高杉家にあっては広島灯篭なのである。(萩の高杉家の小庭には、高杉家が広島城下にあったころからその庭に置かれていたという古拙な石灯籠がある)世に棲む日日」 晋作は新婦に灯篭の由来を話している。江戸の幕府に”足を向け寝る西枕“を妻に教えている。 毛利藩が広島に残したものは三つ。広島城。そして「方言のことをいうと、広島あたりはずいぶん関東御家人が入っていましたから、広島に人はいまでも東京へ行ったら、アクセントも“クモ”“ハシ”をはじめ、広島のアクセントの通りで通用します。広島に人は標準語どおりにできるんです。司馬遼太郎、対話選集1」らしい。ワシャー、チョット信じられんが ノオ。 それに、胡子神社。とくにこの神社のご神体がとても気になるのです。 神社のご神体は毛利氏の祖先の大江広元であった。大江広元は鎌倉幕府創設期のメンバーで胡子神とはまったく関係ない。 安芸の国に地頭となってやってきた御家人たちは祇園の武田氏や可部の熊谷氏、毛利氏。毛利氏の祖先になる大江家は京都の下級貴族でもあった。大江氏は神奈川の毛利荘に領地をもち、毛利と名を換えた。毛利氏は武士でありながら、貴族でもあった。 14世紀中ごろに安芸国吉田へ移住。16世紀中ごろ、毛利家52代の元就は「大内、尼子の大名をたおしその家来・被官団を吸収し“大”毛利家を作り上げた。・・その被官団どもが、毛利家はなりあがりではないか。と疑念をいだくであろうとすれば・・祖先が大江広元という・・明瞭であった(由緒ある筋目を)・・元就は国々に知らせなければならなかった。・・また大江家は遠くは平城天皇の子阿保親王より出たということになっている。世に棲む日々」阿保親王は第一皇子であったことから一品の位にあり一品親王と称された。その一品を旗印とし毛利の「一文字三つ星」紋と呼ばれた。毛利氏の皇室との繋がりを世間に知らしめる旗印だ。元就が52代と長い家系を持つのは大江氏の神代の祖先としているアメノホヒを慣行上初代としているからだ。アマンホヒ命は出雲大社社家千家、菅原道真の祖先でもある。 「元就は天下公認の名家にするために、朝廷に献金せねばとおもった。・・ときに戦国であるために朝廷は衰微しきっている。・・しばしば献金し、ついには・・石見銀山の所有権まで献納した。・・元就は田舎大名ながら、(天皇の家臣の)朝臣を称し・・この朝廷への献金の習慣が元就の死後も続いた。・・幕府も儀礼であれば・・とゆるした。以後徳川二百数十年のあいだ毛利家はこの習慣をつづけ、 世に棲む日々」 毛利氏と天皇とのこのような関係が、勤皇や王政復古のスローガンの幕末の動乱へのおおきな影響をつくったのだろうか。司馬さんの明治維新への史観が世に棲む日々のなかにあった。 「松蔭は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な預言者があらわれ・・かならず非業に死ぬ。松蔭はそれにあたるであろう。革命の中期には卓越な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって電雷風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。 世に棲む日々」明治維新の基本テーマの“勤皇”。松蔭は「長州の勤王の第一声は自分であり、他の者は自分の書によって志をおこした。と先唱者である名誉を、人への手紙で、みずから誇示したこともある。・・松蔭はこの時代のもっとも急進思想である天皇崇拝主義の先端的な唱導者であった。・・徳川家は天皇から政治的外交を委任されているのであり、日本の国家元首はあくまでも天皇である。という解釈と思想を考え出したのは水戸の学者であった。長州にあっては松田松蔭である。松蔭の思想がもっとも純度が高い。 世に棲む日々」 市立図書館で4時間もかかって見つけたかわいらしい、胡子神社のご神体の烏帽子姿の大江広元の写真が浮かんでくる。毛利家を長州藩の家臣たちは江家とよんでいた。大江広元を強く印象していたように思える。 図書館の窓から広島城が見える。毛利藩がこの広島の開拓者・パイオニアにちがいない。大江広元の広が広島につながるともいう。大江広元はまた明治維新の徳川から薩長への権力の移行のシンボルであるともいえるのだろう。それに鎌倉幕府創設期の主要メンバー。 毛利家に天皇家との経歴の関係があるのでは、という気分だけで王政復古ができたわけではないが、広島の中心の繁華街に、立ち去って400年の毛利藩の自分達の主人の系図への気分が、今もたちのぼっているように感じた。 胡子神社の御利益は、強烈にありそう、ですね!
by forumhiroshima
| 2014-04-13 10:48
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