こひちろうの独り言 |
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1867年4月14日(旧暦)高杉晋作の命日。約150年前。27年と8ヶ月の生命。
「4月16日の日没後、葬列は下関を出発した。すべて神式によった。参列者は三千人、それぞれ松明をかがし、星が動き、火が動き、長州におけるあらゆる葬式のなかで空前の盛儀であった。 世に棲む日々 司馬遼太郎」。私は三千一人目になり参列したかった。晋作が創設した奇兵隊での写真がある。ニューヨークで撮ったロックバンド・奇兵隊の凱旋ツアーCDのジャケット写真だといっても通用する。150年の歳月を飛び越えている27歳。 高杉家の名の元となった高杉は三次市の風土記の丘公園の東にひろがる丘陵地帯で、ここの城主であったといわれ、祖先は高杉小四郎。広島・祇園の武田城主につながる家という。毛利氏と武田氏の戦いで敗れ、のち毛利氏の家臣となり、高杉を領地とした。高杉は低い尾根の麓に民家がならび、その谷間にひっそりと五輪塔が傾いて残っている、時間がずっと、うずくまっているような、そこが気になってウロウロさせられて、それですごくうれしい、そんな所です。 1859年安政6年10月に吉田松蔭が江戸・小塚原で斬刑。小塚原に埋められていた遺骸を1863年文久3年正月に晋作は白昼に小塚原に馬上姿であらわれ、数人で掘り出し、堂々と運び出し江戸の毛利家の地に埋葬した。後日談で、幕府が長州を攻めた四境戦争のころ、幕府はこの墓をくだいた(世に棲む日日)。この場所が今の東京の松蔭神社になる。松蔭神社は山口・萩にも建立されている。 広島城下町にも刑場があった。 平和公園の資料館前を西、広電江波線の路線にでる手前の平和大通りの南側、山口銀行支店の交差点を南に入るとすぐに、河原町地蔵堂が左手にみえる。このあたりが「竹の鼻」と呼ばれた場所で、“鼻”は川の分流のポイントや、流れに突き出た場所の突端がその名で呼ばれる。近くに土橋の地名のあるように、このあたりは築城当時には太田川がいくつにも枝分かれして流れていたのだろう。河原町の名が状態を示している。 京都、賀茂川も刑場があった。五条あたりと今の三条の河原がそうだという。 竹の鼻の刑場が出来る以前には、資料館の南の噴水のあたりにあった浄土宗光明寺の地にあったといわれる。光明寺は死者の冥福を祈る千日念仏の道場で寺への道は千日小路とよばれた。(“ひろしま風景”サイト) 大阪の刑場については「道頓堀の盛り場の裏手に回ると、・・広大な墓地となっていた。竹林寺と千日寺という寺が立ち並び、さらに奥に進むと「火屋(火葬場)」の建物にたどりつく。そしてその周囲には、多くの粗末な非人小屋や聖たち(無資格僧侶)の坊が立ち並んでいた。千日寺の前には、刑場もしつらえていた。ここで実際の処刑がおこなわれることは稀であったとはいえ、獄門台の上にはいつも誰かの首が晒されてあった。このあたりが千日前と呼ばれるようになったのは、法善寺で「千日参り」という行事が盛んにおこなわれたからである。旧暦の7月一日にお参りすると、いつもの千日分あるいは四万六千日のお参りに相当するというので、大阪に人はよくその日に四天王寺にお参りした。やがてこれが法善寺に取り入れられて、ことらのほうが有名になっていった。法善寺はいつしか千日寺と通称されるようになり、火葬場に向うその前の通りが、千日前とよばれるようになった。 大阪アースダイバー 中沢新一」 明治に入って公開処刑はなくなり、道頓堀奥の墓場も移転され、跡地に寄席や見世物小屋が林立した。 京都、三条大橋の刑場は三条通りを東へ、東山の入口の粟田口にうつされ、広島では、西へ今の古江の「樽ケ鼻」へ移転し、明治にはいって廃止された。 京都・広島の河原町、大阪の竹林寺と竹の鼻の竹、そして千日寺。刑場をさがしてゆくと、同じキーワードにたどりつく。「仏教はあらゆる類の“没落してゆくもの”の味方であり、この世から没落してくゆくもの(死者)の魂を受け取って、それを浄土におくりこむという大逆転を引き受ける 大阪アースダイバー 中沢新一」 高杉晋作は吉田松陰の遺骸を小塚原の墓を掘り返して、取り戻し、再度埋葬している。ただ短に幕府憎しの感情からだけではないだろう。彼は神式で葬送されたことも考えあわせると、松蔭の魂を受け取ることへの彼の感情はどれほどのものだったのだろうか。28歳に満たない生涯で出現させた、この国の政治体制の大回転への展望の秘密があるのだろうか。 晋作が剃髪して僧侶になろうとしたことがある。名を武士身分を捨て僧になった西行から“西へ行く人を慕いて東へ行く我が心神を知るらん”と「東行」としている。江戸時代を葬送した巨大な僧侶であったのだろう。戦うヘビーなロックシンガーだろう。 おもしろき こともなき世を(に) おもしろく 辞世の句
by forumhiroshima
| 2014-04-17 02:13
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