こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

広島という町を設計する-16 賑わいの街

「広島の繁華街にエリアは西国街道を徐々に東進する。最初は堺町、中島町エリアであったのが、元安橋を渡って革屋町(本通り電停あたり)から平田屋町(金座街)へ移り、八丁堀あたりにいまは落ち着いている。」という都市伝説が紙屋町にそごうデパートが出現する前には言われていた。広島最初の繁華街は中島に出現した。いまは平和公園と平和大通りの空間に変わっている。そのあたりの被爆以前の地図が戸別明細に作られてHPで公開されていた。そこに中世の景色を探してみた。
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広島城下の処刑場は中島にあった浄土宗光明寺の地で「刑死者の冥福を祈るかめ千日間念仏を唱えたと伝えることから、別名千日寺、寺前の小路を千日小路と呼んだ。知新集」
中島は広島城築城当時 木挽小屋あり木挽町とか小屋町と呼ばれた資料もあり、後に材木町とよばれた。処刑場は毛利氏時代の中島から浅野藩になって竹ケ鼻・油屋町油池傍、河原町から堺町へ移り、広島市街地の拡大により次に樽ケ鼻(古江あたり)に移っている。地図には光明寺の記載はなかった。が多くの寺院と墓所記載がみえる。地図の中央に池もみえる。という浅野藩の処刑場の竹ケ鼻の油池とある池の記載がなにか印象が深くて、この中島の池が気になる。この池あたりが今の資料館の南の噴水で、フラワーフェスチバルの花の塔になる場所だ。平和公園は何故、この中島に建設されたのだろうか。広島都市計画の設計者に神か仏か、降臨したとしか思えない。そのエネルギーが今!花の塔に?。

「処刑の原型は、古代の供犠(神に、いけにえを供える宗教的・呪術的) 儀式である。 近世の社会では 古代的な供犠・サクリファイスの儀式から、宗教性を抜いて、刑罰をあたえる方法として、その型式が利用された。・・犠牲者は人の社会に属するものでなくなって、神の世界に吸い上げられていく“最後の瞬間”を待ち受けることになる。  神官の手にした刀や斧が、犠牲者に振り下ろされる。その瞬間に、見物人たちは“見た”のである。超越の世界の空の天井が、わずかに開いて、そこから神が姿をあらわし、犠牲者の魂をむんずとつかんで、超越の世界に引上げるのを。・・処刑場がなくなり、その跡地に寄席や見世物の小屋が林立した。  日常生活では隠されている秘密の光景を、扉を開いて見せてくれるのが、見世物である。  人々は自分の認識力の限界領域でおこる、さまざまな驚異の出来事を見たいばかりに、わざわざ遠くまで足を運んで行くのである。 中沢新一 」

「江戸期では“栄り場”とも表記されるが“盛り場”の原義は、人出で賑わう繁華街だった。遊郭のある色町と歌舞伎の小屋が並ぶ芝居町を中心に形成されていったのだが、それ以外に、当時では集客力のある“場”はなかった。 沖浦和光」
「城下町広島では、芝居興行は禁止されていた。芝居町はもちろんのこと、遊里も公然と認められたことはなかった。寺社の開帳や市立ての日には特別に操り浄瑠璃や小芝居が催された記録が残っているが、城下には“悪所(遊郭と芝居小屋)”は設けられなかった。    ちなみに1601から1803年までの藩のお触書の集成には、城下での芝居や遊女町に関する記録は全くない。辻相撲、辻踊、盆踊でも厳しく統制する町触がだされている。
ただし厳島神社の鎮座する宮島の四季の市では、勧進興行という名目で上方から歌舞伎座一座が来演した。 宮島には揚屋(遊郭)があって、遊里あそびをするものは広島市中から通っていた。  沖浦和光」

近代デジラルライブラリー「広島案内 M34/12」には、広島城下の傾城町(遊郭)は当初、材木町(中島)にあったが、浅野氏が1625年に城下町から宮島の東町はずれの新町へ移したとされている、とある。
歌舞伎の創設者の出雲のお国は公演したのは、石川五右衛門の処刑された京都、賀茂川三条の河原から。後に江戸三座があったのは、堺町、木挽町、葺屋町だという。広島にも堺町、木挽町(のち中島材木町)小屋町(中島天神町)と同じ地名があった。都市の仕組みは中心の江戸をなぞるのだろう。どこかの町でこの地名にであったら、遊郭の名残をさがしてみたい。

広島が百万をこえる人口を持ちながら、ビッグネームの公演が博多へ飛び越してゆくのは、きっと「風俗を壊乱し奢侈僭上・シャシセンジョウの風潮を煽動する歌舞伎・・浅野藩お触書」などとがんばった浅野藩のおかげかもしれない。近年、文化向上と各地につくられたコンサートホールが「箱物」と一括されるのは、行政のミスに違いないだろうが、その地方の江戸時代の文化風土からとも思える。

「広島というところは死んだ人のゆくところでもあったようだ。人が死ぬとあの爺さんも広島へたばこを買いにいったげな。とうわさするものがあった。 広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。 宮本常一」
この「私の日本地図 瀬戸内海1」の巻頭の文章が、ブログで広島のパイオニヤの思ったことを見つけてみようと“広島を設計する”と題したわけだ。
“広島でタバコ”は、周防大島からのぞむ広島の山々の下の都市生活への憧れを感じる。“広島と死”は日清戦争からの陸軍駐留する広島だとおもう。

明治になって、M12年ごろから小網町、河原町、舟入あたりが色町となった。陸軍が広島城に駐留をはじめて直ぐ、大山元帥の命令でM25年にあると舟入町に「遊郭」ができた。いまもある羽田別荘はその中核のものだろう。舟入遊郭と呼ばれた。
遊里には必ず、タバコ屋、銭湯、交番、飯屋、床屋・美容院があったもので、二階建、三階建の木造に欄干のある窓などの風情が残っていたりする。

河原町地蔵堂あたりの、どこかポッカリと広い空のある景色を通り過ぎるとき、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ・・」という森村誠一の人間の証明のセリフがなぜか浮かんでくる。明るい、谷間から吹き上がってくる乾いた風の吹く峠でよく浮かんでくるセリフだが、町中で浮かんでくることがある。その風景は誰もがそこで、なにか足早に通り過ぎようとする場所であるようだ。

自転車の上でつつまれる乾いた空気や湿った空気が、自分の気分に作用する。景色は見えない。
大阪・千日前で藤原重助という葬儀屋の息子が、見世物興行に大成功し、新しい歓楽街への発展がはじまった。この重助が「ある日のこと、輸入がはじまって間もない自転車という存在が、・・こいつは千日前にふさわしい商売ものになる、と直感した。道頓堀の辻から極楽橋まで、自転車に乗って往復するだけの日本で最初の貸自転車屋をつくり、大繁盛した。・・自転車に乗ると・・地上からフワッと浮き上がる。自転車がもたらした新感覚の秘密がここにある。完全に地上生活から離脱してしまうと人々は。ほんものの死者になってしまう。ところが自転車に乗ることで、人々は生きたまま“プチ離脱”を果たす快感を味わうのである。・・エンターテイメントの秘密はそれに夢中になっている間、人は日常のわずらわしい人間関係から、しばしの間プチ離脱を果たすことが出来る。自転車が生み出す“離脱感覚”は自分をとりまいている地上世界を見下ろす目を手に入れることができる。その目はじつは“死者”の視線と同じ構造をしている。地上からちょっとだけ離れて!それが処刑場の廃墟の上にうまれたエンタの神様のキャッチフレーズである。 中沢新一」

藤原重助の千日前の貸自転車の大成功が、自転車生産の拠点を堺につくり、その自転車を扱う店の丁稚さんが、後の家電王・松下幸之助になる。死者と自転車との深~い関係である。
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by forumhiroshima | 2014-04-28 22:02
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