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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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広島という町を設計する-17 墓地と遊里

明治28年に西の遊郭が陸軍の大山元帥により、姫路の遊女屋5軒をよび、薬研堀の周囲に作られている。のちの弥生町と平塚町のあたりだという。
薬研堀の西の流川周囲に飲食店街ができたのは明治30年ごろだというから、120年ちかくのキャリアになっているのだ。

川を流川と呼ぶと、流れない川があるのか!と思いたくなる。沖縄の畑の道端で暑くてヘタってしまって、作業されてる人に水の在り処をきいたことがある。指差した先の「カワ!」といわれた。「カワ?」は見えない。井戸のことを「カワ」と呼ぶのだそうで、水が得られる所が「カワ」だと教えられた。なら“流川”は流す川で排水ルートとおもえる。広島城の堀はこの流川に流された。現在ここに流されるものは、水ではなくて、多様に考えられる。縮景園の端にある水路の導入口はここにつながるのか、松原町の川岸で覗き込んだことがある。もちろん見えなかった。“流川”は姿をみせては120年はつづかないのだ。

薬研は薬の砕く細長い先のとがったウスと鋭利なローラーのことで、堀の地名の場合はV字に掘られた水路を指す。流水への抵抗がすくなくて、流れる速度が速い。思い出はすぐに忘却されるという場所らしい。

流川通りを越えて、東進し薬研堀通りをこえると、夜の闇が濃くなる。戦後は警察公認の遊里の赤線地帯で、いまも路地が交錯して古い二階家がある。東遊郭とよばれた。

広島の地下地盤は本川から東が強力な岩盤で高層建築の基礎が作りやすいのだそうだが、このあたりは再開発という高層住宅の建築はすくなく、昼間の空は広い。その明るさがまぶしい町並みだ。中央への立地の良さという経済効率より、歴史的要因が高層建築出現を阻害している。阻害するパワーが町の色合いを選んでいる。高層建築の数をもつほど都市だといわれるが、阻害する場所をもつこと、これも都市の一面かもしれない。

経済効率を阻害する歴史的な場所に出現した大阪のアベノハルカスは近鉄の現状打破のあたらしい一撃だとおもえる。そこは近未来的な場所なのだろうか。各地に同じようにあたらしい一撃は発生するのだろうか。広島の駅前開発も同じ路線だろうか。そろそろ、どうかいな。
スラムから基町高層アパートへ、まではこの眼でみてきた。その時代から、そこを超高層住宅とショッピングモールの時代へ、と広島は歩むのだろうか。流川のおでんの源蔵や柳橋の川魚・小谷が高層建築の中でマックと並ぶ景色は、それはもう、文化の破綻です。先日歩いたハルカスそばの幹線道路に面した場所で、あやしいおばさんが焼いているホルモンの煙が、とても自分には印象深いものだった。

平塚は刑場があったともいわれる。しかし資料はみてはいない。平塚という地名は古く、太田川の河口が幾つかの砂洲であったころにすでに見られる。地名が見られる時代は室町時代より古い。
“塚”は盛り上がった場所で、古墳なども“塚”と呼ばれる。ここの地名の“塚”はどんな景色から付けられたのだろうか。

“塚”本来の意味からすると、盛り上がった塚が平たい、では、どうも“流川”よりたちが悪い。自己矛盾だ。平塚は京橋川の右岸になるが左岸にある比治山に縄文時代の貝塚が見つかっている。貝塚には貝だけでなく、動物やときには人骨も発見される。貝で盛り上がった場所には違いないが、ゴミ捨て場でなくて、墓場でもあったのではないか、ともいわれる。平は比良と同じで、比良は埋葬地、葬送の地だ。京都・比叡山は比良山脈に属し、縄文時代からの聖地だ。比治山の比治は泥のことで、湧く水のある神聖な場所をいう。平塚の平はそんな聖地だと考えたらどうだろうか。

京橋川は古代安芸国の安芸郡と佐伯郡の境界線で、のちにこの境界線は本川に替わる。比治山を中心に東は仁保の海、西は砂洲が幾重にもあらわれている、という景色が広島の古代だろう。だからこの川が境界になっていたのだろう。
この左岸に露出している岩礁があって、いま、釣のえさにする貝を採ってる人もいる。
広島という町を設計する-17 墓地と遊里_d0089494_048013.jpg

この岩礁の岸に千切地蔵堂がある。
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平塚の暗い路地に「おにいさん!!」と呼び込む、大阪でいうと辻君、江戸流だと夜鷹がまだ健在である。まさに岡場所である。「岡」は場所を指すのでなく“傍目・オカメ”のオカで非正規ということ、非公認のお姉さんってこと。浅野藩では岡場所の夜鷹もご法度で、それでは、と「広島では船をねぐらとしてひそかに春をうる“沖合芸子”がいたのである。 沖浦和光」ということだ。船にわたる雁木は広島には400以上もあるから、そういった意味では広島は便利な設定だが、京橋あたりがその渡り場であったらしい。
広島という町を設計する-17 墓地と遊里_d0089494_0483468.jpg

千切地蔵はここが刑場であったことで、千も切ったからだと説明される。それより千日のお経の千日地蔵から千切に替わったと思うが、どうか。岩礁あたりで弱められた流れの淀みが沖合芸子をにせた船頭さんにとって、都合よかったりして。刑場ならば墓所がつきもの。そしてそこに発生する遊里。

比治山は縄文時代の貝塚だけでなく、実は全山が墓所であった。お盆には盆灯篭が西正面からの車道、これが墓所への参道を登ってきたといわれている。比治山神社貝塚の発見された比治山の南に谷にあった黄幡神社が移転されたもので、黄幡神は境界に置かれる神で天上と地上の境を示している。
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比治山の墓は昭和19年にすべての墓標を取り除き合同墓碑にまとめることになり作業がはじまった。原爆で作業は放棄され散乱する墓標の山となっていた。ここの墓所の一つに比治山陸軍墓地が黄幡谷の上にある。散乱している墓標を昭和30年から5年をかけてボランティアの人たちで整理され、明治の西南の役から日清、日露、第一次、二次大戦での戦死者を外国の捕虜もふくめて墓地が再建されている。
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海を見下ろす外人墓地で 君と別れた霧の夜 サファイア色のまなざしが 
燃える心に まだ残る ああ 長崎の 長崎の人

墓地から木々が育つまでは海が見えた。すぐ下のR2のヘッドライトが流れて 夜が一番いいところだったな。広島の沖合芸子さんには、青い目の芸子さんがいたのだろうか。このごろは墓地なんて歌詞にならないのだろうな。聖地は墓地なんだが。

高杉晋作がつくった奇兵隊の墓所になる、晋作の発案の桜山招魂社が、封建制度の藩の枠をこえて祀った戦没者の最初のもので、司馬遼太郎はこの招魂という神仏に無関係の墓所の発生が、日本という国家の姿が現れた最初の現象ではないかと、いっている。のち招魂社は各地に作られ、それが東京・九段の東京招魂社にまとめられ、後の靖国神社となった。
司馬遼太郎は「幕藩時代 幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば、法的に“私ワタクシ”であった。  新国家としては、日本におけるあたらしい“公”として、戦死者たちの“私死”を“公死”とする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は“公”とも国家ともいえない存在になる。 招魂 司馬遼太郎」いうことをいっている。無宗教施設であった招魂社が、靖国神社と変わり、政治的”私”により変化してゆくことへの司馬さんの憤りをつよく感じる。政府関係者の“私”としての参拝とは、なにだろうか?

高杉晋作は明治の始まりとされる二年前に倒幕の道筋をつけた。その年に肺結核を発病している。「藩では晋作の病状がおもわしくないことにおどろき、その医療については十二分なことをした。藩主の侍医を主張さきから呼び返て晋作の診療にあたらせたことであった。すでに救国の英雄の待遇をうけつつあり 」「晋作は自分の病態が容易なものでないことに覚悟をすえざるをえなかった。転居については、医師の意見によるものであった。場所は下関郊外である。桜山という名の丘のふもとで竹藪そばの独立家屋であった。」「この桜山の上には招魂社がある。“招魂社に入るべきおれが墓守になってしまった。せめて落ち葉でも掃きたい”と晋作はつぶやき   司馬遼太郎 世に棲む日々」

また、靖国神社の参拝や発言がニュースになっている。政府関係者全員で、終戦の日に広島陸軍墓地に参拝し、“私”の清掃奉仕をしたというニュースを一度聞きたい。いいところです。

やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下でさぞかし
待つだろう おっかさん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ
兄さんも
※この二番の歌詞はNHKで一度も放送されてない、のだそうだ。

高杉晋作の墓所は“吉田”という病床での、にうわごとで吉田の地におかれた。松蔭の墓所をいっていたのでは?ともいわれる。
「下関の吉原とでもいうべき遊里の裏町の店に上がり、妓をあげた。ちょっと妙なおんなでひどく無口だった。“旦那さん お名前は”とぐらいは普通きくものだが、女はそれもきかない。“こいつ阿呆か”と晋作はそれだけでひどく気に入った。そのくせ阿呆でない証拠に、酌だけは晋作の呼吸にあわせてうまくついでくれる。“おまえ なんという名だ”女はちょっと微笑ワライ“おうの”と、唇の奥で舌を動かす様子が、下から見ている晋作に可愛く見えた。“うまれはどこだ”“存じまへん”と邪気なげに笑っている。ついでながら、彼女には語ったところで詮のない事柄はいっさい語らなかった。“この阿呆を落籍ヒカセたい”とあけ方の寝床のなかで心からおもい、それとおなじほど長州の俗論党征伐の方法を考えた。世に棲む日々」
晋作の墓のそばに建てられた庵で、おうのが尼となってそれから17年の生涯の墓守となった。
「死後に墓前にて芸妓を集め、三弦など鳴らしお祭り下され候よう、頼み奉り候」と死後みつかった遺言にあった。”芸妓・おうの”によって、その願いは、かなった。

やっと、広島という町を設計したこの風土への妄想をおわります。
by forumhiroshima | 2014-04-30 01:15
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