こひちろうの独り言 |
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向洋は古代には島だったという地図がHP・山陽道歴史探訪にある。いつごろかはわからない。
![]() その後府中とつながって半島になった。 ![]() その半島をまた切り開いて島にしたのが“平清盛”だという伝承があって、、切り開きを始めた場所を“堀口”開いた場所を“堀越”とよんだ地名伝説がのこった。清盛の夕日に残業させて、音戸の瀬戸を切り開いたという伝説ににている。 音戸の瀬戸は昭和26年、そのころの運輸省が開削工事をしている。その工事の運輸省の担当責任者の長野正孝さんが書かれた「広島港発達史」のなかで、清盛時代の音戸開削では“人海戦術では水深1m程度まで”であろうといっている。中国の宋時代の大型帆船の航行は無理で、小船による航行がやっとであったろう、と書いている。古代の開削とは? 「石工は岩に穴をあけ、そこに火薬をつめて割る。男海人・アマ、一人と女海人二人が潜って岩にロープをしっかりかける。干潮時にその上に舟をおいて丸太をかけ、そこにロープをくくりつける。潮が満ちてくると舟は浮き上がり、岩が海底から離れて、そろりと深い場所にはこぶ」と対馬の橋本米松じいさんが自分達の港の開削について常一さんに話している。かなりの深さまで開削できると。現代、海人には公務員はいないだろう。長野さんも思いつかないよね。古代では海人の安曇氏が海軍大将だった。古代人もその子孫の海人も、海の土木工事の専門家であることは、あたりまえだった。 向洋の古い集落から細い路地が高架のR2に平行して坂を登るとR2をこえる架橋にでる。造成された住宅地と国道との連絡橋、この道は向洋の旧集落が山越えで堀越にでて、船越や府中につながる唯一の古道の道でもある。というのは、その他の道はすべて海岸線にでてしまう。海岸に道がつくられたのは江戸時代の中期以降の埋立によるのだから、この山道は古いはずだ。 車道に拡張された古道が橋のたもとからすぐに車道から別れ、それは細い路地になって住宅の間にはいっていく。車道から路地への分岐に「疱瘡神社へのみち」とかかれた小さなプレートがあった。 ![]() 治承3年(1179年)平清盛と、源義朝のあいだに源義経を生んだ常盤御前との間にできた天女姫が病におかされたとき、宮島に清盛が姫をつれて参拝したが、はかなく亡くなった。その姫の遺骸を埋める場所をさがすと、厳島南無大明神があらわれ、ここより7里東に赤旗のたっている山があり、そこを拝所とし、そこから東へ八間のところに埋葬しろとお告げがあった。その場所が向灘で、埋葬地に目印に栴檀の木を植えた。そうして、遺骸を狐や狼からまもるために、切り開き向洋を島とした。という。そのころ人々を苦しめていた疱瘡の病から、天女姫が守るだろうとされ、疱瘡神の社となったのだそうだ。常盤御前が清盛の娘を産んだかどうか?そんな、そこへの「疱瘡神社へのみち」。 小さな畑と住宅の間から見えるサクラの大木の下にある小さなお堂が疱瘡神社で、春の満開にはR2からもよく見える。とても気になる、ひきつけられる景色だ。 ![]() 神社から丘の斜面にそってうねって下る手すりのある道はちいさな峠にでる。 ![]() そばに本川井戸と呼ばれる井戸が残っている。清盛がおこなった開削工事の作業員たちの飲み水として使用されたと案内板が掲げられている。 ![]() 井戸から東へ小さな峠を越える手前に今宮神社が鎮座して、あたりにゆるーい田舎時間が漂ってくる。ここの神社にも天女姫が祭られる。鍵屋と名がつく峠を越してくだると、的場川の河畔にでる。田舎道のこのコースはとても印象深い。平地に降りると、正面の日本製鋼の工場のフェンスの中に鳥居がみえる。地図で延命神社とあるが構内で、参拝できるのだろうか?。入口の守衛室には立ち寄らなかった。延命とあるからここも天女姫が鎮座されているだろう。 神話の時代、神武天皇は九州から安芸国へむかい、府中の埃宮・エノミヤに入るとき海田湾から舟を陸にあげて越したから船越という伝承もこのあたりにのこっている。船越、堀越、なぜだ!。 日本鋼管の神社横のフェンスから振り返ると、疱瘡神社のサクラの木がそそりたってみえる。的場川をすこし遡ると、こんどは今宮神社が、切り立った丘の端にみえる。 ![]() 東には岩滝山の山腹の岩場もみえる。「的場」の地名は古代の官道路設置のルート設計の基点となった地に付けられている地名で、船越や堀越の地名が並んでいるこの古代海田湾の西端になにか訳あり、か!。「なにか」に捕われだした。その「なにか」は地名だけでなく、大明神はお告げした“赤旗を建ててある場所”の御神託もあやしい。 追加資料を見つけてしまった。天女姫埋葬のあと「相国・清盛そばの岩鼻に立ち西を遥かに伏し拝み、南無極楽寺の観音仰ぎ祈り給えば、不思議や観世音此処に来り告げて曰く、我ら共に力を合わせ衆生を護り申さんと告げ、失せ給う。・・」 五日市の極楽寺がでてきた。この極楽寺は厳島神社の真北の極楽寺山の東尾根にあって、神社と寺とをむすぶ真の南北ラインは管絃祭で厳島大明神の御旅所の地御前神社を通るという、わたしの大好きな、「なぜ、そこにあるのか」問題のひとつの方程式である方位の場所だ。 ならば、疱瘡神社が赤い旗と的場川と堀越工事に関係ない訳はない!のだ。すぐに地図を調べたい。 地図はパソコンのカシミール3D。すぐに距離や緯度経度が計測される。まず日本精鋼構内の延命神社にカーソル。そこから的場神社から分岐して北上する掘割がスタートしているからだ。この北上のラインはすぐにわかった。船越峠から南西にのびる尾根の先端のピークがラインの正面奥にある。堀はこのピークから真南に開かれている。ピークと延命神社の関係はどうなるのか。というのは神社が日本精鋼の構内に残される。神社は時代の圧力にも動かしにくい。しかしこのあたりの川筋の変化はハンパではないだろうから。日本精鋼の土地はじつはマツダの創設者の松田重次郎の土地だった。それを譲渡した経過がある。土地のおおきな変化があったことはちがいない。 疱瘡神社の丘と延命神社の関係を考える。疱瘡神社の位置に国土地理院の三角点の標識が置かれている。地図を作成するときの三角測量の基点がしめされているが、そこは古代からそして現在の海の航行者たちにとっても“あて山”などとよばれるポイントで、国土地理院の測定ポイントにえらばれた理由もそんなところにある。めだつポイントなのだ。 海田の信仰のポイントである岩滝神社のある岩滝山の尾根にも三角点がある。岩滝の滝は“崖”で岩の崖の意味ととれる。その印象深い場所が神聖なポイントだとされ神社もおかれたのだろうか。その三角点と疱瘡神社とをつなぐラインが延命神社を通過した。そして正三角形があらわれた。30,60,90度はもっとも手に入れやすい角度だ。設計図とともに測定しやすい。延命神社の位置取りの決定ができた。(と、思うけど。これ面白い) ![]() 疱瘡神社もバリバリの三角点だから、基点の資格は国土地理院保証の最高ブランドではあるが。実際に目立つのだが、清盛伝説の西の極楽寺と赤旗と、印象深い伝承がラインとしてあらわれない。 極楽寺は北緯N35.23.15.37疱瘡神社はN34.22.12.58。緯度1分は1852M。この両者の位置は東西で2KMほども違う。赤旗は平家といえば、納得するけど、工事用の標識というほうが、納得できる。神社は人がつくったもの、だけど、そこには土地神・地祇を祀る場所として決められて、なにか都合いいから、ここでいいや!ってものでないだろう。そのこだわりを時間を越えて、今誰も感じているのではないだろうか。 清盛、厳島神社、極楽寺と後の付会の伝承といえば、それまでだが、・・。いつかこの訳つかまえてやる! ふと地図をみていて、仁保島の竈神社の丘と今宮神社の丘とが“青崎の渡”のラインに近いことに気付いた。仁保・渕崎の渡部氏の御宅そばにその渡しの船着場があった。今は丘は高速道路の高架によってさえぎられている。見通しは失われた。 この渡しの船頭さんはこの両岸の丘を目印にギッチラギッチラ。渡し場のふるい江戸時代の光景がふわーっと目の前を横切っていった。ほんとに見えたよ。見えたよ!。 み ![]() ![]()
by forumhiroshima
| 2014-10-21 13:47
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