こひちろうの独り言 |
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府中町郷土資料館は入館無料。そこに戦国時代の府中町推定地図があった。古代の山陽道は町の北面の甲越峠をぬけている。江戸時代の西国街道にある神武天皇伝承地の船越峠の標示はそこになかった。いつごろ神武伝承はできたのだろうか。
その地図に府中湾と地名が記載されていている。府中湾?? 「日本書紀」に“夜の虹”がある。伊勢神宮の斎宮・タクハタ姫とその警固人・武彦との間に「武彦、皇女を姧し・ケガシまつりて任身・ハラましめたり」との噂がたった。皇女は神に使いする人で人とまじわることは許されない。皇女は神の象徴の鏡をもって、姿をくらませた。天皇は皇女を探させた。皇女は五十鈴川をさかのぼり河上で鏡を埋め、自殺した。夜になり、地面から虹がでている場所をみつけ、そこを掘ると皇女が持ち去った鏡がみつかった。噂は真実でないことを身を持って姫はしめしたから夜の虹があったと。武彦の父はそれでも、息子を叱責し殺してしまった。夜の虹がゆれる。 またこの父・イオリ部キコユに災いが起こる。娘のハタ媛が宮中で首輪を盗み、その事が発覚しハタ媛は奴隷に落され、父は自分が所有する安芸国の過戸・アマルベを天皇に屯倉として奉った。 夜の虹の話に印象が深くて。実はいいたのは、“安芸の過戸”とあることだ。過戸はいまの宮の町付近だという。 府中戦国時代の地図がこの虹を思い出させた。過戸と書かれるが、天皇の屯倉になった過去の余戸という意味だろうか。余戸は海人・アマの、戸・集落だ。戦国時代までも、府中は海の民の集落、海岸にある集落が暮らしがあったということだ。仁保の海はとても広かった。夜の虹の事件は533年のことと日本書記は記載している。 古代山陽道は府中から戸坂へ抜けている。船越からの西国街道は古代山陽道と分岐する。西国街道は岩鼻から市中へむかう。この分岐は、この町は開発が激しくて手がかりもないのだろう、資料を探してもみつからない。が、宮の町は路地がとても楽しい。懐かしい。 府中町内から北へ抜けた。みくまれ峡では砂防工事がおこなわれていた。工事フェンスのむこうに埃まみれで水分神社が鎮座している。 神社横から登ると、今は消失した岩屋観音の鎮座所へでる。この観音の遥拝所ではないか、とおもったりするが、ここは“ミクマレ”と呼ばれる水分様だ。いらんこと、いわないことです。川筋にそって上る。紅葉がまだ盛りだ。川上にため池がある。 神社脇の川下から分水されて、府中の西端まで流れでる疎水がある。案内版にこの疎水は1000年まえからとある。「線香水」とよばれている。線香が燃え尽きる時間で水の分配をしたといわれる。 まさに“水分”である。正確に流す時間を決定するシステムが夜刀の神と争って、刀を使う力技であったことより、平和的である。 線香水とよばれた疎水は流れにいくつかの取水口があって、その堰を空ける時間が指定されたのかもしれない。「古墳はその土地の領主の墓所としてつくられるが、それには労力のほか鉄製の作業道具、鋤、鍬、モッコなどが用意されす。その力がため池をつくり水路が引かれて古墳の前面が水田化する。土地に刻まれた歴史・古島敏雄」 線香水のそばに古墳がある。いまもそばに墓所がひろがっている。古墳はすっかり住宅の中でけずられてやせ細っている。6世紀につくられたというこの古墳にはきっと回りに環濠があったにちがいないと想像する。疎水の水をためて、より多くの灌漑手段にすることができる。7世紀にこの疎水の下方に条里制の田がつくられている。夜の虹にある不幸な父親イオリ部キコユが献上した屯倉はこのあたりにもあったかも知れない。8世紀の記憶だ。 線香水にそってある細い道の景色はとても美しい。好きな数キロのサイクリングロードだ。そしてルートの後半に出くわすひろい畑とそばの田園の風景、そのむこうに広がる景色、古代海であった景色、は奈良の盆地の東の麓に南北にある「山辺の道」を思い出す。いや、ここの道そばにコンコンと流れる疎水の湿気と水音は奈良のそれを凌駕していると思っている。が、新しい住宅がつくられている。 奈良の山辺の道に自転車持ち込んだのは、いいとしてもルートは人の離合がむつかしいほどの細さのところもあって、単に自転車は押して歩く荷物になってしまった。ルートをはずれて、見通しのよい場所で大和三山の霞む景色をボーっと見ていた。そのとき線香水から見た比治山や黄金山の景色がだぶって思い出された。 いつもどこでも、自転車ではしると、目の前から今の景色が消えて、きっと人が住む前の原始はこうなんじゃないか?と想像して思う。もつろん疑問なく妄想というのだろう。 だが、その妄想もこの線香水の道では必要ないようだ。海辺からすこし高い葦の原の山際に川の流れから水流を引き込み、畦道をつくり葦を刈り込んで田に変えていった景色がそこに見えるのだから。歴史がはじまる景色が。古墳時代と学者たちが区分した時代がいま、今につながるのだ。 そしてまたまた妄想が湧き出てくる。開発のその工事のスポンサーは古代の府中の豪族・田所氏たち。彼らは宮島の神官でもあり宮島では佐伯氏と呼ばれていた。彼らの一族は安芸国の国造であり、海の領主でその領地を“江の内”とよんでいた。・・・のだ!。?。田所明神社の神主はいまも田所氏だ。 線香水が住宅の間で暗渠になって、どこかで府中大川に入ったようだ。もう、夜の虹は見られないだろうか。
by forumhiroshima
| 2014-12-08 20:13
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