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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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400年の墓守

660年朝鮮半島に唐と新羅国との戦いの百済国救済のために、中大兄皇子が半島へ出兵させた員数は11万数千、22万余、31万余だという。吉備国風土記に今の倉敷から総社あたりで兵士を募集すると2万が集まったとある。このことから地名を邇摩・ニマとした、話がある。古代瀬戸内海の海人たちの数はすさまじい程に感じる。奈良時代の瀬戸内の推計人口は60万ほどともいわれる (鬼頭宏 人口からよむ歴史)のだから。

毛利元就が大阪・石山寺へ送り出した兵糧船600余、警固船300余であったから900艘の船が動いた。この派兵の中の大半に川内衆とよばれる牛田と仁保海の海人たちがいた。1艘やく十数名の乗員というから、それほどの彼らの基地となる港はどこにあったのだろう。

府中町の石井城の豆腐屋さんがとても気になって寝られない。細い側溝にも透明な水がながれ、暗渠からも水音がこぼれる。旧榎川川道の上にある豆腐屋の豆腐がうまくないはずがない。豆腐は水をつつんでいる食品なのだから。と、朝走った。木綿は売り切れで絹しかなかった。

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JR線そばのマツダスタジアム横を東へむかい、JR線をくぐって抜けている、人と自転車専用のトンネル、通称“ヘビトンネル”を出るて、広島駅-府中土橋の幹線車道をこえる高架橋で尾長の細い旧道に入れる。準?自転車道である。中山の踏み切りまで信号ナシ。

この古道におおきな石造りの灯篭がある。神社近くにもノッポの石灯籠が鎮座する。“ヨッテラッシャイ、ヨッテラッシャイ、お兄さん!”と夜になるとさそったのだろうか、ナゼニ、ここにあるのか。

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府中の町の豆腐をゲット!ウエストバックにスーパーの刺身パックにつく小袋の醤油とちいさなスプーンをしのばせて、10時のおやつ用である。豆腐屋からとってかえす路地角に下久禰の石灯籠よ説明版のある灯篭を見つけた。この火が矢賀から見えたとある。

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そばに巨木のむくの木もみえる。
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このあたりは鎌倉時代の図では早馬立とある。古代山陽道の駅・早馬館ハヤウマダテではないかと言われる。今は鶴江だが、“つる”は連なる・ツララの仲間で鶴江は平な土地にながれる川の意味がある。この北側に江戸期に船隠・フナカクシとよばれる場所があったといい、川湊、船の碇泊地だろうか。古代山陽道が海と接するのは備後・府中から西ではここが最初の場所。

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明治35年の地図で鶴江の北に磯合の地名が見える。海と川が合う場所のことで、このあたりは貝塚が見つかっている。鎌倉時代地図では府中本町あたりが“浜”と表記されていた。“浜”は当然砂浜であるが、塩田をおこなったことで“浜”と現すことがある。船着場ではない。磯は岩礁の海岸だ。ここは船着場になれる地形になる。

鶴江の郵便局の前から温品バイパスの高架がみえる尾根方向へ登ると、一つ目の尾根が切れて小さな谷間に出逢う。そこの石段の上に金碇明神が鎮座している。

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拝殿に由来が掲げてある。「AC360年ごろ、神功皇后が百済国の要請で半島に出兵され大勝された帰りにこの地に碇泊された。出航しようとしたが、碇が揚がらない。そのとき白髪の老人が現れ、“竜宮の怒りに触れたようだから、さっそくに碇を切って出航されよ、私は海岸の大楠の根元の石である”といって消えた。皇后は感謝し家臣をこの地に残し、老人のご神体を祀ってきた。この地は底なしの沼で、いつも赤錆が浮き出た。」とある。これでもけっこう意味をつないだのだが、由来にかかれている意味が通じてこない。揚がらなきゃ、綱切ること考えるよな。普通ジャン!それに、石からサビ?

神社の上の尾根をはしっている温品バイパスの入口は間所と標示されている。由来の底なし沼を“沼どころ”といっていたが、いつかマドコロ・間所にいわれだしたと教育委員会の古代山陽道の解説にあった。この湿地の温品川が水尾川とよばれたことがある。水尾は“ミオ・澪“、豪雨で氾濫した川の水量が収まってからつくられた流れ。これを船の航行のラインに使う。淀川ではこの澪を整備して標識を立てることがあって、これを澪つくしと呼んだ。この”つくし“は春のつくしとおなじく、立てた棒のこと。NHKの朝ドラの”澪つくし“が出世作のヒロインは、いま”科捜研の女“マリコさんになっている。科学捜査の方向性をきめる澪ツクシの女神って役が、イイネ!

神社の横の尾根を岩屋観音に登るルートがあったが、バイパスができて、今どうなったか、わからない。岩屋観音はずっと前に消失して再建されていない。このごろの地図から消えている。聞いた話だが、消えず火があって、その始末で消失したとあった。南にある黄金山の観音寺からの北正面に岩屋観音の尾根があって、秋になって温品の上手の馬木から朝霧が下りてきて、岩屋の尾根に朝陽があたると、霧がうごめきだす。うつくしい。観音様が降臨したようで、祠がなくても岩屋観音の存在が感じられる。

金碇神社の拝殿から石段を降りると、境内奥に民家がある。社家とよばれる神主さんの家だろうか。檜山の表札がでている。すぐ“火山”を連想した。火山は祇園にも、倉橋の本浦にもある。のろし山だという。私は海人のアテ山ではなかろうか、と思っている。景色のなかで判別しやすいランドマークだ。夜、篝火を焚けば、すぐに位置が知れる。岩屋観音の消えずの火はこの篝火で、宮島・弥山の消えずの火も夜のランドマークであったのかも。岩屋観音の火を、この金碇明神が管理していたのでは?などと表札から妄想する。観音のある高尾山全体が石灯籠だったりして。この神社から尾根道を小一時間で往復できるのだから。・・のぞいてみたが、留守だった。由来にあった神功皇后が置いていった家臣の末裔なんて、伝承があったりしてないか?聞いてみたかった。

そろそろ、豆腐試食タイムだと、戸坂へぬける中山峠へ向う古代山陽道(といっても、すっかり車の幹線)のもっと山へ入るルートに向った。本屋で立ち読みした都市図に山中に“帆立不動”の名があって、この名はグーグルやマピオンなどのネット地図では見つからなかった。さがしに走るしかない!と。

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白島の碇神社が広島城の外堀の排水をする平田屋川の設計基点ではないか、と妄想していたが、碇を碇泊の留まると考えなくてはと、この金碇神社でおもった。そして可部に帆立の地名があって、そこが古い碇泊地である。太田川と温品川(府中大川)との類似に引かれた。

帆立不動の位置には祠すら見つからない。ちょうど旧家とおもえる大きな農家の前庭の草むしりされているおばあさんをみつけて、尋ねてみた。まったく、知らないし、見当たらない、と返事されてガッカリ。すると、墓へ行けとおっしゃる。ご主人が後ろの森にある古い墓所の暮れの掃除に行っている。すぐだから、そこへいってみろ、といきなり先導されだした。あわてて、自転車そばに置いて畔道をついて歩く。いよいよ細くなったふみ跡ほどの道が森にはいいって暗くなった。しばらくして眼が明るさになれると、木立のなかに老人と奇妙な石造物がいくつも規則正しくならんであった。おばあさんはそこで、くるり、と反転して、黙って引き返して、残された自分がなぜここにきたか、を説明しはじめた。

その説明を聞く間もなく、老人がこの正方形の石造物が武田氏滅亡のとき、城内に招かれていた信州の高僧たちのもので、それは落城したあとここに毛利輝元が庵をたてて、高僧たちの暮らしを支えたのだと、とぎれとぎれに話される。銀山城の麓に安芸国の最初の浄土真宗の寺の仏護寺を武田氏が造ったといわれている。そこらとの関係を聞くと、中山町史を読め、とおっしゃる。そこからこの中山の歴史の話がだんだん広がってくる。もうおじいさんをだれも止めることはできない。おばあさんにやられた!主人の歴史好きの話にうんざりしているが、でも聞いてくれる人がいると主人がうれしがるから、自分もうれしい、ってことか。責任逃れですよ、おばあさん。でもそんな景色はいつも自分のそばにあるのです。反省!

話は毛利元就の妾の子の二宮太郎左衛門がこの高僧たちのお守り役で、となったとき、もしや広島城普請奉行の二宮さんですか、そうだ、その二宮家は萩へのお国替えの際に温品の奥の馬木で帰農して、その一族が、ジャジャン「私です」ジャーン。

おじいさんの目線が木立の間からみえる温品川河畔の商業施設の向うの黄金山の方向へ代わった。そのころ(ここに庵があったころ)この向うは海じゃったのよ。坊さんたちは帰れんかったのかの。

そのときおばあさんが現れた。しめた!帰れる。お茶を用意したけえ、うちへきんさい。帰れん。

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豆腐はわがストーブのうえで湯豆腐にその日の夕餉なりました。とってもうまかった。


by forumhiroshima | 2014-12-26 10:07
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