こひちろうの独り言 |
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府中の豆腐屋さんに黄金山麓からゆくにJRをくぐる天神川駅のトンネルを使った。駅前に駅名となった“天神川”の散歩のルートの案内板を見つけた。川は暗渠になっている。源流は長尾天満宮とあった。 小学生の頃には、広島の川は七つであったが、中学生のころに六つに変った。太田川放水路が開削されたとき、山手川が拡がり福島川が埋め立てられて六つに変った。ここの天神川で、広島の川は実は八つであったことになるのかと思ったりする。そして今が七つ。 天満宮神社は地域の境界線に建立されることが多い、とは宮本常一の指摘で、悪霊防御の神様。天を雨雲で覆い、その割れ目から光こぼれる現れる雷の神様で、祭神の左遷された高級官僚の菅原道真の怨念が遮る魂を祀るともいう。雷に”クワバ,ラクワバラ”というのは道真公の住居が京都のいまの御所の南の桑原町にあったからだと、面白い。旱には天を覆い雨を遮る悪霊を祈ることで、遮る力が失せて、雷が雨をともなって降り出す。境界御守の神としてではなく、天空の水の神様であることが、この天神川の源流に鎮座させたのだろうか。今、その霊力を恐れて、埋め立てることなく広島の八つ目の影の川の存在に覆いをかけ、それでもそれを散策する案内板までできるとは・・・。隠れながら現す“カオス・隈”の道真公の威力が現代に利いている、か。 まだ秀吉存命時、毛利の広島城の造営のころ、城が島普請とよばれる埋立地に建設された。そのころの古地図に、双葉山の山麓に「古川」がいまの猿侯川の北側、ちょうどJRの路線付近にそって記載されていた。太田川の二葉里・常盤橋あたりからの分流であるかの様子だ。 天神川散策の標識では府中大河に天神川河口が大洲・マツダ体育館そばに流れ込み、JR天神川駅からの上流は、路線にそって暗渠で西へ向っている。 天神川の暗渠はコンクリートでふたをされて、道路からの区分の車止めが置かれている。暗渠には家々の裏ばかり。さびしい蓋をされた景色、荒涼感も漂う。 石段の上に随身門・ズイシンモンがドッシリ鎮座している。笹と松とで正月の飾りをまとった鳥居のそばに坐って、すこしだけの登りのある、はば広い坂を眺める。 神社の門の横に「・・・当時安芸の守であった平清盛がこの峰にさしかかり、大豪雨と激しい落雷にあい絶体絶命に追いこめられ、そのとき菅原道真に加護を祈ったところ九死に一生を得ました」と由来書き。 広島湾・江の口の海の歴史は、歴史上の著名人の伝承で埋まっている。東征の途中数年を過ごしたという神武天皇、朝鮮半島遠征の帰りに立ち寄った神功皇后、厳島の海戦で勝利し西国の王者となった毛利輝元、その厳島神社社殿造営の平清盛。メジャーなラインアップ。 その清盛が安芸守となったのが29歳のとき、このころすでに厳島神社の造営に着手していたといわれる。菅原道真の大宰府赴任の250年後のこと。 神社境内に入ると、拝殿から祈祷の太鼓が聞こえてくる。正月の参拝客も多い。境内の東に小さな流れがあって、その奥が天神川の水源だとのカンバン。 清盛は厳島神社造営、京都・東山千一体観音三十三間堂、神戸・福原の港湾と市街地建設、熊野本宮造営等の大建築家で巨大投資家だ。それにしては、ここの社殿は淋しい、です。 音戸開削、向洋・堀越開削と水路の整備も清盛の伝承。その中でこの尾長に清盛伝説とは、いかな訳が? 鳥居のそばにすわっている。ゆっくりの時間が心地よい。目の前の景色の東の尾根は天神川を遡ったルートの出発点のJR駅へ、尾長山からの尾根が落ち込んでいる。尾根というより高層マンションの林のようだ。そこに大内越と呼ばれる峠があって、九州の北部と山口を領地とした大内氏が安芸へ進出した際に通過したから大内越の伝承からの地名だという。このオオウチは入りくんだ谷のことだと地名研究家はいう。府中・国府を通る古代山陽道が中山で分岐して太田川河口へはいるルートがここにあった。 大内越の尾根の南への、その端に以前岩山があって「岩鼻」と呼ばれていた。この岩鼻の東に府中大河がながれ、西から流れてくる猿侯川が落ち合ってそこに砂洲を仁保の海に伸ばした。いまの大洲町、マツダ体育館がその先っぽに造られている。 この砂洲が成長すると、対岸の府中大河の左岸、東側に砂が堆積し古代山陽道の太田川河口への分岐が川を渡るルートに変わりだす。ここに橋がわたされ、いま土橋の地名でのこり、旧府中市街へ向っていたルートが岩鼻へ、府中大通りという官道の名で直線にかわったと思われる。古代山陽道は西国街道と名を換え、広島城下へ引き込まれた。毛利氏のあと福島氏の時代のこと。温品、中山という古代の船舶碇泊地は泥の湿地になり、いまはJRの車両基地となっている。 平清盛が、尾長天神を訪ねていることがあったとしたら。そんな妄想をもつのは、この坂の下辺りが太宰原とよばれていたからだ。平清盛は41歳ごろに大宰府の長官に就任している。 清盛のお父さんの忠盛は白河法皇の側近であって、法皇の愛人の懐妊した祇園の女御を娶り清盛を生んだ(平家物語)といわれて、清盛は法皇の子になるという伝承がある。先般の大河ドラマでご承知だろう。忠盛は瀬戸内海を地盤とし、朝廷から海賊鎮撫の役目を利用して海上商業の利権もにぎっていた。さらに中国・宋の商人との取引のために九州・大宰府の承認を得ず、許可書類を偽造して大宰府長官から訴えられている。その大宰府の許認可の権利を清盛は握ったことになる。巨大プロジェクトの資金はいくらでも生み出せそうだ。 海外渡航の外洋船が日本にはなかった。宋との海外貿易は中国本土や朝鮮半島に拠点を置く中国人が行うのだが、国内への渡来の許可や航路の通行については大宰府がおこなっている。また九州地域すべての納税物はいったん大宰府に集められ、そこから門司で指示されて都へ船で運搬された。門司は指示する関門だった。たとえ日向・宮崎での作物も大宰府へいったん送られた。その官の資材・物資にかかわる各地の作業所に勧請されたのが天満宮ではないか?。だから、ここに太宰原の地名があった、のでは?。古代山陽道にも府中大河の奥の船溜りにも近い。 大宰府から門司をとおり瀬戸内海の北岸を航行するルートが官の物資の正規指定運搬ルートで、だからそこに海賊が待ちかまえていた。荷物は動かなきゃ、山賊も海賊もあらわれない。その海賊たちを取り締まる役目と朝廷の物資の上前をはねることよりも、もっと巨大な海外貿易の利権を握った清盛は、その下請けの土地、土地の豪族たちには分け前を配ってくれる神様であっただろう。でも、長官が胡散臭くても国府や大宰府の官僚たちは監視し指導したろう。うるさい存在であった。その人たちの目に付かない場所さがしを清盛に指示された地元の豪族はたやすいことで、たとえばこの太宰原は平安時代には、太田川の氾濫の水は引いて現れた水面上にでた土地、海岸段丘とよばれる場所、いまの松原町や荒神町が少しの高地に家屋が建てられ、そこに道やのちに近代には鉄道の路線が設置される。その裏側の水溜りや、河道は洪水ごとに変化する定住しにくい場所だが、表の仁保の海からは隠れている。それが今の光町、太宰原ではなかったか。大宰府の公的な作業場だとされれば地元の官僚たちには手も出せない。 などと、坂の上の石段で思ったりした。太宰原はのちに埋まったり、埋められたりした湿地帯であったにちがいない。不毛と土地は、明治に陸軍の演習場になって、終戦を迎えている。陽の当たり方で水分を含んだ路面は薄っすらと光を反射する。光町の命名理由をそんな妄想の中で思ったりした。 江の口の海を支配した平清盛の影を、うろうろして、捕まえてみたいものだ。坂の石段から、立ち上がって、ウッシッシ、マーボ豆腐屋へ、。
by forumhiroshima
| 2015-01-11 20:17
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