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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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中山、茗荷、妙高

山根町から東へ大内越で中山町に入る。住宅地が拡がる町に中山の地名、どうなん?

中山、茗荷、妙高_d0089494_01040138.jpg

備後国国府・府中から神石郡へ北上するルートの甘南備神社あたりが、「茗荷」という地名で道はここで峠に登りだす。ここにはスサノオの到来の伝承があって古い雲州街道だという。この道の左右に神社参道の石段が正面に対峙する二つの大きな神社があった。神社本殿の向きも対峙している。そびえる杉の森がさらに印象深い不思議さを漂わせる。まさに森閑。

この「茗荷」といは「中・ナカ」を「名香・ミョウカ」と読み替えた呼び名で「妙高・ミョウコウ」もおなじ中山の読み方の変換地名だという。

中山、茗荷、妙高_d0089494_00594293.jpg

“茗荷”の地名はけっこう各地にあって、出逢うたびにミョウガな気分(サムイ!)。美作と伯耆の国境にも茗荷峠がある。「三日月の中山」と呼ばれる。いまは廃道古代伯耆街道になっている。中山を茗荷と変換してまで表す信仰の強さ、なのだろうか。“中山”の地名に特別に込められた“なにか?”があるのだろうか。


TVでコメンテーターであったタレントさんに、いつの間にか大学教授の肩書きが加わっていたりするが、TV創成期にタレント大学教授の走りだった慶応の国文学の池田弥三郎というコメントが面白い先生がおられた。その先生が「中山」について「天と地との神の居処の中継ぎの山で平地の小高い山。そこに神が降臨する。 かむなび考」と書いているのを見つけた。その中継ぎとは。


“中山”をとりあげたよき知られた歌がある。西行法師の“年たけてまた越ゆべしと思いきやいのちなりけり小夜の中山”と年老いて越える静岡県掛川、大井川の西の小夜の中山峠での歌。ここは古代東海道のルートになっている。この歌を本歌取りして芭蕉は“中山や越路も月はまた命”がある。この越路は越える道ではなく、越中・妙高市!の“越の中山”だとも、福井の越の中山ともいう。


歌は中山と呼ばれる“峠”を越すのでなく、ここは特別であるのだよ!と区分された“中山”、越の国の“越の中山”の月で、それは「神が降臨する中継地、中山」なのだろうか。旅の巨人たちが、“中山”峠を越えることに、強い感慨をもったことは伝わってくるのだが、巨人達の感傷をわきあげる“訳”はなにだろう。

月夜の越路を詠んだのは芭蕉だが、雪の越路を芸名にしたのはコーチャン・越路吹雪、新潟に赴任していたお父さんの命名だとウイキは書いている。この“越路”は、中山なのだろう。愛の賛歌を歌うコーチャンには神がたしかに降臨していた。「中山」は“歌”でもあるようだ。


だが、彼ら、旅人たちの“中山”を歌うことで現す心情をさがすのでなく、彼らを歌わせる土地神を探したい。大地が人を動かすのだ、と人のフィジカルとのかかわりを考える。


これまで自転車で走った中山を思い出してみる。「真金ふく吉備の中山帯にせる細谷川のおとのさやけさ」古今集の歌がある。905年に編集されている。吉備の中山は一周8kmほど、標高170mの独立峰。麓の東に備前国一ノ宮の吉備津神社、西の麓に備中国一ノ宮の吉備津彦神社が鎮座し山頂から両方の神社に流れがあって、両方とも細谷川とよばれる。山を帯に結んでいると表される所以。

古代に吉備国がまず三分割され備前、備中、備後に、のちに美作に四分割されている。吉備の中山という甘南備があって、分割で東西からの遥拝所ができたのだろう、とは吉備津神社神主の藤井駿さんの話がある。

中山の神は強力な神力があって、真金、つまり金属精錬の神ともいわれる。神社近くに「赤銅・アカガネ」という地名があった(谷川健一)。

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岡山県の北部、美作国津山に一ノ宮中山神社がある。ここは峠ではない。「美作が備前から分かれたとき、強い国魂の信仰から分霊したのではないか。今は鏡作りの神・イシゴリドメを祀っている。谷川」ここで中山の神は神社におしこめられる。中山神社には鵜羽川が流れていて、鵜羽はウバで神の乳母をいう。若宮であったことで、この名がのこっているのでは。

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古代、金属精錬の場所が播磨から備前、そして美作と移り、備後では米納税を止めて鉄の納税を願い出た。砂鉄の枯渇と森の伐採により山地が西へ動いたのではといわれる。備後の東城町と庄原の間に中山峠がある。麓に鎮座するのは蘇羅比古神社で祭神は海彦、山彦の山彦といわれる。でかい杉のあるお宮で中山神社とは関係ないか。あの兄・海彦のハリが金属製品だとしたら。ここから鹿児島へ供給されていたりして、ナンテ。イザナミの墓所がすぐ北の比婆山にあるのだから、ナンテ。


広島市の中山の神はとなると、峠南にある小山に中山稲荷神社がある。幾つかの神社が明治に集められて合祀され、中山稲荷神社とされたと由来書が境内にあった。のち大正14年に合祀はいやだといわれる神様がでてきて、元の鎮座地に復活した神社がそば西にある大原神社だとやはり由来にある。そばで僧侶の墓の管理をされている二宮さんからは稲荷神社もそばの寺院の近くにあって、そこから今の境内に移っているとも聞いた。さて中山神は幾つかのうちの、どの柱なのか。

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中山の書き換えに“茗荷”は仏教では、両手を合わせた合掌の形だというらしい。1979年に発行された「茗荷村見聞記・田村一二」という本があって、障害者も健常者も同じ家で生活する村を紹介され、1982年に映画化された。その村の茗荷の意味を見聞記で知ったことがあった。とてもやさしい言葉だと記憶にあって、地名で見かけると映画の茗荷村の風景をさがしていた。戦国期に中山でなくなった僧侶の墓所とこの茗荷とが重なった。

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この墓の主を調べてみていて、広島別院の安芸教区の機関紙「見真」にみつけた。甲斐武田の一族で天台宗の僧侶であった正信、俗名原田政信が、甲斐「中山」からここに来、庵をむすんだ。のち1459年武田城の麓の龍原に寺院を建立。それが仏護寺とよばれ、当初は天台宗であったが、二世円誓のとき転宗、浄土真宗となった。この転宗にエピソードがある。「1498年円誓が読経中に黒衣の老僧が現れ、交流の念珠を交換して分れた。後日京都の寺院にある親鸞聖人の木像に円誓が老僧と交換した念珠を持っているを見つけて、転宗した」マジカルは奇跡談話だ。仏護寺は1541年に銀山城落城とともに炎上、消失。三世の超順が発祥の地中山に撤退。1459年は大内氏の銀山城の攻撃があり、武田氏も落ち着いた状況ではないようにおもえる時期なのだが。


甲斐の中山は武田信玄の有力な金山で、武田藩は金貨(金の粒)を流通させていた。その金の産出鉱山は二十をこえるといわれ、信玄時代には日本一の金の産出量であったともいわれる。安芸・武田氏の居城が当初金山城とよばれていたのも、甲斐の記憶だろうか。その金山採掘は金山衆とよばれた武田家とは別個の独立した集団だった。武田信玄とは、金の採掘量の半々の分配だったという。そのころ、中国からの知識はすべて仏典によっていたのだから、金山衆は僧侶で山師や医師もいただろう。だから、転宗することはストレスにはならなかったのではないだろうか。彼らは戦いでは武田家に雇用された傭兵の記録もある。

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どうもどこも“中山”には金属精錬がつきまとう。


by forumhiroshima | 2015-01-19 01:14
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