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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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宮島ステージ

宮島へ、怖い親父の元旦の初詣と1月15日、2回参拝につれだされた。戦前には宮島の遊郭に居続けしたとかの親父の武勇伝を聞いたことがある。くまなく町の神社と寺をまわったあと、弥山への白糸の滝登山道の落ち葉掃除で、ヘトヘトになった。本業の酒店の端っこにあった上野食堂で買っておいた国鉄宮島口駅のアナゴ駅弁を開ける山頂が嬉しかった。それにしても、あれは行者修行だったにちがいない。

宮島へ初詣は満員すし詰めの広電の電車でゆき、乗合船の松大船からガンギの波止場に渡された渡り板で上陸だった。大正期に建設された広電は地御前までで、そこから船で宮島へ、だったと親父が話していた。そのコースは管絃祭の御座船の渡海コースをたどっている。航海の軌跡が海の参道を出現させる。

港町の名のフェリ―の船着場の正面、車道わきの小さなトンネルがあってそこをぬけると食堂よこに三叉路があらわれる。表商店街参道を避けて右に入るとトンエルがまたあわわれる。ぬけると「町家通り」と灯篭が軒先に掲げられた静かな町並みへはいるのだが、途中の路地を尾根側へ入ると、旅館そばの小道に「山辺の道」のプレートをみつける。これまでと、これからが地御前から上陸した人々の昔道、古参道だと聞いた。
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「山辺の道」は奈良の東の山麓にのびる最古の街道だと言われる道で、親父が古参道だといったころにはここに「山辺の道」のプレートはなかった。『奈良の古道の北の端になる石上神社・イソノカミの名から「石上のイソは、やはり海岸の磯の意味のように思うがなぁ、と」「山辺の道は古代に奈良盆地が湿地であったころの海岸線」司馬遼太郎・街道をゆく1』
宮島での山辺の道では、パクリっぽいけど、道は斜面にとりついて棟の岡の五重塔へ向かうあたりが、いかにも打ち寄せる波頭を避けた様子に思えたりする。塔そばを下ると厳島神社の入口にでる。
地図に潮の干満を考慮して標高7mほどの等高線を記入してみた。道沿いにラインが引かれる。古参道はラインの奥になる様子。波頭のしぶきはかからないほどの奥だったのだろう。7mラインは昔の防波堤だったのだろうか。
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厳島の神の鎮座の伝承では、佐伯鞍職・サエキノクラモトが大野瀬戸で釣りをしていると、西から紅の船にお姫様がやってきた。その姫は、都へいって帝にここへ御殿をつくる許可をもらって来い。会見場で、そのときササを咥えたカラスが宮廷にあらわれる。それで帝は御殿建築を許されるであろう。といった。都でそのことが実際におこったことで、許可され、島に帰ると、カラスが現れ、島を巡って、御殿の建築場所を三笠浜と定めた。

1168年神社宮司の佐伯景弘の朝廷提出の書類が残っている。そこには、「大野瀬戸をはさんで地御前(神領とよばれた)に外宮・19棟(宇)、鳥居1基がおかれ、本宮に37棟(宇)、門、鳥居4基が記されている。回廊113間とかかれ、今の社殿と同規模で海上社殿であったことと考えられる。宮島町史」

平清盛は1146年から1156年まで安芸守護職にあり、宮島参拝の記録は1160年、1164年法華経(平家納恭・国宝)奉納などが記録されていて、生涯の参拝は6回(源氏と平家 渡辺保)10回(宮島の歴史 宮島学テキスト)11回(源平争乱 上横手雅敬)などがいわれて定かではない。神社造営といっても清盛のポケットマネーでおこなわれたのではない。これまで獲得した領地の権益をつかった。1164年に北広島町志路原が平清盛から神社に寄進されている。

佐伯鞍職の営造申請から一世紀のち1287年ごろ神社参詣した一遍上人を描いた絵図が残っている。中央に舞台が設えられ、回廊が周囲を巡っている。これって、屋外コンサート・アリーナじゃないのか!
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3/10読売新聞に宝塚歌劇団のトップスターのサヨナラ公演記事がでていた。劇場周辺は1万人のファンで埋まったとある。関西にいるとき、宝塚は六甲、有馬、三田、北摂への分岐点でよく走った。だから劇場周囲に1万のファンの人ごみの凄さは伝わってくる。歌劇団のファンクラブは統制のとれた親衛隊だ。そのファンがあの狭い車道にあふれて・・・すごい。すごすぎる。そして、今自分の頭を占領している厳島神社の巫女たち、内侍を連想した。彼女たちもアーティストだった。
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厳島神降臨の主役たちは神社の東の三翁社に鎮座しており、佐伯祖先の所翁、神烏の岩木翁、それに平清盛の三柱に寿徳、竹林の内侍がそばに仕えている。「厳島神社内侍は女性神職・巫女。参籠した貴人に今様朗詠、舞樂などを奉仕した。ウイキ」
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そして怪しい話、「清盛の第七女で後白河院に召された御子姫君は、清盛と厳島内侍との間の子だという。ウイキ」清盛さんはこんなこと、していたのだ。

祭りや神事は神々の魂の台本をこの世に再現させるイベントで、たとえば出雲のスサノオは秋祭に神楽で必ず出現させられる。その台本がいつか失われその訳も不明になっても、幾度も再現されえ、神事自体が失われる事を人々みな恐れる、といわれ持続されるエネルギーが生み出される。

平清盛が、都人が行う“管絃遊”をここに移しておこなったミュージックコンサート管絃の祭は同時に潮流の祭りで、夏の大潮の夜に執り行われる。厳島神社の大鳥居の真西に妹背の滝の大頭神社が祭りの最西端として置かれ、本宮が最東端になる。真北に地御前神社と極楽寺が置かれて祭りの庭の四方が定められる。西の清盛塚のある小山を西崎、塔の岡の千畳敷の宮崎をむすんで、千燈(僧)供養にはこのラインに松明を設置したという。夜の闇の海にうかぶ神社の炎の結界ラインだ。神社回廊の鳥居への先端が火焼前・ヒタサキと呼ばれる。薪能がうかんでくる。現在のそれは花火大会になるのか。

潮流は月と太陽と地球とのコスモスワールドから、神業、地球の南北の軸を基線に引力の活動があらわれる。海流と違って潮流はすべての海が膨らみ、又しぼむ。南北ラインは北辰・北極星のラインだけではない。海人は汐とたわむれる。
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平家滅亡のち、鎌倉幕府は厳島神社の佐伯鞍職に海に沈んだ神器の刀剣を探すよう命令している。佐伯は平家を名乗ったこともある。幕府は海人が、船釘がさびることを嫌うこと、それ故に鉄その存在に鋭く反応することを知っていた。佐伯鞍職が海人だと幕府は見ていたようだ。壇の浦に沈んだ刀剣は発見されたことになっている。

管絃祭の御座船往来の軸が南北線になっている。この潮流の動きは神社本宮鎮座の三笠浜(三笠山の春日神社の鹿を連想してしまう。)の広い干潟の出現で実感できる。神社下の干潟を埋める神社本殿への土砂流出は度々起こった様子で神社裏へ流れ込む紅葉谷川・御手洗川と白糸川を神社西へ誘導する河川工事が毛利氏によっておこなわれている。川が運ぶ土砂を海へ誘導し、神社が海に洗われ、また引いてゆく舞台装置の保全になっているようだ。
潮流を差配する神として厳島の神はおられたのではないだろうか。
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今年の管絃祭は8/1に行われる。午後4時から神事がはじまる。17:40に鳥居から出立、19:30に地御前神社前到着。20:20出立、23:10神社回廊・火焼前、24:00本殿に帰還ノスケジュールで行われる。18:50すぎに月がのぼりはじめる。24:00ごろ天頂に月齢1.0の満月が輝いている、晴天ならば。潮汐カレンダーでは、8/1は昼前から引き始め、17時ごろから満ちてくる。24時前に汐が引き出す。
御座船は満潮の境内から引潮に導かれ、鳥居へすすむ。ゆっくりとすぎる時間を船はただよい、潮目を待つ。そのあと夏の午後の陽ざし輝く海へ満ちてくる潮流につき動かされ、北へすすみ、またおなじく汐に動かされて、満潮の本宮に帰還する。
こう言うと御座船の引き船担当の江波と阿賀の船頭さんたちに申し訳ないのだが。引き船は御座船のハンドルなのですよね。

水面と砂の庭が舞台装置になっている。ドライアイスの雲が流れる舞台の原型が平安のころには完成していたのだ。古代の神々のレジェンドは神事として再現された。仏の世界は寺院本堂の須弥壇として再現されているのではないだろうか。
by forumhiroshima | 2015-03-13 06:22
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