こひちろうの独り言 |
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平家物語は都落ちした平家が、厳島神社を素通りしたかのように、壇ノ浦へと物語はすすんでいる。平家一門と氏神、厳島神社の関係からは神社通過の記述には不思議を感じる。
吉川英治の「新平家物語」は参拝を記述する。「この平家の人々と、厳島の関係である。長門へ下るには、いやでも、海上、厳島のすぐそばを通るのだ。---立ち寄らないはずがない。・・・ 果たして。 九条兼実の日記”玉葉”の元歴2年・1184年3月16日の項に、・・・平家ソノ時、ワズカニ百余船。安芸国厳島ヘ着キタハント・・・と見える。」 摂関家の九条家の主、兼実は生涯のうちの四十数年間の日記をのこしている。日付は厳島参拝の日の十日あまり後に情報が都の兼実の元に聞こえてきていることになる。 「屋島落ちの平家が、壇ノ浦に亡ぶ前、その途中、厳島へ立ち寄ったにちがいないということは、初めはぼくの想像だけで書いていたのだが、ふと”玉葉”の中にその確かな史料を見出して、密かにうれしかった。・・・ひとり平家にかぎらず、人の末路を描くのは胸痛むことである。 吉川英治」 宮本常一は故郷・周防大島を舞台の「大島源平盛衰記」を書いている。そこに「平氏は源氏勢力を何とかして中国路のどこかで、くい止めたいと思い、平知盛をして周防大島のうち島末荘に城を築かせました。四方に見通しのきくところであり、南北に海をひかえて作戦には便利なところにありました。・・・これが今は瀬戸内海における平家の唯一の根拠地でした。宮本常一」 この城は大島中央部の白木山の北西尾根にあって、北海岸に”サザンセトとうわ”がある場所で、南へ向かえば船越の集落にでる。この船越から平家は島の南海岸をまわって、柳井の西の田布施で源範頼の軍と小競り合いがあり、敗北している。この城はこののち放棄された。 大島の島末城放棄のすぐ後に、北の海を義経の先導する500隻を超える軍団が1184年3月21日西へくだっていくのが見られている。平家厳島参拝の2週間後のことになるのか。 白木山は片添ケ浜の西にある。この山頂へは車道が整備されて、自転車で登れる。眼下の下田、西方は古代の荘園からの有史の歴史もあって、ここの沖を通過する義経というヒーローを思うと、景色が一挙にグレードアップする。「ここに義経がいた!」伝承はこうして肥大してゆく。 清盛が死去した1181年から約2年半ののち1183年、平家一族はそろって都から逃亡する。それから2年後、壇ノ浦で滅亡してしまう。この間瀬戸内海を一族での博多、太宰府へ往復を、一族一団でそれも船旅でおこなっている。平家物語の後半は集団自殺の様相をもってきて、脱落者をあげつらっている。マスコミってこの習性があるのかもしれない。 神戸・福原も博多・袖の湊も厳島神社も清盛の事業だ。それが、火を放ち放棄した福原、留まる事も出来なかった厳島、源氏勢力に抑えられた博多・太宰府。いまも清盛の遺骨は所在不明である。無常。 海戦の記録の少ないこの国の海の戦史に特筆されるとされているのが源平の合戦と毛利と陶との厳島合戦。厳島合戦では神社は大きな火災被害を受けていないともいわれる。厳島を信仰した平家が厳島に陣地造ることは可能であったのではないか。 その平家の陣についての史料がある。「平家は摂津国生田の森を一の木戸口として、堀をほり、逆茂木を引き、東には堀に橋を引き渡して、口一つ開けたり。北の山より際までは垣楯をかいて、矢間を開けて待ち侍りけり。延慶本平家物語」この一の谷に仮設の施設の中に幕でかこまれた陣屋があったのだろう。そこは義経にけ散らかされた。 城が石垣の上に建設されるのは信長の安土城以後のことで、源平の城はヨーロッパーの中世の城郭都市を仮設にしたように思える。 宮島・要害山・宮の尾城 宮島へフェリーでわたり船着場を出ると車道の向こうに小さなトンネルがみえる。昔このあたりは有ノ浦とよばれた。宮島には有本の姓がある。魚の棚の町名が残っていて、魚屋さんの町だったようだ。この岬のそば、元に居住していた人々このあたりの漁民であったろうか。トンネルをくぐって次に出会う三叉路を山側へ入るとまたトンネルに出会う。トンネルの入口の手前の民家の横の細い坂道の路地を登ると、頭上の橋をくぐって尾根にでる。 ![]() ![]() 右へ松原の山道を海側へたどると今伊勢神社という小さな神社の境内になる。標識があって「要害山」と書かれている。 ![]() ここ有ノ浦の岬に毛利輝元は城を築いた。”堀に橋を引渡して”造られている。 要害山の北側の町は港町、南は浜之町と呼ばれるようだ。今は、トンネルで繋がれているように、要害山は海へ突き出た岬で、両側は海に囲まれていた。ここにフリーが着くように、このあたりは水深がある場所で、宮島ではここが最も港として適していた場所であった。厳島姫鎮座伝承のカラスもその役をきっと、になったことだろう。 ![]() ここのように本港と脇港とが岬で区分できる場所は古来重要な拠点であった。中央の岬を押さえておけば、両側の船溜りの様子が一目瞭然。 先日の博物館テロがあったチェニスの港は地中海の古代国家カルタゴの海運の拠点で規模の大きな二つの港をもっている。フエキア人はこの港で古代地中海を支配した。 ![]() 瀬戸内海の海賊たちも、この形式の港に拠点をつくる。このような岬は魚付き保安林に指定される。釣りのポイントは海人たちが育てた。 ![]() 三瀬・多賀谷城 呉の安芸灘大橋を渡り、広い埋立地をぬけ、車道が新旧に分岐して、旧道のトンネルでぬける天神鼻を出るとまた埋立地にでる。この二つの埋立地は埋め立て以前は船溜りで、ここを支配した海賊の多賀谷氏の拠点だった。城は天神鼻の尾根を切り通した新道の山側にある。 ![]() ![]() 安芸灘大橋のかかる海は猫ノ瀬といわれる。船溜りのある集落は三乃瀬とよばれるが、安芸灘へ東西と南から同時に潮が集まることから付けられた地名で、この三つの潮がぶつかると猫の背のように盛り上がる。それを猫ノ瀬と呼び、風もないのに白波がたったという。いまは海砂の採取で海底が変わってしまっている。 ![]() 潮町の港であり、猫ノ瀬は航行の難所で、多賀谷氏活躍の拠点になった。彼らは音戸の瀬戸でも城を築いている。宮島参拝の船から通行税を徴収していた。 忠海・乃美氏・賀儀城 OSさんからのメールで“村上海賊の娘・和田竜”が面白いよ!ときた。さっそく、購入。巻頭の景色にでてくる和歌山・雑賀党の首領、鈴木孫市は司馬遼太郎“尻くらえ孫市”の主人公で、彼の家紋が八咫烏。この二つを並行して読んでいて、混乱した。司馬、雑賀がおもしろい、とおもった。 ”娘”にでてくる乃美宗勝の賀儀城(忠海)は河口と浜との間の岬の先端にあり、突き出た岬であったのではなかろうか。鍵の形の岬だったようだ。 ![]() この城の西にある床浦神社は乃美宗勝建立伝承があるが、この神社には疱瘡伝承がある。疱瘡など伝染業の伝承は尾根の切落しと同じように、”近づけないうわさ”の防御壁になる。 ![]() ここに昔様式の岩穴の塩蒸し風呂がある。それに、とても落ち着いた海岸で海賊たちの夢のカケラもない。 ![]() そばの山並みに烏ケ城を持っていて、これは気になる。 堀越・向洋・平家 向洋の丘を開削し堀越の伝承の平清盛の安芸守就任では、現地に駐在することはなかったのだろうが、厳島神社建立や音戸の瀬戸開削などのほかに、堀越伝承と、とても目立つ清盛なのだから、なにか痕跡を見つけたくなる。堀越の疱瘡姫伝承と、堀越開削と合わさって、なにやら、重大な場所が向洋であるような、それも対馬まででかける向洋の海洋漁民の有り様が、追い打ちをかけて、謎に思えてくる。ここに清盛の倉庫なんぞあれば、どうか?。 ![]() ![]() 清盛の最初の安芸国の領地は江田島・大柿・倉橋・矢野の古代の安芸郡安満郷と呼ばれた地域だった。清盛は後に安芸国全体の領主となる。佐伯郡海郷の宮島の厳島神社は演舞の神殿で、砦ではなかったのだろうか。などと、海人たちの城は平家の時代を彷彿とさせる。
by forumhiroshima
| 2015-03-31 08:45
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