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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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厳島の合戦・余話

清盛から約4世紀のち、毛利元就は宮島の有ノ浦に砦を築き、敵対する陶晴賢の大軍を宮島に集中させる戦略を取ったといわれる。「陶晴賢 騎卒(兵)二万、戦艦千余艘を統べて・・」と江戸時代の歴史学者・頼山陽は記述している。菊池寛は陶晴賢軍の船団は7百余と書いている。

合戦の五日前に、元就が息子の小早川隆景に送った書状では「厳島到来に途中で逗留など笑止千万、(いそいで早く来ないか!)こちらの川の内・エノウチ警固船五六十程も仕立て候申し越し候、小早川御警固六十、七十そうも御着候、来島警固及ばず候、(村上・来島海賊)御方、川の内、多く警固候て、敵舟の事は充分ちらし候て見るべくとの申し事候、いかに来島けいごと申候ても、宮の城落城候て以後は、いらざる事候、(もし到来が遅くて城が落城していまえば、来島氏が来たとしても、どうしようもない)まずます御方(小早川)の御けいごを夜を日についで有るべく候(早ヨ、こんかい)」
川の内衆と小早川との合計で110から130隻。来島の村上から応援の連絡があったが、開戦には間に合わない。能島、因島の村上は応援助太刀の返事はきていない。この時期に村上水軍が陶方からも応援申し込まれていたようで、日和見であった。そうなると、これはこれまでいわれていた厳島合戦の陣営は”毛利+村上連合”の図式がなかったことになる。

決断の毛利輝元が川の内の海人たちを信頼していたのは、伝わってくる。この川の内と呼ばれた人々は、牛田の浄土真宗派東林坊本願寺の願通和尚の率いる人々で、そのころの仁保島城主は願通であった。東林坊願通は太田川河口の扇形のデルタ地帯・五箇荘の支配権を有していて、周防の大内氏の反浄土真宗へ抵抗しており、大内氏に対抗した安芸武田氏に加勢していた。後に安芸門徒とよばれた人々が、この一団の海人だった。陶晴賢も大内氏の親族である。安芸武田氏滅亡ののち彼らは毛利輝元を加勢する。

毛利元就と安芸門徒・川の内衆との関係を「門徒が毛利氏の領民でありながら集団では独自の姿勢をとっているかのような気配があるのは、当時の世間からみて尋常なことではない。・・・毛利氏が支配者として持ちがちな嫌悪感をすこしも表にださず、絹のような手触りで接触し、門徒のエネルギーを自家の利益にひきつけて行ったあたりは、さりげないことながら・・・司馬遼太郎 街道をゆく21」
そのころ、真宗門徒は一向宗ともよばれ、封建領主支配へ各地で氾濫、抵抗をしていた。

安芸真宗門徒は「在郷の地侍の子が真宗僧になり、郎党がその門徒になるというぐあいで、兵農不分離時代の武装者であった。・・・”主従はたかだか一世だけの・この世だけの・契りではないか。阿弥陀如来は未来永劫”・・・ 司馬遼太郎」

彼らは強かった。後の信長との石山寺合戦で、頼山陽は「何ぞ図らん右府(織田信長)千軍力、拔きがたし南無六文字の城」といっている。

毛利輝元は厳島神社の東の丘、いまの塔の岡に陣取った陶晴賢の陣屋の裏尾根・バクチ尾に、鼓ケ浦とそのころいわれた、包ケ浦から上陸して、尾根を越え奇襲をかけている。これが合戦のキーポイントだという。この軍団の移送に川の内衆がかかわっている。包ケ浦のキャンプ場の松林横の小川をたどって、ツヅラ折の山道で尾根をぬけるルートは同じではないだろうが、今もある。宮島ロープウエーにMTBは子供料金で載せてもらえた。包ケ浦へ弥山からのMTBのダウンヒルコースにして下った。そこは脆い花崗岩のすべる路面と、とても怖い勾配だった。おもしろいよ。
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毛利一軍がこの坂に取り付いたころ、表の有ノ浦へ、乃美宗勝が”応援に参じた宗像侍”と虚偽をさけんで、船団の中央突破をはかっている、とは頼山陽が書いている。乃美宗勝も”南無六文字”の侍だった。

二つの船留を分ける岬の城と正面突破、そしてひそかに裏面からの総攻撃。勝利に余裕を持った毛利軍は逃げる陶晴賢をいったん追わずに、火災の恐れの神社の保全をしていたという。

鼓ケ浦(包ケ浦)ルートは輝元に、厳島神社の神官から密かに使えられたという。源平合戦ののち佐伯氏は没落し厳島神社は鎌倉幕府の支配となって、派遣された藤原親宣氏が神職になっている。藤原親宣の死去ののち、毛利家は一族から藤原家へ養子をおくりこんでいる。この関係は藤原親宣の祖先が平安京を開いた恒武天皇で、毛利家祖先は貴族大江家であるから、やはり恒武天皇が祖先になるということらしい。平安京建都は794年のこと。この悠久の出来事が理由になるとは。重いですね、日本って。
毛利家からの養子の系統は輝元の厳島合戦には神主家当主ではないようだが、この人脈から、漏れ聞こえた鼓ケ浦間道ルートだったのでは?

いま、仁保島の黄金山は全山桜。昨日の雨の後の晴れは、いっそう深い白桃色を景色に覆いかけていた。明日から散り始めるのか。「花に嵐に中島みゆき 別れはいつもついてくる」。
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この仁保城の城主であった東林坊・願通和尚が支配した”五箇荘”は、段原・長尾・白島・広瀬・打越の五ケ村だとも、葦島(吉島)も平塚も・・?と輪郭が定まらないようだ。
毛利輝元は五箇荘の開発を含め、東林坊の支配権を認め、検地にも”これ ゆるさるべきよう 申すべきこと”と令している。毛利輝元が頼りにした五箇荘の警固船は、東林坊が支配する船で、輝元自前の警固船(戦船)ではないことになる。

いまの広島湾は広島城が五個荘の中州にできてからの名称で、毛利輝元はこの海を川の内(エノウチ)と呼んでいる。牛田に本拠を置き、仁保島の城も支配していた”川ノ内衆”の領域が海の支配領域として吉田から進出してきた毛利輝元様御認定!としてそのころ存在していた、と考えられる。

五箇荘の名は全国各地にあり、その地名については、柳田国男は五個所の村や五個所の荘園でよく説明されるが、うまく説明つけられていない、という。
「原野を区分するのに、野と原とがあるが、どちらも樹林や潅木の林をもっている。その他に草生地があって、これを芝と書いてコウゲと読んでいた。カーカとよんだ地域もあって、草生地に生える烏のエンドウのお茶を出雲弁でカーカジャ(浜茶・豆茶)といったりする。北陸ではカーカを加賀と書いている。この地名が広がって、カガのある場所の国が加賀となった。またコガとも言われ、五箇は“コガ”の漢字表記になる。五個の地名は未開の水不足の草生土で、所有が公的な、国有などになっていない場所をいう。柳田国男」
淀川河口は砂の流入が激しく砂州が現れる場所で、その土地を管理したのが、「摂津」港を司る役人で、初代和気清麿は、出現した中州が満潮時に20cmだったか、その高さになると国有地と決めている。

「拔きがたし南無六文字の城」を最初に一向宗信者が出現させたのは北陸・加賀国。ここ川ノ内の砂州、五個荘に、加賀国のような、安芸門徒の南無六文字の城が出現していたのでは、ないだろうか、などと、芸予諸島のどこの集落でもであった真宗寺院の大屋根の青い海と白い雲との間で鈍色にひかっていた光景をおもいだした。

もう一つ、毛利輝元がきっと気にかけていたことに、瀬戸内の海人たちは紀伊半島の熊野海賊の流れにあったということだろうか。宮崎・高千穂荘は熊野神社の神領で、高千穂神社に、そばの五個瀬川で日向灘に下り、瀬戸内を抜けて熊野新宮で熊野川を遡り熊野本宮にいたる”水手”の存在の古文書があるという。筑紫の宗像の海人との流れにもあることは、厳島神社の宗像神の加古が”川ノ内”衆であることも、輝元は認めていただろう。神武天皇をヤタ烏が先導し、毛利輝元には、川ノ内衆の熊野烏が助勢をした。

我が家系を天皇スメラミコトにつなげる人々と、我が海人の神々の中に生きる人々がこの国にあったのだ。その両サイドとも、「仏は人を導く、その導かれる人を神は守る」と、ある禅僧がTVで話していた。
by forumhiroshima | 2015-04-02 10:33
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