こひちろうの独り言 |
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「豊かではないが、簡素な、魚がほしいときに、海にでて魚をとるという気安さの生活があった。船を家として、海を漂流しながらの小さな網での収穫は交換価値の低いものであった。だから交換できる野菜、穀物はささやかなものであった。水を村人に乞い、薪は岬の松の茂みでとってくる有様だから、苦しい生活の繰り返しである。しかしこの家船の民とよばれた人びとは、傍目にうつるほど苦におもわなかったのかもしれない。納税もしないし、社会的制約もうけない、一種の隔離された気安さがあり、その簡素な生活から、親村の人口をあふれさせ、外に向かう力となって、瀬戸内や九州の無人の浜辺や孤立した岬の岩陰に枝村をつくったとみられる。 羽原又吉・漂海民」
「瀬戸内海に面した広島県三原市の西、幸崎町能地は、一年の大部分を家族共々小船に乗って海上で暮らす漁業の集落で、人々はその一生を小網漁で暮らした。 小網は藻の上を曳くので、日和は少々悪くても漁ができる。朝船を岸に寄せて、家内が魚をハンボウ(木桶)に入れて、カベッテ(頭上運搬)村々に売ったり、米とカエコトしたりした。 河岡武春/海の民・漁村の歴史と民俗」 頭上運搬は、昭和30年代までは見られたという。沖縄・糸満アンマーたちの魚のカミカキネーなど、南太平洋や中国南海岸伝い、東南アジアなどの風俗との共通性を見出す民族学者もおおい。 柳田国男の弟子の瀬川清子「販女」がこのカッテベを取り上げ、貧しい漁民だからと思われていたが、民族的風俗ではないかと注目された。 広島・大河の小イワシ売りのおばさんたちは、リヤカーを使用して市内へでかけていた。吉右衛門の鬼平の密偵、おまさは箱背負って行商している。関係ない、か!イイノ。 「鹿川の南に漁業部落がある。三原市幸崎町能地の善行寺の過去帳を見ると、幕末のころ、海上漂泊生活をつづけている数人の能地漁民がここにおちついて、ささやかな村をつくったことが、知られる。それはほんとにささやかな部落であった。能地漁民が住みついたことによって、地元の零細な生活をしているものが次第に漁業をいとなむようになり、海岸へ密集集落をつくりあげていった。 宮本常一 私の日本地図4」 小船で年中海上で暮らす人々も、江戸時代におこなわれた毎年の宗門届けの義務があり、その届けを記録した宗門人別帳が残っている。宮本常一の弟子の河岡武春は、三原・能地の善行寺の過去帳などを子細に調べ、この人たちの動向を明らかにした。その移住先は福岡・山口・広島・岡山・愛媛・香川の六県のほか大分、長崎までも拡がっていた。 瀬戸内の海上漂泊生活者を家船・エブネとよんだりするが、その拠点とされる親村は能地だけでなく、忠海の二窓、尾道の吉和も数えられる。瀬戸内に、このほかはない。 吉和は尾道の西端、JRと旧R2が並走しはじめるところの山側で、小魚加工の阿藻珍味の工場がある場所の北側の小さな住居密集地帯。そこに艮神社、八幡神社、胡神社が鎮座し、阿弥陀寺と墓所と弓練習場という小さな広場を囲んでいる。家船に乗って出かける両親の留守に子供たちが寄宿する学校も置いてあった。 三原からR2をはなれJR呉線にそってR185を西へ向かい、以前は幸陽船渠、今は今治造船・広島工場の巨大クレーンを通り過ぎて、川を渡ると能地に入る。集落西の小山の下の常盤神社が家船の漁師たちの鎮守になる。 R185を西へ走り、並走するJR呉線を高架で横切り、登りになる。JRは海岸へ抜けていて、峠から下ってまたJRと並走になる時点が忠海・二窓。JRの踏切を海側へこえる場所が家船の本拠地になる。密集する民家中央に胡神社が鎮座、ここらが昔の海岸線であったのだろう。 吉和・能地・二窓どれも西側に小山を持ち、冬の北西の風よけの港を思わせる。能地は小さな網を曳くテグリ網漁、二窓は延縄漁。能地の漁師がとる小魚を二窓の延縄のエサとして、この二つは関連して漁を行ったという。吉和は一本釣りで、周防大島・大畠の鯛、佐賀関のアジの一本釣り技術をつくったという。 羽原又吉は、家船の形態での漁民を「漂海民」と呼んだ。この名称に引き込まれた。“海のデラシネ”、いいね。能地から二窓への移動は能地の常盤神社から東へ旧道をはしる。川のでて遡ると分岐点は右へ向かうと、正面の小山へ上る長い石段の寺門がみえる。ここが善行寺。石段のしばの墓石は漁師たちの墓標でなく、かれらは、遠方で死去しても塩漬けに処置され、この砂浜に埋葬されたという。古代海人たちは、砂浜に産所を置き、砂を広げた。産土をウブスナと読むのはこのためだと、谷川健一が語るが、浜辺にズラッと並ぶ墓標のある集落は瀬戸内の島々に多いこととの関係を思ったりする。 寺から分岐にもどり、西へ走ると広い谷間から小さな峠で二窓へくだる。この谷はきっと海であったのだとおもう。善行寺は小早川氏の家臣の浦氏の菩提寺で、臨済宗だという。このことから、沖浦和光は家船の人々は小早川氏配下浦氏所属の水軍であったのだろうと、いう。(瀬戸内の被差別部落)。 瀬戸内の島々で農村と漁村とが隣接しているところでは、必ずその境界が道や水路、川などで分割される。鹿川では貯水池からながれる川がその境界になるのだろうか。貯水池までのぼって、旧道とおもえたコースを下る。川沿いの三叉路の分岐点に独立した木が目立っている。妄想すると、これがシメナワならぬ標木・シメキ、ではなどと、楽しい、ぞ。道に桜並木が現れる。土手だったのだろう。土手の桜は、この国の定番景色。そばに斜面から石段だ降りてくる。海辺の雰囲気が濃くなる。このあたりで、昔のデラシネたちが桜の下で一服していたのか。 古い造船所のカンバンの奥の景色にシャターを開いた倉庫があらわれた。数人の男どもが網を修理している。ながい浮き輪の列が奥におさめられているのか、ユルユルと動いている。昼前の日差しが、室内を暗くして、浮き輪が空中を踊っている。 港へでてみた。ここにチョッと知られた寿司の食堂がある。昼定食があるようだが、まだ支度中の札がゆれている。料金はいくらなのか、書いてない、きになる。何せ低予算なもので。 港は一人おじいさんが撒き餌して、釣り糸を係留された船横へなげこんでいる。船は巻き網用の漁船だろうか。網を両方から曳く二艘に群れ探索船などの船団のようだ。倉庫で網作業の男たちの船なのだろう。 防波堤の突端まで歩いてみた。振り返って見上げる山が立山だった。見立山だろうか。富山湾の立山のスケールはないけど、海の人々の海からのマーキングが、この山つけられたのは、ここに能地からの移住の人々の大きな仕事の結果だっただろう。 寿司の食堂の札が返されて営業中。のれんを分けて首突っ込んだ。誰もいない店内は厚い白木のカウンターに、石鯛がうごめく水槽のポンプ音。すぐに亀さんして、首ひっこめたよ。
by forumhiroshima
| 2015-06-09 10:53
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