こひちろうの独り言 |
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「江田島・能美島は小さな島であるが、海から離れた集落が幾つかある。宗崎も山麓に発達した村で、農業を主にして暮らしをたてている。そうした村が発展していくためには、山林をひらき、海岸を埋め立てたものである。 宮本常一 私の日本地図4 瀬戸内海1」
宇品港から三高へのフェリーが、小雨で海面に出来た小さなあばたの中を進んでいる。景色は薄い靄と鈍色の海とが境をなくして、音が吸い込まれとても静かだ。少し寒い湿気の中のデッキの風は、ゆっくりと深呼吸させてくれる。 「三高」の地名は能美島のフリーの港が三吉と高祖からつくられている。その高祖は北九州にあった古代・伊都国の糸島半島の付け根にある、スサノオ伝説の背振山の一つのピークの高祖山を連想させる。糸島半島は、西の宮島の神のふるさと宗像にちかい。 宗崎は三高の港から東へ回った最初の集落で、今は埋め立てられただ小方の南の端に宇品との高速艇高田港乗り場が出来ている。宗崎+小方で、宗方で宗像と、北九州の高祖・・・。アホな妄想がぐるぐる頭の中を回転する。 地図で尾根の上の集落までの直登の車道をさけ、そばの古道らしいルートを見つけてきたのだけど、直登と変わらなかった。 数軒の民家が集まった尾根上の宗崎の集落すぐ下に田植の済んだばかりの田んぼがあった。ここで稲作が続いている!。 「秋」に金偏をつけると鍬、秋に稔るイネ。鍬は畦もつくり、田起こしもする。稔りをつくる金属の道具が鍬。その稔りを創造する神が、春、鎮座する山から田へ降臨し、山の神から田の神に替る。秋の実りのあと、田の神は、カカシの案内で山へ。カカシは案山子と漢字される。山の神の鎮座が、集落の背景の尾根の上にある。 宗崎の集落の集会所のある小さな広場から車道がストレートにコンクリートの舗装で山へ登る。小雨でウエットなコンクリートの路面では、帰りのブレーキングがすべてスリップ!、と正しい弱気を選択して、徒歩で登り出す。 いきなり横からイノシシの子供のウリ坊が、ウギューンと唸って現れ、横ぎって草むらへ飛び込んだ。お母さんが出てこないか?と、身構えたが、音なし。よかった、イノシシと出会うと、よく、あの奇妙な苦しそうな唸り声を聞く、と思うほど落ち着くまで、時間がかかった。 コンクリートの道が海が背景の広場にでる。展望すこぶる良好。東南向きに鳥居と石段の参道、その奥に拝殿のある祠。「岩風呂神社」と神額がかかっている。拝殿の正面に由来が長い板に書かれている。由来の最後にこの板は境内にあった古松が枯れて伐採したものに記載したとある。オシャレである。ここに書き留めた人の存在がうかんでくる。この神社の祭祀に関わる家があるのだろう。が、由緒は墨がかすんで、読みにくい。写真とったけど、手ぶれしてしまって読めない。興奮していた。ただ祭神は大山祇の神とは読めた。由緒の隣にある拝殿、本殿再建の費用の奉加名簿にはここから見渡せる中町や高田すべてから集められている。北部東能美島総鎮守である。 境内の鳥居から車道とは別方向に狭い石段が草むらへ入っていた。この参道の方向が海岸の高田・中町でむかっている。この参道はきっと海岸へストレートにのびているだろう。それが、カカシがご案内する山の神の往来ルートだ。ここの展望はすばらしい。ここでキャプすると、正面から朝日が昇る。キャンプとは不謹慎かな。清浄のためのおこもり、といっておこう。 江田島・能美島には尾根中腹に農道がつけられている。海岸からこれに取り付くには、少々ウンザリの急坂だが、登った農道は水平ぎみな展望がよいところが多い。昭和60年代の整備だったが、きっと柑橘類栽培のための作業道として作られたのだろうが、いまはイノシシ・ロードだといわれる。 宗崎の小さな広場にある集会所へもどって、そこからの農道を南下。最初の四つにあるビニールハウスで作業されているお婆さんをみつけた。四つ角に神社で見つけた狭い石段が出てきている。これが、岩風呂神社参道でしょうか?そうだが、今はイノシシでるよ。海から登ってくるこの道が町からの参道になりますか。そうよ!。そこでもイノシシでるよ。今日の朝、ハウスがやられた!。どうも御立腹な様子で、退散です。おばあさんの本音は、イノシイに注意しんさい!と伝えてくれていたと思う。この島はとてもどこでも親切なのです。 ビニールハウスからの軽四一台幅の道がそばに沢を従えて下ってゆく。海岸の旧車道にでると、右に郵便局、左へは、高田港。ここの中心街であったのか、錆びついて閉まった商店が点在する。活気の熱は消えてしまっている。地図に地名が間所とある。「沼・所」のイメージで、湿地帯であった地名になる。昔、河口のこのあたりは干潟がひろがっていたのか。広い干潟に鳥たちが舞い降りる、そんな景色がもどってきているのだろうか。 ルートを引き返す形にとって、集落の後背地の尾根傾斜へ川沿いに登る。分岐に地蔵堂が現れる。お地蔵様は境界をしめすことが多いようだ、墓地の六地蔵は冥界との境界だろう。川上に大きな寺院があるので、寺境か、寺への案内地蔵なのか。ただこのあたりは、空と地名にとある。ソラは焼畑地帯とおわれるが、豊かな水流の川をみると、どうも地名案内は当たってないようです。 高田の集落は黒瓦の甍が木々の間に点在して、とても豊かな地域に思える。 その家々の間の広い車道から、川を離れて尾根にのぼりだした細くなった道幅を上がってゆく。切石のきっちりと組み上げられた石垣から、野積の石垣の石が細かくなって、道をかこみだして、畑の跡らしい空地の間をいくつか縫うと、隣の声が聞こえる程の狭い込み合った間隔の数軒の家々の集落に入った。地図に高下と記載され、その集落の裏に池があるようで、果樹栽培と田んぼのマークがつけられている。あたりに無住の廃屋もない。 「水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に住居し得られた場所に上代の土着計画者が、まずこれに注目したのは自然である。いっぽう、天然の水溜りの沼地は地味も肥え、取り付く際には相当の誘惑であるが、わずかに水位が下がればすぐに乾いて、一旦の開発の耕地を荒らさねばならない。人は近代になるまで、山中から降ってこれに就くことを好まず、依然として、水の音を慕って川上にさかのぼった。 柳田国男」 道が分岐して、すぐにまた分岐して、今の自分の位置が混乱してきた。深呼吸して、あたりを見回す。 尾根に上って道が集まっている場所が、道幅からみて広くなっている古道がある。通路としては必要以上の幅、見方を変えれば、小さな広場、古代的には「庭・ニワ」とおもえる。古い景色に思える。そこに古木の茂みと神の存在があれば、ずっと昔に時間がクリップされ、フリーズされて、タイムトンネルが手招きする。 これまで、出会った、「庭・ニワ」にここが似ている。 やはり、柿の木の茂みの向うに祠を見つけた。回り込んで、鳥居のある参道が現れた。拝殿はなく本殿の祠がある。そこから人影があらわれた。虫よけのネットのある帽子と長袖に手袋のご婦人。不審者と思われては、と、参拝させていただきます、声をかける。 ネットの帽子をとられると、上品な老女があらわれた。草取りをされている。手に草がにぎられている。神社好きなもんで、と非不審者です、のアリバイ作り。 参道の石柱に大山祇神社とある。「とても長い長いわけが、あるので、説明しきれません。」 「この神社は父が昭和62年に建立した神社で、御神体は伊予・大三島の大山祇神社から勧請。ここ高下の古文書に、後背地の山に大山祇神社が以前あったとあり、それによっているのです」と、早口で話される。神社は新しいのですが、Googleの地図に載っているのですよ。自分もその地図で発見しました。国土地理院の地図に記載はないですね。この会話で、不審者の垣根がとれたようで、昨年の秋の大三島の大山祇神社参拝の話もされた。お父さんへの気持ちが、小雨の中の草取り作業のようだ。 実は、先ほど宗崎の岩風呂神社に参拝してきたのですが。大山祇の神様が祀られていましたけど、このあたりに、ほかにも大山祇神社があるのですか? ここで空気が変わった。あそこの神様は大山積と書きます。ここは大山祇の神様です。オレ、いつもの、一言多かったラシイ。 “大山祇”は日本書紀の記載で、“大山積”は古事記の記載で同じオオヤマヅミの神だとはいわれるが、また別だとも。大三島神社は大山祇神社といわれ、その祭神は大山積とされている。 そのあたりが、高下の古文書にあるのかもしれない。興味ある。 座り込んでの話になりそうで、神様由来話は好きなのだけど、しょせん自己満足の世界だから、酒でも飲んで、あやふやな頭でヨタ話だと面白いけど、上品な女性とでは。また一言多くなりどうだし で、あいさつして、自転車に帰った。そして山を下りてこられた神様にお別れした。
by forumhiroshima
| 2015-06-20 11:44
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