こひちろうの独り言 |
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大三島・大山祇神社の境内入口の鳥居に「日本総鎮守」と掛かっている。
![]() ![]() 「河野の勢力はその部下又は同族と称するもの、忽那諸島を経て安芸の江の内の島々に達して、安芸国の懐ふかく食い込んでいる。能美島の山野井氏、江田島の土肥氏、もと沼田郡の属する海岸地帯の林氏等はみな河野氏の分族といわれ、これらの諸氏は後には多く毛利氏の家臣となった。伊藤博文は長州藩のこの林氏の出、同藩の伊藤家の養子になった人であるから、河野の海賊党の子孫であるといわれる。 長沼賢海」 林という地名は生口島瀬戸田林だろうか。梅でなく、桜並木の参道の天神さんが古道にある。そばに桃の木の畑もあって、遅い瀬戸内の春がある。林はそんな所だ。 大山祇神社の石柱を博文が揮毫した縁は、河野氏の栄華の昔からかの縁からかも知れない、などと考えた。 大三島から伯方島へ渡る大三島大橋へ入る最初にあった鼻栗瀬戸の海岸にそった、しまなみ海道サイクリングコースそば、車道が入江を横切っている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 伝承がここにある。「仁徳天皇(四世紀ごろ)のころに、乎知命・オチノミコト(小千命)が「迫戸浦セトウラ遠土宮オトノミヤ」に大山祇神を移祭したとあり(大三島記文)、(大三島神社大祝家記)によれば、景行、仲哀、欽明、孝徳。斉明、天智ら天皇が道後温泉への途上に参拝した。 のち聖徳太子の勅命によってここに大営造が行われ、新たに“迫戸浦ヨコ殿宮”と呼ばれた。こののちの大宝年間(701-704)ごろ越智(小千)玉純が神託によって、ここから、現在地の榊山に遷宮したと伝えられる。日本の神々2」 楠の林立が法隆寺の回廊の柱のだ。太子も道後温泉へ入浴されている伝承を思い出す。 大山祇神はここのなぎさの井戸へ降臨した、と激しく妄想する。林立する楠の羅列が法隆寺回廊のエンタシスの柱を連想させる。 ![]() 古代の天皇や太子たちが、この島を経由して道後温泉へ向かっている。温泉は大地のパワーを噴出する場所とされ、有馬温泉にも古代の天皇が訪れており、貴族たちの温泉入浴には朝廷の許可がいるほど、大地のパワーの独占がおこなわれたという。 道後温泉への天皇たちの旅が安全に行われるために、朝廷は各地の豪族を平定し、国造として任命し、そのそばに朝廷直属の国造も置いたといわれる。 「伊予国には五つの国造に支配地を分割し、そのうちの地元豪族系統は、小市国造、風早国造があり、朝廷系統から伊予国造、久味国造、怒麻国造が置かれた。怒麻国造は安芸国の阿岐国造と同祖で東北の陸奥国の国造たちとも同祖になる。一方小市国造、風早国造は物部連の祖、イカガシコオからの系統とされている。道後温泉のある松山平野の中央の温泉郷を支配地としていた風早国造は、そこを追われ今治市菊間あたりを領地とされた。阿岐国造は佐伯氏で、この一族は安芸国のほか豊後国の安岐(国東)、佐伯(佐伯市)にも見える。 鳥越憲三郎」この朝廷派遣のそれも東北の蝦夷から任命した国造たちが、天皇や太子の道後入浴の快適な環境をつくったのだろう。蝦夷からここに派遣された佐伯氏はまさに遮る・サエギル人なのだ。古代朝廷のウルトラマンたちのエネルギー補給基地が道後温泉ってことだ。 大山祇神社境内中央に樹齢2600年とされ、乎知命のお手植えの楠がある。 ![]() 古代の国造家が現在まで続くのは古代出雲族の出雲大社と和歌山の古代紀氏の日前国懸神社ほかはない。古代からの継続を血族をもっておこなうということが、奇異なことだと思う。がこの国では、特別ではあるが変じゃないのだ。疑いもない検証する必要のない事実とされることが、今おもしろい。大山祇神社の境内の北側に社家とおもえる注連縄をかけた門の屋敷がある。表札には三島とあった。 大山祇神社の神主家は古代の物部氏からの継続とはならなかった。河野氏は戦国末期秀吉の四国征伐で竹原の小早川隆景と戦い、降伏ののち竹原で病死し、ここで河野家は断絶している。小早川隆景はのち博多を領地としたが、病死。家来一党は博多を離れ竹原に帰郷。のち一部は毛利家に召し抱えられ、山口へ。秀吉が朝鮮進出に九州へ向かったとき、河野氏の残党が三原で襲ったという。 村上氏も秀吉の海賊征伐令により毛利家に。芸予の海賊たちは、毛利家に吸い込まれている。幕末を演出するエネルギーがここらにあったのだろういか。伊藤博文は物部氏であった、のだろうか。歴史舞台への再登場のエネルギーは道後温泉?高杉晋作も道後に長逗留してたっけ。 古代物部氏はナガスネヒコとの連合で、神武天皇の大和侵入を一度は阻止、のち神武側に寝返る。はるかのちに、聖徳太子と曽我氏の連合に大阪・河内で戦い滅亡。一部が大和・天理市の石上布留神社の神官となっている。朝廷側の物部として「内物部」と呼ばれた。滅亡したとされる逃亡した物部は天武天皇・大海皇子の戦いに参加して、再度、歴史舞台の表に浮上している。
by forumhiroshima
| 2015-08-04 09:12
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