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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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五箇荘

眼前の景色のなかから、何かにフォーカスし、それから連想が始まりだす。妄想の発生!。そんな場所に出会うとそのサイクリングが一段と印象深くなる。印象が残る“そんな場所”がまた別のサイクリングで出会う、と重なった“そんな場所”の意味を探したくなる。

黄金山にブルドーザーが出現させた住宅地、猿猴川に沿ってのびる高架道路、国道2号線に囲まれた42-2のエリア。広島の町の小さな古びたパズルのピースの仁保町。そこに“渡部”と表札のかかる立派な門構えの邸宅の中にそのイチョウがあり、門の前で道は小さくL字に回っている。“遠見遮断”とよばれる侵入する敵の防衛ラインの名残にみえる場所。
五箇荘_d0089494_21293896.jpg
“渡部”の名は黄金山周辺の鎮守・爾保姫神社の神官と同名で、このあたりの古くの名門一族では?。古代の神官と豪族の領主との関係を連想する。イチョウの下をすぎると交差する路地が東の猿猴川へ伸びている。そこの県道をまたぐと川からの引き込みの水面があって、いまそこにR2の国道の橋が架かっている。橋はどこも、昔の渡し場のあった場所にかけられてきた。“渡部”の字がここにあったろう渡し場を思わせる。大阪の天満宮と大阪城下の八軒屋浜との渡りを差配したのが「渡部氏」で、“渡し”からの名称だろう。天満橋の川下に渡辺橋がある。彼らはのちの瀬戸内から長崎・五島列島にまでその勢力を拡げた人々で、倭寇と恐れられた、という。仁保、向洋の外洋漁民たちとの関係も深いといわれる。大阪・五島そして仁保の渡部さん、そして大陸や半島との交流への関連を連想してしまう。

渡部邸から少しの上りで西福寺と竈神社が隣接して路地が交差するエリアにでる。
五箇荘_d0089494_2130762.jpg
振り返ると二本のイチョウが道奥にみえる。ここの幾つかある路地は猿猴川へと向いているが、各々を横につなぐ路地がなくて、ただ川岸へ押し出される。神社を中心に扇形に放射線に設計されている。神社そばから黄金山の山頂へ階段になって道は伸びてゆく。神社の拝殿は山頂を望んで建てられている。路地は扇型の場所を囲むようにある。

1555年の厳島合戦で、毛利元就の軍勢にこの仁保黄金山城の城主で、牛田の東林坊の住職・願通が毛利方で参戦している。お坊さんがここの領主であった。この毛利氏と陶氏との合戦は戦国時代最大の海戦といわれるが、毛利方の構成員は竹原の小早川の六七十程と願通を首領とした江の内の水軍五六十程の構成であったという。来島村上氏は開戦に遅れたといわれ、能島村上は参戦していない。厳島合戦の前に陶氏が黄金島に到来し、撃退されている。だから江の内の水軍の拠点がここ仁保になろうか。渡部邸のまえのL路地の防御ラインが、匂ってくる。ここに水軍の兵站基地が・・・。

「宇品も比治山も江波も島だったころ、この海一帯を江の内とよんで、その西側の海に太田川の砂州ができていた。いまの段原・尾長・白島・広瀬・打越になるこの砂州の地は五箇荘とよばれ、この支配権は東林坊にあると毛利元就が認めていた。
厳島合戦ののち、大阪石山寺の織田信長との合戦に江の内水軍は参戦している。厳島合戦で毛利氏へ味方したのは、敵の陶氏が願通たちの信仰する一向宗を禁止していたことも理由だという(長沼賢海)。」
五箇荘_d0089494_21305897.jpg

「浄土真宗の開祖の親鸞の墓を京都で守っていた子孫の中から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで一向宗とよばれ爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を呈した。・・・諸国で開墾地主がふえ、それらが戦闘力をもち、横に連繁し旧勢力(守護・地頭)からの自衛をつよめ、その連繁する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。
たとえば加賀では、守護の富樫氏をたおし、地侍との協議制のもとで加賀一揆として自治を行うことが二十数年も続いた。紀州いまの和歌山の雑賀の土地もいそうであった。司馬遼太郎・街道をゆく7」

府中町の出張城の北東にある囲む中世武家屋敷エリアといわれる路地に囲まれた路地に入ったとき、仁保の路地を思い出し、“仁保”そこが“そんな場所”になった。府中の出張城の城主が願通和尚の前の仁保城の城主だった。

毛利元就が厳島合戦ののちすぐの1557年に「塩硝熱させ候、然らば其の方馬屋の土然るべき之由に候聞、所望すべく候」と馬屋の土、寺院の床下の土を集めた。この塩硝熱は黒色火薬のことで、厳島合戦1555年で江の内水軍が使用した焙烙火矢(黒色火薬を詰めたつぼの導火線をつけて飛ばす)の威力(伝えられた陶方の負傷・戦死者リストでイズは石疵ばかりで、この石は焙烙火矢の壺にいれた小石といわれる)を見知ったことだろうか。火薬の原料は木炭(柳の若木、麻の茎)硫黄、そして硝石だが、硝石はこの国には存在しない。馬屋の土を所望する元就は、その威力の所有を望んだのだろう。信長の火器への理解に遅れていたのでは。

「○○街道」というタイトルの本を見つけると、欲しくなる。先日本屋で「幻の街道をゆく 七尾和晃」を見つけた。そのなかに“塩硝の道”の章とあって、富山・五箇荘から金沢への塩硝を運んだルートが紹介されている。アマゾンして中古を入手した。
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毛利元就のみた江の内水軍の塩硝は、越中の白山山麓の五箇荘とすこし南の白川郷の生産が特別な培養法という方法で生産されていた。“塩硝道”の中継点の刀利の集落の宇野家には、蓮如の直筆が残っているという。五箇荘の利賀の西勝寺が塩硝の集荷場でここから大阪・石山本願寺へ白山の硫黄とともに送られた。
この生産方法は湿気のないホロホロの手触りの土を囲炉下の土間に2間四方-深さ7尺の穴に詰め、蚕の糞と稗の殻やヨモギやヤマウドの乾いたものをまぜ4年まぜながら置いて乾燥させ、硝化細菌が働きアンモニアが酸化され硝酸塩にかわる。5年目をすぎてから灰とまぜ煮込み上澄みをとり、煮詰める作業から溶液が冷めると結晶化する。これが塩硝。生産の最盛期の幕末には五箇荘1300戸総出の生産で40,500kgになっていたという。(金沢大・板垣英治)

五箇荘の住民はすべて浄土真宗信徒で、石山寺合戦1570~80年に大量の塩硝と硫黄、木炭が送り込まれている。仁保城の願通たちもこの製法も威力も知っていただろう。

1545年鉄砲伝来に同じく到来した火薬は鉱石の硝石から造られたものだ。イギリスの東インド会社の主要な目的がそのころ世界最大に産出していた東インドの硝石の入手であり、この火薬が大英帝国の戦力だった。彼らが囲炉下の土間で塩硝をつくるなんて、ないだろう。信長はこの入手に堺の豪商をつかったのでは。造るより輸入が速い。秀吉、利休の後ろに硝石と鉄の姿がありはしないか。

一向宗徒たちの一揆の勢力の装備に黒色火薬があったことが、多くの大名たちの脅威であったろう。毛利元就は一向宗徒弾圧に動かなかった。願通たちの火薬がそうさせたのか、その火薬の保管は“そんな場所”に・・・。

金沢大出版「加賀藩の火薬・板垣英治」に、安芸国でも塩硝の生産があったと書かれる。
越中五箇荘、飛騨白川郷の合掌つくりの民家は広い囲炉、蚕生産、そして湿気から土台の土地を離す高い屋根と厚いかやぶきをもって塩硝生産の量産を図ったのだと思えないか。合掌造りの民家の群は塩硝の生産工場群だったのでは。その姿は、出雲・吉田のたたら製鉄の高屋根の高殿を連想する。中国山地のどこかに、“そんな場所”を見つけられるかもしれない。

追伸
イチョウの雄雌にメールを頂いた。ありがとうございます。
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あのおっあんに、出会ったら教えておきます。イチョウといえば、ヨコオの1968年の東大駒場祭のポスターを思います。サービスでケンさんのヨコオ・番外地ポスターも。
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柳田国男はゴカノショウの地名は、だれも所有していない、税金かかるなら欲しくない平たい土地だという。番外地もそうですね。“河原ものたち”の河原も。
いまTVで都はるみのファイナルコンサートをやっています。ビックリしています。1968年は東大・安田講堂占拠が医学部学生によってなされた年でイチョウ並木の向うのジャングルといわれていました。その夏にアルバイトでいた東京でイチョウのジャングルをチョット見てから、都はるみの歌舞伎座公演いっていました。TVにとても痩せて傷んだ表情が映りだされています。ちょっと、泣きました。元気でいてください。「ミヤコ!ミヤコ!」
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by forumhiroshima | 2015-12-07 21:35
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