こひちろうの独り言 |
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先日は寒かった。ボロアパートはむき出しのコンクリート壁で、とても寒くて気持ち エエ?カ! 寒いと思い出すのが、比治山の東の段原交番よこの柳の古木の麓の水仙。同じ環境生活?仁保島の古バス通りの蝋梅は咲き始めた。早くも梅も開いてきた。水仙、咲いているかな? 交番は好きじゃないけど、柳の古木の鎮座を警護しているようで、そう考えると古木が凛々しい。柳が早春に薄みどり色の若葉を風にゆらせる景色は、特に夕日の残っている夕暮れが薄い緑の濃淡が際立っていいと、思っていたが、若葉は柳の花だという。3月の開花が楽しみになった。
面白い記録があって比治山と黄金山の仁保島がつながったのは江戸時代・寛文2年1662根とある(仁保島大河十軒屋誌)。普通はきっちりと年が記録されることではないだろうに。そのつながった土地は元禄12年1699年から年貢が徴収された。 大阪の淀川が生み出す砂洲の収穫へ課税は満潮時の海面より土地の標高が25cmほどになってからと、定められた。平安時代初頭の取り決め。 比治山、仁保島間に砂洲が伸びてつながった場所は柳の鎮座するこのあたりではなかったのでは、と思いが膨らむ。そこに畑がつくられ収穫されるのに三十数年の歳月があって、そこに城下への道が踏み込まれた。
島と島がつながる景色の手がかりかとおもえるエピソードがここに残っている。 霞町の2Rのホットモットと吉牛の西の交差点から南、黄金山の高台の住宅地の中に木立の繁みが濃い丘がみえる。緑の中、赤い鳥居と小さな本殿が長い石段の先にある。十軒屋稲荷神社でこの麓は十軒屋の地名がいまも残っている。この地名の由来が「大河地域誌」にある。 [元禄5年1692年浅野藩四代藩主が蒲刈島から島民十戸を移住させ、同じころ京都・宇治かた茶人を招き、比治山の谷に住居を建築、茶室も新築された。そこからの眺望の景色の一つとして十軒の民家が置かれた。十軒屋にも藩主休憩所がつくられ、西隣の大河の集落には藩主用の岩風呂も造られた。] よほどの美しい光景はそこにあった、のだろう。水墨画の景色をお殿様は再現しようとでもおもっていたのだろうか。博多・志賀島の海ノ中道の写真からでも、このつながった島の景色を想像してみる。志賀島への砂嘴の先に鎮守の海神社と、この稲荷が重なった。 広島城から十軒屋へ「往還道」が通っていた。往還道とはお役人が通行するときめられたルートの名称で殿様往来の道で、ちょっと庶民にはうっとおしい道、そこに宿舎等が整備されると、街道とよばれる。この道が比治山側から仁保島の山麓にぶつかるり進むと、細い小さな急坂があって、その坂をつくっている岬を殿様山と呼ぶ。坂をだらっと下ると山麓にへばりつく地蔵堂と黄幡神社の境内に入る。 往還道が通う比治山山麓にも黄幡神社があった。今のモスバーガーあたりか、杉姫稲荷神社かともいわれる。比治山西山麓の比治山神社はこの黄幡神社が移転された。比治山と仁保島と両端に黄旗神社が鎮座していた。海が割れ道が現れた“神威”への人々の驚きを感じる。
現れた道は、往還道と平行してもう一つ踏みこまれて表れた。殿様山と呼ばれる岬の先端からそのころの波打ち際に現われ、比治山の南端へ向かういまの旭町バス通りになったルートだ。この道を「大河道」とこのあたり一帯は高層ビルは広大病院のみで、空が広い。茫洋としている。 日清戦争開戦の1894年に鉄道宇品線の建設がはじまり、広島駅から埋め立ての始まった宇品の鉄道路線は往還道をなどって設計されている。そこは湿地帯の中でも安全な地盤があった。1904年の日露戦争開戦に国会議事堂が広島に移転された。いまの立町電停付近の広島市水道局と市営駐車場のあたりが国会議事堂だった。それに合わせて宇品線の周囲に旧陸軍関連施設が建設される。きっと農地にはなっていても、湿地帯で民家も少なかったのだろうか、それとも国家権力の強さからか、この辺りに集中して各種軍施設があらわれる。明治36年ごろの地図にはまだこれらの施設は現われていないが、仁保島と比治山との間に畑のマークが記載されており、乾燥した土地があらわれていたと想像できる。海中から現われた道、このことも、“海が割れ”た証だといえないか。 往還路の跡の道も大河道の跡もこのあたり一帯の埋め立て事業で直線に整備されて、今はR2国道に分断されているが、その面影が残っている。その事業が、海が割れ道ができた、神威の姿を消し去ってしまった。
by forumhiroshima
| 2016-02-02 06:17
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