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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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遠い、遠い、記憶の島影を見る

土地の名は最初のパイオニアたちの開拓の場所からと、「叫び」の波紋のように拡がって、競合する地名を消してゆくと言われる。残った地名が後日引き継がれ、そのあたり一帯の地名にされる。

ならば、「広島」という地名のスタート地点はどこなのだろうか?古地図に小さい地名で「広島」と記載されたものにお目にかかっていない。

福田 俊司という写真家のアルーシャン列島の景色作品のを見たとき、広島市内・比治山の谷の景色が浮かんできた。といっても、激しい妄想の力をもってしか、浮かんではこないのだろうが。

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今は消えてしまっているが、市内に古地図に記載されている島がある。古地図にその島は「亀島」と記載されて比治山の南に隣接するように書き込まれている。名前から亀の甲羅のような形の島だったのだろう。

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亀島があったかどうか、は今の地図では、また町名などにその痕跡を見つかられなかった。が、大河から比治山への古道のなかに、先日亀島往来道の名を見つけた。記憶は消えてなかった。

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比治山の南海岸に南に開かれた谷がある。この谷に浅野藩の御用医師の栗原休庵の別荘があった。この谷は休庵谷と呼ばれていた。休庵が広島に来たりとされている1619年は浅野氏が安芸国藩主として入国した年になり、休庵は和歌山から藩主とともに移住してきたのだろう。休庵はここに庭園を設けていた。彼が庭園を設けたころ、まだ亀島はそこからの景色にあったのだろうか。その景色が、福田氏の写真にダブっている。

休庵谷は広大病院へ東に入るバス通りの交差点を逆に西にむかって、坂の上りのトップで入口の三叉路に出会う。ここは車止めがある車道が山頂へループで入っている。比治山に階段のない、自転車を乗って登れる四つの坂道では、ここが最も走りやすい。広い奥行の谷の奥で道は斜面をゆったりとカーブしながら上がってゆく。春には山頂で桜の林にみちは吸い込まれる。ただし。ゴミ置き場の前を通ることになるが。

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この入口に縄文時代の貝塚遺跡の標識がある。

当時は太田川の三角州が発達しておらず,貝塚は広島湾奥の島の汀線付近にあったと思われる。戦時中の軍の工事によりその主要部分が破壊されたが,昭和2324年(19481949)の調査では,地表下30cmに厚さ約1.5mの貝塚が確認された。貝層は,上・下の2層に分かれ,上層から縄文時代晩期前半(約2,500年前)の灰褐色磨研土器,下層から縄文や同心円状の磨消縄文をめぐらす縄文時代後期後半(約3,000年前)の土器などが出土している。石器としては,石鏃(せきぞく),石匙(せきひ),漁網に使用される石錐(せきすい),自然遺物としては,シカの骨,タイの骨,ハマグリ,カキ,アサリ,シオフキなどの貝類が出土しており,狩猟や漁撈を中心とした生活が明らかになった。 広島教育委員会HP

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広島県での縄文遺跡で広島湾近辺では、この比治山遺跡だけが見つかっている。ここが「広島」の曙である、などと思ったりする。

段原交番の柳の西側、近年造成された住宅地に、以前比治山女子学園があり、そば南側に庭のある古びた壊れそうな床がきしむ料理も酒も安い料理屋があって、運動部の学生たちの飲み会の会場に使われていた。

その庭の奥まった谷に「比治山の一溪に茶室を新築し、花木を植え・・その眺望を佳ならしめ、藩主在国の時はしばしば此処に遊び幽邃閑寂の気を養う、元禄十二年閏年九月朔日に至り不用に帰し比の亭を崩解す、後世此の茶寮跡をお茶屋谷と称す、 広島市史・大正十一年刊」

香浦(ニホウラ)と呼ばれた猿猴川河口の広がった海に、浮かぶ馬の耳のような峰二つ(黄金山は馬耳山だった)を背景とした砂州が伸びてつながる。縄文の人々たちが、ゆるやかに、豊かに暮らせる場所。それは今の自分にとっての桃源郷に思える。

自転車旅行は、時として懐かしい、それはずーと昔からの、懐かしい景色を呼び起こしたりする。とても、いたずらな時間が通り過ぎる。

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1945年8月6日 原爆投下の朝、被爆した多くの人々が比治山に向かったと、宇品で被爆した父が語っていた。
なぜ、山へ人々は向かったのだろか。
「ヒジ」には水を語ることばだという。
袖ひぢてむすびし水のこおれるを 春立つけふの風やとくらん
(夏にの水組みで濡らした袖が冬に凍った それを今日の春の風がとかしてくれるのだろうか 紀貫之)
被爆の痛みに水を求めて山へ向かった人々に、水の匂いが比治山から漂ったのだろうか。浅野のお殿様のお茶の水がここにあった。


by forumhiroshima | 2016-02-03 09:55
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