こひちろうの独り言 |
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佐太神社本殿への石段の右に海藻をかける竹棒の棚がある。海藻だけでなく竹筒がさがっていることがある。 周防大島の久賀町の八田八幡宮の鳥居に小さな汐汲みタゴがくくられてあったのが、最初の出会いだった。澄んだ海のきらめきの朝に潮をくみ、参拝するその時間の豊かさが、望ましかったし、この町のそんな時間を見つけられたことがうれしかった。
「千年もまえにほろんだかもしれない古代が、このあたりでは民俗のなかにいきいきと息づいて、神々がなお暮らしの文化のなかで舞い立ったり舞いおりたりしているような---- 現実なのかロマンなのか、空と海の境のようにびょうびょうとしてさだかでない----感じがある。 司馬遼太郎 街道をゆく6 沖縄・先島への道」 司馬さんが琉球文化について、こう語っている。自分に、”出雲”に同じ思いをもって走ったことがある。
松江市内の東の岡のふもと、島根大学そばの朝酌川の対岸の小さな谷にある集落大内谷へ走った。朝酌の多賀神社から島根半島の千酌へ、「朝酒を酌んで、海でしっかりまた酒を酌む」などと風土記時代の道を想像しながら、むかっている途中の寄り道だった。
出雲国府そばに古代山陰道に佰阡・チマタと呼ばれた十字交差点があり、山陰道は正西道とよばれ、石見へ向かい、北へは枉北道・キタエマガレルミチと呼ばれ、北へ正面の風土記では女岳山とある和久羅山へ向かっている。古代道は郡家とよばれる役所を連絡する道で、役所はだいたい神社の場所に想定されていて、地図にその間を今の道に落とし込むしか想像できない。この予想と現実に、走ってそこで発生する落差がいつも混乱を運んでくる。その落差はとんでもなく勾配にある道に入ったとき発生する。古代の人たちはとんでもなく強健な脚をもち、目的地へは基本ストレートに向かう。その理解を忘れて彼らのルートに入ると、自動車走行に馴れきった自分の道に対する認識が、混乱をもってくる。オレは古代には対応できてない。そしてそのシンプルでストレートさが、古代道だという確信をひきだす。 大内谷の集落は古代の幹線道からはずれて、三方を尾根囲まれて、朝酌川にむかって西向きに家々がかたまって、北側の尾根に住吉神社と薬師堂が路地の奥にある。家々の玄関先の木立に汐汲みの竹筒がぶら下がってないか、キョロキョロと路地をまわってみた。 「この集落には江戸時代から、春3月に潜戸の加賀へゆき大芦、御津、片句、手結、恵曇、古浦の出雲七浦を汐を酌みながら回り、秋9月は、この逆にまわり汐を汲み、手結・タユで海藻をとって持ち帰り、住吉神社に塩草を奉納する。竹筒は庭の立ち木に下げる。」との記事があった。大内谷の庭先の竹筒は見つからなかった。
出雲では奉納する海藻を“塩草”とか“ジンバ”といって、島根半島の四十二浦の汐汲み遍路の神社でもみられる。特に海藻を掛ける棚を“出雲掛け”といって特別に「出」のデザインも長浜神社に設置してあるし、斐川町の富神社では出雲注連縄に掛けられる。 海藻の奉納を考えてしまう。潮による穢れの洗浄ということだろうが、潮は神様にならないが宮本常一の言葉だが、店先のしろい円錐形の盛塩は魔除けの神々しさだと思う。
俳句の世界で、”初汐”は仲秋の名月の季語だと聞いた。秋に”初汐”って、どうなん?だろう。 海藻は秋に海水温がさがると、胞子が放出され(遊走子)岩に着床する。生命の交代がはじまる。海水温の低下は外気の季節変化によるより、寒流の南下によっての影響が大きい。この列島に南下してくる寒流を親潮というのは、海の生物の基本の食糧の海藻の着床やプランクトンの成長が寒流の南下によるからだ、といわれる。”親潮”たる所以。
海の人々のサイクルのスタートが秋に始まるということ、それも仲秋の名月の夜の大潮からということが、俳句の季語になったのだろうか。稲作の人々の山の神の水に匹敵すること、かもしれない。
枉北道・キタエマガレルミチは、島根半島の稜線の山々にとりつく。すぐそばに”折絶”とよばれた地溝帯があっても、ストレートに千酌へ向かいたい様子。半島の南北の連絡でもっとも短い手角から北浦--千酌の5km標高30mよりも、4km標高160m忠山(風土記では墓野山)が枉北道・キタエマガレルミチになる。今は林道と整備されて勾配が蛇行ルートで軽減されている。目の前のピークに迂回しながら登る歩行者はいないだろう。昔は直登が基本だ。移動することが、まるで無駄のように、急いでいる。彼らに「旅」は感じられない。
バリアフリーのスロープの斜度は1/12もしくは1/18に設計される。手角からコースはこの斜度に近い。昔、大先生から、緩やかな斜面を、ペダルを踏まない感覚で走行することができれば、登りを体得できると教わった。そんな昔をこの坂で思い出したが、今もって体得できていない。むろんMTBの世界の話ではないが。
多くの島根半島にある小さな岬は断崖と岩場で上から覗き込むこともできない。灯台のある岬へ灯台のメンテナンス用のルートで突端にでることでやっと海にあえる。 ラクチンルートで着く北浦・稲積は半島の中でトップクラスの景観があり、岬と浜に神が、穏やかにひそやかに鎮座しておられる。幾度か訪れたのだが、集落の景色の記憶はない。海しか見ていたい。
出雲大社の本殿奥の曾我社には砂を参拝に持参する。福岡の海ノ中道の先っぽの志賀島の海神社もこの砂を持参する。古代の最大の海人集団の中核の神社。なぜ、砂なのか? よく分からない、といったのは柳田国男。総合雑誌「太陽」の初代編集長だった民俗学者、谷川健一が敦賀湾の西側、立石半島の海岸に西浦七浦と呼ばれる部落がある。集落の海岸に産屋が以前はあった。その産屋に砂がひかれているのと土間になっているのがあった。集落の老人の話として、お産が終わった母親は新しい砂をひいて小屋を去らねばならない。その砂を「ウブスナ」と呼んだという。 ウブスナは、「産土」と書かれる。それは砂から三和土にかわって「産砂」が「産土」になったからだという。
by forumhiroshima
| 2016-08-03 21:53
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