こひちろうの独り言 |
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出雲街道も国道R-54も南から土師ダムを見たあたりから合流して河畔の道になる。上根の峠から北上してきた簸川にダムからの可愛川と合流する氾濫原になる。この辺りが佐々井から桂と呼ばれる。佐々井のササは川の堤で井はここでは川。早くから堤防があったことになるのか。そうなら、堤の上に道が造られた。それがR54になっている。
「桂」は明治維新の桂小五郎のち木戸の祖先がその地の名を名乗った場所で、それだけで何か特別に思ってしまうから、可笑しい。「カツラ」地名は小五郎活躍の京都の桂川と同じで「“徒歩渡り・カチ渡り”の浦」で“カツウラ”からだと言われる。浦は裏とおなじことで、表と裏の境界をいい、山では平地と山場とか集落と尾根の境界をいう。歩いて渡れる湿地。都の桂川は浅い。土佐・桂浜は遠浅か?。古代には田園開発の好適地だったかもしれない。が、洪水もやって来る。 この湿地はけっこう大きかったのだろ、今の平地を北上して出会う小山の上のある埃の宮・エノミヤまでR54しかルートがないことがそう思わせる。不安定な土地にはいくつものルートは存在できない。やっと足が前に運べるこの場所であった昔からのルートにあたるのだろうか、国道は狭くて東側の歩道しか自転車・歩行者に安心安全はない。ドロップハンドルに付けて後ろをケヤーするバックミラーは鏡面が小さくて、それをのぞき込むときが不安定になる。自分は使ってないのだが、年からか振り向く幅が小さくなってきたなぁ。 埃の宮・エノミヤは安芸郡府中町にもあって、神武天皇東征伝承があり、ここにもその伝承がある。神社が鎮座するこの辺りから川名が江の川・エノカワになるのだろうか。不安定な場所、故に神が鎮座したのか。 ![]() 毛利氏はここに桂城を築城し、南からの侵入を監視した。川もが湿原も守ってくれる。 今、川は同じ名でよばれるように誰かに決められた。昔、川の名は場所、場所でちがって呼ばれてきた。その名の区分に神が鎮座する。“誰か”は神を見ていない。 ここは人々の記憶に“難所”として残る場所になろうか。埃の宮の神がいかに水抑えの神威を期待されたかが、実感で、つたわってきた。「エノミヤ」は江、の神と、どこからか伝わってくる。そう!神の声。 江の川の堤防も兼ねている小山に鎮座する埃の宮の参道の脇に川への細い未舗装の場所が川側へあった。空いているけど、誰も使えない場所。未所有な空間、不可侵な空間、神の所有地。神の境内。たどると水門があってここも氾濫原の跡だ。その先に堤防の上の道が吉田の市街地へ伸びている。川面は広々とした展望に拡がる。毛利氏の里の大きさに驚いた。 桂の氾濫原は吉田の南の守りには最適でここに桂氏の居城がおかれていた。城と吉田とのルートの痕跡がないか、と国土地理院のそれも1:25000でもっとも古い版を求めた。が戦後の版がもっとも古いものだった。そこに、この氾濫原の西端だったろうルートをみつけたが、やはり埃の宮に吸い込まれた。 ![]() 地図を覗いていて、視線を東へむけると、山中に不思議!と、感動した(オオゲサ?)地名を発見。ここへ走らずして、オレではない。 江の川の右岸、山中に南北に直線に開けた谷の奥まったところに、古麻原の地名が見えた。 出雲街道が太田川を離れるところを可部と呼ぶ。古代安芸郡漢弁郷・カラベと呼ばれそのこらカベの呼び名が生まれた。この郷のほか、祇園西原・東原、戸坂は古代の幡良郷・ハタラは古代に半島にあった新羅からの渡来の人々の居住地だったという。新羅から白木山の名を連想する。 江の川の右岸、吉田の町の対岸にみつけた地名、古麻原は高句麗(コマとも読む)古代半島の国家の名が残っているのではないか?この地名は現在の地図からは消えているが。 古代の渡来の人々への幻想に浸れる場所って、そんなに出会っていない。いいね!いいね!
by forumhiroshima
| 2016-11-05 17:49
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