こひちろうの独り言 |
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宮本常一「私の日本地図」、司馬遼太郎」街道をゆく」、そして坂口安吾の「安吾の新日本地図」これらの紀行文をテクストに、そこにある気分をいつもトレースして走っています。古麻原のコマに反応したのは、坂口安吾の気分を思い出したからです。
『「明日がお祭りだそうです。今日はその練習だそうです。」 社殿の下に人が群れている。笛の音だ、太鼓の音だ、ああ、獅子が舞いみだれている。 笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供たちの 「も・う・い・い・カ— い」 「ま・ア・だ・だ・よ— オ」 という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂にしてきくと、この単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。』 坂口安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛、からの抜粋です。安吾って音楽の才能があったのでしょうね。彼の歴史への視点が特異です。モウイイカイ、マーダダヨ、がすごく印象深い。歴史書では語られない、人々の情景が浮かんでくる自分に、すごく驚いた。自分にとって、安吾のNO1です。読んでから以後、“コマ”にひどく反応してしまう。抜粋を続けます。 『続日本紀元正天皇霊亀2年(716)5月の条に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置くとある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官選国史の記事なのである。この高麗は新羅滅亡後に半島の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。高句麗は扶余族という。 扶余族の発祥地はハッキリしないが満州から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、列島の諸方に住み着いていたとかんがえられます もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南朝鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千周百年に於いても易々たるものであったことは想像にかたくない』 高麗の人々の痕跡が、吉田の古麻原(小山とも呼ばれた)にあるとする話をどこかにあるか、つたない努力をしてみた。室町幕府が成立したのが1336年、毛利氏が吉田に入ったのが1338年。南北朝の戦乱のなか、厳島神社荘園の横領があいついでいた。1350年ごろ古麻原を小山といい毛利氏の押領によって厳島神社荘園から毛利氏の領土となった、調べられたのはこのことぐらい、でした。でも、コマハラとコヤマとが、シンクしているような。コヤマの後ろにコマが“かくれんぼ”していそうな・・・。 江の川河畔を離れて山中へのルートに入ると、一直線に広い谷間が南に伸びて田園が広がっていた。 山裾から真北に向かって開かれて、江の川でその出口を密閉されたような谷間を、“宮本常一”なら、この谷がいかほどの米の収量があり、よって幾人の人々が飢えずに暮らせて、尚且つ余剰があれば、人々のなかからリーダーが生まれ、集落が継続される時間があればあるほど、支配する家は成長し、屋敷が作られた、と一見して見積もるだろう。それは自分の妄想とはかけ離れたものだろうが、できれば、それを知りたいと登りに入った。 真北に開かれた土地はもっとも均等に永い時間の日照の力を受け止められる土地で、水があれば、それは豊かな田園に変えられる未来がある。土地の未来へ差配した家はその水をコントロールできる谷間の水口に根をはる。水の配分が権力を生む。豊かさがそこに主の屋敷を造る。 尾根の麓に民家が点在してある。川沿いに道は緩やかで、久しぶりの谷間に、明るい日差しにも、まずトップへ、と気分が浮きだって、神社の鎮守の森を横目に、そんな選択をしてしまった。宮本常一先生!はまず高みから谷を眺め、墓所を覗けとおっしゃる。フィールドワークなどといったものじゃなく、せっかくの時間、そこの成り立ちにつながる時間をさがせば、そこの人たちの生業・ナリワイを感じることができる、という。暖かい眼差しがある。宮本常一は主の屋敷ではなく、土地に格闘してきた人々のすべてを見ようとしている。「自分だったら、ここで、どう生きただろうか?」などと思ったりもする。 田んぼの畦も家の敷地も美しく積み上げられた石垣で覆っている。その石垣の裾に細いテーブル状にまた石垣の袴が回っている。どっしりとしていて、それでも軽やかなのは一つ一つの積石が割り石のままで、手仕事を感じさせるから。 トップの屋敷のまえに小高い背丈の橙とも八朔ともわからないが黄色く色づいた実がたわわにぶらさがって、その下の玄関の前のネットで囲まれた畑の中に老婆が見えた。 道の先は尾根に向かっていて、標高差は100m程か、このままで越えられるか?と尋ねようと声をかけた。 振り向かれたが、無口にネットの出口にむかって歩かれる。しばし待たれぃ!なのか。 出てこられると細身の背がたかい、きれいなおばあさん、どこか法隆寺の百済観音ににていなくもない。百済じゃなくて、・・・高句麗なのですが??。 「耳が遠いのよ、その道は行けませんよ、戦後にはそこを通ってヤミ米買いに沢山来られたものですがね。今もう通れませんよ。その先から左に道があって下へ帰れます」「あのみかんは高くて採れないですよ。鳥さんのえさですよ」と、くっると背中を向けられて、ネットに入られた。 先の道に高く切り残した切り株のある墓所があって、きっとあのおばあさんの家の墓所だろうと、のぞき込んだ。「寛田家」と刻まれた墓標がいくつもあって、その中に自然石の墓標、そして玉の石があった。 「玉」は古代朝鮮半島の国家創成伝説に出てくる。女が日光を受けて卵を産む“卵生神話”は、高句麗の始祖・東明聖王、新羅の始祖・赫居世、金官国の始祖・首露王など多い。 新羅で女が虹によって妊娠し生んだ赤い玉から生まれた阿加流姫が日本に逃走した。その姫神は北九州・鹿春神社、国東半島の姫島・比売許曽神社、呉の亀山神社、大阪・比売許曽神社や赤留比売神社など瀬戸内海を北上する伝承もある。 「玉」子の石は見つけるとドッキとし触りたくなる。生命の誕生を玉に象徴させ国家創成伝説神話にするという人々は、民族という一つの塊・カタマリの証明ではないか。墓所に玉を置くことに、海峡を越えた人々を感じないでもないのだが。妄想に過ぎないのだけど。 おがあさんが行けないと話した道のほかに、もう一つ尾根奥に向かう道が地図のあったけど、おばあさんの足元にそこへの分岐があって、行きづらく、通り過ごした神社へ下り始めた。
by forumhiroshima
| 2016-11-11 11:47
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