こひちろうの独り言 |
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2世紀ごろに大陸からもたらされた鏡に刻まれた銘文は、紀元前2世紀ごろに成立した「淮南子」から引用されたものが多いという。(鏡が語る古代史・岡村 秀典) 「円なる天を頭に戴き、方なる地を踏み、正しく東西南北の方向を体すれば、内は身を治め、外には人を得、天下に号令してみなその風に従わせることができる。淮南子・本経訓」の 意味が銘文される。卑弥呼由来の渡来の百の鏡にもこの言葉の意味が刻まれている。
この国の古代からの統治者たちが従った、極北方位への理解が広島城築城における町割りの都市設計にそぐわないこと。それ故に、この町に正しく東西する、春分・秋分の冥土信仰が土地に刻まれてないこと。が不思議だった。西国の王者の毛利輝元が望み、下って明治の緊急であったとしても首都とされたこの町に、・・・である。
「広島というところは、死んだ人のゆくところであったようだ。人が死ぬと“あの爺さんは広島へたばこを買いにいったげな”と噂するものがあった。広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。宮本常一・私の日本地図」宮本の故郷・周防大島での話。 「広島へ煙草買ひに行くというのは、伊予の内海側では“死ぬ”という代わりに使われる忌み言葉になっている 柳田国男・夏山雑談」
伊予の内海側の町・今治の旧制中学を1930年に卒業し、広島の旧制高校・広島高校(現広島大学)の図書館で閲覧した海外建築雑誌に掲載されていた、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志望すると決めた青年がいた。東京帝国大学の工学部建築学科大学院を1946年卒業ののち、平和記念都市建設法の1949年成立に際して行われた広島平和記念公園設計コンペでル・コルビュジェが提唱したピロティ(独立柱)で二階に持ち上げられた広島平和記念資料館の設計などに評価をうけ、入賞し1954年にその設計による公園は完成した。
(ドームの北側そばに暮らしていて、小学二年生のころの1954年、公園の北の位置に大きな木製の卒塔婆なのか、建ててあり、そこはいつも線香の煙が立ち昇っている場所だった。たしか、そのころの8/6の慰霊祭の会場だった。慈仙寺という寺があった場所で、いまは無縁の遺骨が収められた原爆供養塔になった。細い立木がバラバラと植えられている周囲の町並みとは別格の景色の公園だった。むき出しのコンクリート壁の建物はどこか廃墟におもえた。)
このコンペの作品は1951年のNO8近代建築国際会議・CIAMで発表され、日本建築学会の戦後世界へのデビュー作品となり、戦後の日本建築設計の世界への出発点となった。(鈴木博之)
こう紹介する鈴木博之は1945年生まれ、東大建築科の教授(2014年歿)。かれの著作・日本の地霊・聖地創造で「丹下健三の広島」と題して“彼の平和記念公園”を紹介している。
「平和記念公園の中心である原爆慰霊碑は、HPシェルという数学的な曲線でできている。HPシェルとは放物線を双曲線に沿って移動してできるカーブである。・・・考えてみればこうしたかたちの碑というのも変なものである。屋根のようなかたちを採用しているから中空のトンネル型をしている。向こう側にぬけるような記念碑というのは、あまり例がない。意図的にこうしたかたちを選んだとしか考えられない形態なのだ。・・・祈りのために集まった人々は、このHPシェルのトンネルを通してその先に建っている原爆ドームを見ることになる。すべての焦点は原爆ドームなのであり、そこに向かって計画は周到に練り上げられている。 日本の地霊・聖地創造」 「広島平和記念公園の計画は原爆ドームをすべての中心に置き、この一種聖性を帯びた廃墟に捧げられた場所を造り出すための計画なのである。日本の地霊・聖地創造」 ※ドームの聖性(原爆ドームとよばれる廃墟は、鉄骨の骨組みの上に銅板で葺かれたドームが原爆の熱線で溶け、鉄骨がむき出しになり、続いて襲った原爆の衝撃波は、隙間だらけになった鉄骨の間を通り抜けて、下の床や窓を吹き飛ばした。この理由で衝撃波に破壊され跡かたなく消え去ることを免れた)この存在の奇跡を“聖性”といっている。
「原爆ドームをピロティの反対側からも印象的に眺められるようにし、原爆ドームと慰霊碑を結ぶ軸線を建物に遮られることなく延長させ、通過させる。こうした場所のデザインは、ただちに厳島神社の境内配置を想起させる。日本の地霊・聖地創造」 「神社が島を避けて海上に設けられたため、その構成は地形によって制約されることがなく、じつに整然としたものになった。基本的に左右対称の構成をもつ建築物配置がなされ、中央に海上の鳥居から神の山にいたる軸線がまっすぐに通る こうした構成が広島平和記念公園の計画に影を落としていることは明らかであろう。原爆ドームから慰霊碑を経て平和記念資料館のピロティの間を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線とまったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島全体を背負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い そのドームはさらに広島の町全体を負っているのである。日本の地霊・聖地創造」「慰霊碑のモニュメントは水を張った掘割のようなものによって囲われている。・・・厳島神社の大鳥居が海上に立てられていることを想起させるものでもあるのだ。日本の地霊・聖地創造」
by forumhiroshima
| 2017-08-05 18:12
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