こひちろうの独り言 |
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430年程前の天正17年(1589)2月20日。 吉田町を出発した毛利輝元が北庄(広島市安佐南区川内あたり)の福島大和守元長の屋敷を宿舎にして己斐・松山、明星院・二葉山、比治山に登り、広島城の場所を定めた。(広島市新史)。福島元長の屋敷が浅野藩・芸通藩史(1825年完成)にある絵地図に書き込まれている。どんな所にすんでいたのか? 江戸期の芸通藩史の地図にある福島氏屋敷跡の八幡神社が地名だろう才ノ木に記載されている。いま才ノ木神社として古川(旧太田川)の面してあり、福島氏の祈願所であったという。「才ノ木」は「塞」、さえぎる神で境界を示している。キは城ではないだろうか。ここに福島氏の邸宅という城塞があったと、妄想すると、何だかどこかでみた戦国の映像がうかんでくる。 この場所は古川を渡って古市という昔の市場に賑わいを思わせる場所に渡る地点で、ここに屋敷、城塞があるってことは、川を渡る人から通行税をいただくtoolgateなのでは。福島大和守は渡し人・船頭さんの親方のだろうか。 「どこへ行くのよ、知らぬ土地だよ・・・」渡し場って心地よい響きがある。千葉・松戸の矢切は谷・ヤのオワリ・切、谷を出てきたところ。ここの矢口は谷・ヤの入口、これから谷を登る。追分は山へ分け入る。落合は下ってきて出会う。旅の言葉に憧れる。 古代山陽道・大宰府官道がこの才ノ木神社そばを抜けている。福島氏の神とともにいた官人としての姿が浮かんできた。古代の行政は神に寄り添っているように感じている。大和守という朝廷が下賜する官職の位が輝く。官道は府中町を経由して戸坂から古市、大町へ、とむかったという。 古代山陽道・大宰府官道が府中から戸坂へ入る場所に7,8世紀、条里制といわれる長方形が並ぶ田が拓かれた。そこに中山峠の谷から南へ流れる中山川を条里制の地割に直角に曲げ合わせる古代の川の付け替え工事の痕跡がある。JR芸備線の中山踏切を府中町へ向かう土手道がそれだ。 ![]() 桜が伐採の土手は条里制時代の設計でその南北の角度が安芸郡系条理角度といわれ(祇園あたりの条里制の痕跡は佐伯系といい安芸系とは角度が異なる)。安芸系は中山峠を越えて、戸坂の条理制のラインに現れる。条里制は神社を基点に設計されている。その一つの基点が西の狐爪木神社・クルメギ、また一つが東の三宅神社の位置とされる。戸坂に安芸系の条理制の区分が残されている。 中山峠の登り約1.6km標高差45mほぼ直線の古代官道仕様と、JR路線が平行してシートで覆われた路線の無機的な景色が、つらい。下った戸坂の町並みに入ると、道や水路が直角に交差している。それに引き換え西の狐爪木神社のあたりから道が交錯しはじめる。この対比は条里制の名残の景観となることを残しているのだろうか。古代の課税単位は「束・ツカ」で、戸坂にある“千束”地名はそんな遠い時間の豊かな収穫の景色を思わせる。農地の広がる景色があっただろう。 戸坂の西の町・くるめ木の並みの道は曲線に交錯している。鎮守の狐爪木神社のクルメギはクルメク、川が大きく蛇行する場所に付く地名との説明は納得させる。川が残した不規則な砂州にそって人々が寄り添って交錯する道になり、広がった町なのだろう。クルメについた「キ」は「城」でここの小山に中世の城があったと妄想したくなる。尾根の先っぽを切り落とし、城にする瀬戸内海の海賊たちを感じる。そばに八坂神社・祇園さんがあって、古い賑わいがあっただろう。路地の郵便局の景色も古風がある。 安芸大橋にもどる。ここに吊り橋があった記憶があって、昭和27年に架けられたとHPで見つけた。それまでここに渡船があったそうだ。条里制の安芸系角度も太田川を渡り、東原にその直角な道筋で痕跡を残している。
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by forumhiroshima
| 2018-02-20 13:17
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