こひちろうの独り言 |
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広島市立図書館の二階の郷土資料室の北向きの窓の正面に広島城天守閣がみえる。書庫の棚に自治体発刊の歴史書だけでなく、市井の郷土史家たちの労作も並んで、それらは興味深い。その一つの最も厚い「新広島城下町 郷土研究会 1974年第7集」を棚から引き出した。その挿絵のページに広島城位置を決定したという二本のラインが簡単な地図上に引かれて、それが交差する場所が眼前の天守閣の位置になった、とある。 「広島城を築城するさい、毛利輝元(元就の孫)は先ず牛田・新山に登り、厳島の頂上に一線を画き、次に二葉山と己斐松山(旭山神社)に登って一線を引いて、その交差する点を、天守閣の位置を定めた。それで新山を一名「見立山」という。△・・・影向線の訳 厳島神社のご鎮座縁起に「御山を影向地と定めて宮を建つことなり」という。影向線は甲午線とも書き、方位学、家相学でいう表、裏鬼門の意。それで広島城の天守閣を定めるにあたり、安芸国の一宮たる厳島神社を中心に影向線上に建てられたもの。」と説明されている。 ![]() 書庫の棚にある、大正時代に広島市から発刊された廣島市史に、広島城が建設される前の大田川の河口の五箇庄と呼ばれていた砂州の地図が掲載されている。その古地図上に二本線を想像してみた。 1961年刊行の新修広島市史・昭和33年広島市発行に、広島城の1958年再建の際の天守閣の地質調査報告書を見つけた。そこに天守閣の地盤の図が掲載されている。岩礁や小高い場所があったのでなく、人工的に砂州に小石を積み上げ盛土され、石垣が組まれたとある。地盤が強固な場所などの土木条件による選定でなく、特別の何か、ここでなくてはいけない、ないか、があったのではないか、マジカルな選択と決定を思わせる。郷土史家たちのいう「影向線」とやらが、その謎の選択の正体なのだろうか。 築城位置の決定の逆方向で確かめることにした。ラインの実態を地図に落として確認してみようと、己斐松山の旭山神社をマークして天守閣を経由する直線を、東方面へ伸ばしてみた。尾長山の山頂にピッタリと張り付く。宮島の弥山山頂の三角点からやはり天守閣を経由するラインを引くと、牛田の見立山の尾根に到達した。単なる都市伝説ではないようだ。計測され設計されている。広島城域の設計図の存在を確信した。毛利輝元とその一族の築城への決意が都市伝説伝として郷土史家たちに見出されている。 (地図は国土地理院の数値地図で表示しているGISソフトウエアー、カシミール3D山旅を使用。ラインの見通し(プロフィールマップ)、距離、方位も計測できる。) 己斐、旭山神社は毛利元就が1555年厳島合戦の際に必勝祈願をした由来がある。そして勝利した。神社ホームページに元就が祈願した朝をもって、旭山神社とそれまでの己斐八幡神社から改名されたという。築城主の毛利輝元は父毛利降元を11歳で亡くし、家督を継承するが、祖父元就が彼を後見している。毛利家由来の場所で、小高い丘のある見通しの良さで選ばれたのであろうか。二葉山は江戸時代に浅野藩により改名された呼び名で、矢賀山と呼ばれたと矢賀郷土史にある(矢賀郷土史・山田隆夫)。山の名は見る麓の名で呼ばれることが多いようで複数の名があることもある。矢賀の西側地域が尾長である。この山頂には広島空港の無線電波灯台が残っていえ、さきの戦争に高射砲も置かれたといわれる展望の良い場所だ。円錐形の山頂は麓の聖光寺の山門をくぐると正面に仰ぎ見れ、この寺に輝元一行が城地選定に(1589.2.20)最初に集まった場所で、築城設計ライン一端がここと、この景観で納得でした。この寺で城域を広島と命名し由来があって、山門に広島山と額が掲げてある。 宮島の弥山山頂から天守閣を通過するラインは、牛田、見立山の尾根の東端を通過する。グーグルマップにある見立山のマーク位置には広島市が設置した展望掲示板があるが、そことは40m程東へよってラインは通過している。尾根にはちがいないが見立山といえるピークは尾根にhみあたらない。が、尾根の麓に日本陸軍の設置した見立山の記念塔があったりして見立山の地名は結構周知されている様子だ。尾根の掲示板から広島城天守閣は建物にかくれて見えない。ただ天守閣南に隣接する県立総合体育館の丸い大屋根を宮島からのラインが地図では通過しており、その北側の天守閣への想像で弥山へのラインの展望が確認できる。見立山から宮島・弥山間21kmは天守閣の設置点には遠すぎると思うのだが。元就が宮島合戦での上陸地点と言われる包ケ浦をラインは通っている。マジカルと言えばマジカル、かな? 地図上でかなりの精度で、確かに2つのラインは交差している。これが一番マジカルなんだ。
by forumhiroshima
| 2021-04-10 14:45
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