こひちろうの独り言 |
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広島城位置決定には牛田・見立山から宮島弥山山頂に結んだライン、影向線を使っているという。影向・ヨウゴウ?って、なに。 東大寺のお水取り、修二会の法会・修行に僧侶が退出するまで二月堂の堂内で過ごしたことがある。 ![]() ![]() 1250年も欠かさずつづけられた修行に、奈良時代から現在に至る間の東大寺や 二月堂に関係した人々、或いは修二会に参籠した僧侶等の名前が記された「東大寺上院修中過去帳」をその人たちの冥福を祈るために特に読み上げられる。「”鎌倉時代、承元年間(1207-1211)に修二会中、集慶(じゅうけい) という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で「青衣(しょうえ)の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。(東大寺HP)”」 青衣の女人は現在も読み上げられている。その声を聞きたくて、夜半まで狭い堂内でうずくまっていた。 僧侶たちの激しい動作の影と燃やされる松明の火とに包まれてるうちに、青衣の女人の読み上げを聞き逃したらしい。その夜の法会が終わると僧侶たちが松明に囲まれて退堂していってハタと気づいた。いつの間に終わってしまった。熱っぽくなった頭を持て余して過ごしているうちに、ブラブラと浮見堂の堤あたりにきていた。春日大社の背後のまだ暗い御蓋山・ミカサヤマが、朝日の中で明るくなってきた春日山連山を背景に影として浮き上がって現れる。 ![]() 春日の神の御蓋山への降臨の「鹿島神立影図」絵図を思い出していた。神は白い鹿に乗り、常陸からここに鎮座しているが、すでに地主の榎本の神がおられた。御蓋山に鎮座をもくろんでいた鹿島の武鬢槌神に土地を乗っ取られ、今は本殿の南側の塀の外の祠小さくおられるのだという。 ![]() 平城京遷都が710年。その約50年のち春日大社創建。都城の道はすでに碁盤の目状に区画されており、三条大路の東端から春日大社の位置は少し南に寄っていて、御蓋山山頂の真西N34.40.53の北緯にある。山頂の本宮神社の北緯と同じ。東西に置かれた三条大路の東端にある一の鳥居。ここから東に向かう直線で伸びる参道が南方向に100m曲がって二の鳥居から本殿にはいる。奈良・平城京の道の設計に外れて、わざに本殿の位置が御蓋山の真西に置かれたことが気になる。大社は三条大路と四条大路の間を四分割する小路にも該当していない。この都の設計に御影山は考慮されてなかった。 ![]() このぐらいの誤差は仕方ない、とはいえないのだ。古代の都城、難波の宮、板葺の宮(明日香村)、藤原京、平城京、平安京の市街地道路の設計は南北の子午線を基準とされていて、誤差は約21分から23分西へ振っている(京都学園大学・臼井正)という。1000m北へ進んで右へ7mずれる程度の誤差だという。すさまじく精度がいい。神仏は意味なく配置されることはない。 南北線ばかりか東西線の北緯も、御蓋山山頂、春日大社から、平城京のはずれ西ノ京にある垂仁天皇陵、その西の生駒山山頂、そして大阪の前期難波宮址と東西間約30kmは北緯N34.40に立地していて、御蓋山にのぼった春分・秋分の太陽は、おのおのの正午に真上を通過する。東西に違わず並ぶ、御陵、山、春日大社とをこれほどの同じ北緯は、なぜ平城京道路設計とのずれたのだろうか。三条大路はなぜ春日大社の参道にならなかったのだろうか。 平城京誕生の半世紀の後、生駒山と御蓋山とのあたらしいラインが平城京の都城の由来にくりこまれ、神の影向と降臨を現実のものとする作為があったのではないだろうか。宇宙を感じさせる太陽の動きが東の聖山から西の聖山へと説明されれば人は引き込まれるにちがいなかっただろう。その中間点の御陵・垂仁天皇の名はイクメイリヒコ。生駒ににていませんか。このラインに古代の天皇をも引きこむ、そんな計算、だれができたのだろうか。 生駒山山頂のラインは賑やかだ。山頂のほぼ直下の麓の枚岡神社(N34.40.10)から、春日大社の祭神の天児屋命と姫神が春日大社に遷祀されている。山頂ほぼ北の麓、枚岡神社から1.5km北に神武天皇と戦った物部の神・饒速日尊・ニギハヤヒを祀る石切神社(N34.40.56)、その神武天皇上陸地で地元の長髄彦に敗北した戦場、孔舎衛坂・クサカエサカ(N34.41.38)が1.6km北だ。古代神話が重層している。瀬戸内海を東に航行する船の舳先の展望に難波宮と生駒山山頂との見通しが重なると、そこが平清盛の大輪田の泊(N34.40.15)がある。神が指し示す、まさに”神の戸”だろう。(神戸の地名は生田神社の支配地のをいう、となってるが、生田神社は元は新幹線新神戸あたりに鎮座していた。港神戸は海と陸との交流の戸では?が美しい) 古代難波宮の北隣になる織田信長と戦った浄土真宗・蓮如の石山本願寺がのち秀吉の大阪城で、この東西ラインに近世も乗りかかってる。秀吉は正・東西南北で真四角、方丈に大阪船場の町を建設している。 ![]() ラテン語の、Genius loci、ゲニウス・ロキを建築家の鈴木博之は。「姿形なくどこかに漂っている精気のごときもの。ある土地から引き出される霊感とか、土地に結び付いた連想、あるいは土地が持つ可能性といった概念だという。”東京の地霊ゲニウス・ロキ”」影向・ヨウコウ、来迎・ライゴウの起きるってそんな感じがする。それをラテン語でいわれると、なんとなく判った気分になれる。経度緯度という宇宙観は影向という響きを強く感じさせる。それは時の流れに竿さして渦をおこす磐のように響させる。。 夜目、遠目、笠の内、とは女性が誰しも美しい!時がある。アンブレラじゃない笠!。田植えの早乙女、花笠の乙女、阿波踊りの鳥追い笠の乙女、笠を付けることにのより、彼女たちは神の巫女になる。海の厳島神社も海の御笠浜に鎮座地している。
by forumhiroshima
| 2021-04-20 14:57
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