こひちろうの独り言 |
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奈良三条大路の西端のイクメイリヒコ御陵から生駒山の山頂のテレビ塔が見える。 ![]() ![]() 「イコマ」は邪馬台国の卑弥呼(242から248年ごろ死去)を支えた官職の中に見られる「伊支馬・イキマ」ではと、魏志倭人伝の記載から明治時代の京都大学の歴史学者、内藤湖南が提唱した。”コナン”の推理なんでス。2世紀のはなしなんだ。生駒山地はイクメイリヒコの領地とされて、住吉大社に寄進されたことでもこの地名由来になるという。イクメイリヒコ・垂仁天皇と、お父さんのミマキイリヒコイクメ・崇神天皇とに「イリ」がついていて、大和に西から進出したことで「イリ」が呼ばれるという。このこと。古事記ではミマキイリヒコは168才、イコマイリヒコは153才の長寿だとある。凄いです。この長寿から架空とされても、架空じゃない。人の業績には死後におこなわれたものがある。それを「滅後の真筆」というそうだ。「イリ」は八重山列島の西表島・イリオモテシマのイリを連想させる。お日様が海に沈むから「いり」なのか、西からやってきた人たちがいたから「イリ」ってことか。 九州・日向を出立した神武天皇は東征して生駒山の西の孔舎衙・クサカエに上陸「イリ」の伝承だが、その地は今の生駒山頂の北のふもとの、日下・クサカだとされる。生駒山頂の少し北になる。が、上町台地北端に上陸を想定されてもいる。明治時代の神武天皇上陸地点推定図があって、そこに古代難波の宮になるあたりが上陸地となっている(明治時代の東京帝国大学の学術論文)。 ![]() 生国魂神社には「難波の宮でナニワの海岸に生まれ出る砂州の島そのものにむかって、儀式が生島御巫・イクシマカンナギという巫女がいた。新しい天皇が誕生すると、用意した箱に新しい御衣を入れ、渚で箱を開き誕生しようとする島々の霊力を呼び込み、その霊力を衣に付着させる。眼前に波立つ広々とした海に次々と生まれる八十島に生成する宇宙を巫女たちは見てた。(大阪アースダイバー・中沢新一)」 ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が新しく国造りに生国魂神社の神を鎮座させた伝承は生き生きとして感じさせる。地名から上陸地点とされる日下は厳しい斜度の尾根の下で、とても上陸地点には選べない、と思った。上町台地の北端には先住の生国魂の神そばに古代前期後期の難波宮が建設、のち浄土真宗の蓮如が石山本願寺を、そして秀吉、家康と大阪城建設の地の歴史が重ねられる。まさに地霊・ゲニウスロキの地、最強のパワースポットに違いない。なのだが、日下にはそれらしき神社も見当たらないのだが、5世紀の蒙古系12才(どうしてわかったの?)が発掘された日下遺跡がある。「江上波夫の騎馬民族国家」がチラチラします。 生国魂神社の古来の鎮座地てもある秀吉の大阪城の三の丸があった場所に玉造稲荷神社が鎮座(北緯34.40.41・ほぼ同じ北緯)している。神社HPでは神武天皇到来から約600年のちのBC12年垂仁天皇・イクメイリヒコ創建の伝承とあり、下照姫命奉斎。神社HPの由来では「当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。」とあるのだ。ここから約2kmの南東に深江稲荷神社がある。神社HPには「深江稲荷神社は垂仁天皇・イクメイリヒコの御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請した」とここにもイクメイリヒコがあらわれる。
by forumhiroshima
| 2021-06-05 15:04
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