こひちろうの独り言 |
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玉造稲荷神社から東に約4kmにある深江にもイクメイリヒコの痕跡が残っていた。そこにある深江稲荷神社に大和から笠縫という笠造りの人々を大和からイクメイリヒコが移住させた伝承があって、境内にある深江郷土資料館に今も菅細工保存会が菅笠造りを伝承する活動が続けてられている。館内に菅が育成されている。伝承の熱気がある。 「古代2000年前より連綿と伝わる菅細工】菅細工保存会HP(http://www.fukae-suge-zaiku.jp/)には。 大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(かさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」には、深江の菅笠が献納されてきました。菅笠のことは、万葉集などの歌集にも記されています。押し照る浪速菅笠置き古し 後は誰が着ん 笠ならなくに (万葉集巻十一・二八一九)奈良時代の927年に完成した法令全般の施行細目の延喜式に「菅蓋一具・骨の材料は摂津国より笠縫氏参りてつくれり」とあります。」 今昔マップ(https://ktgis.net/kjmapw/index.html)は国土地理院発行の年代が違う地図が比較できるアプリです。深江の明治41年の地図を見ると、河内国と摂津国の分岐にあり摂津国に所属して見える。Googleマップで大阪市という検索をすると、明治の国境線がいまの行政区分と同じに細い破線で示されてる。国境を示す破線は深江の集落が摂津領内で、国境が海岸線になることから、島だったと思える。淀川、大和川などの氾濫原の摂津と開拓されていた河内国の境は満潮線を境とされた。境とされた場所には守り神や遮る神が招来される。 「笠の下に神いますという思想はオリエントの発して東方にひろまった。仏として釈迦を描くことははじめタブーとされた。絵には菩提樹の枝に笠が吊るされ、その下の空白に釈迦がいますものとされた。のち仏像が作られ始めると、上につるされる天蓋・テンガイが笠を示すものになった。仏塔の先端や後の五重塔などは笠を重ねたもので、その真下に仏陀の骨が収められた。仏教伝来以前の弥生時代にも、古代日本でもみられ、奈良・佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡には、神殿と現人神である王の高屋には竿に付けた笠が立てられ、そこに神がいますことの標識とされた。また天皇即位の大嘗祭で、現人神となった新天皇には侍従が笠をさしかける。女王卑弥呼の国・鳥越憲三郎」 イクメイリヒコのお父さんのミマキイリヒコの時、それまで宮殿で奉斎されていた天照大神の鏡とスサノオから献上された天叢雲剣がミマキイリヒコの娘のトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に移動し祀られた。その場所は三輪山山麓の檜原神社だといわれる。(大阪・深江にはここから移住したのか、と思われる。)天皇のレガリア・神器を笠に入れ隠すかのようだ。宮殿にはレガリアの代わりに「鏡を鋳、剣を造らしめて、以て護りの御シルシとす。故事拾遺」とレプリカができた。では本物はというと、トヨスキイリヒメはその安置場所を探して、京都・宮津の籠神社、奈良・桜井の予喜天満宮、和歌山・日前国懸神社、岡山・伊勢神社と旅され、「吾、日足りぬ」とイクメイリヒコの娘、姪のヤマトヒメに「事依サシ奉り」された。イリ一族の宮殿内宗教改革は激しいものに感じる。ヤマトヒメは、のち90年94か所かけてレガリアを奉斎する場を探し最終に伊勢神宮を創建し奉斎されたという(ウイクペディア・元伊勢)。のちに東征にでる甥のヤマトタケルにヤマトヒメが天叢雲剣を渡されている。いまも熱田神宮にあり伊勢神宮には帰っていない。レプリカは源平合戦で安徳天皇と海の藻屑となったのだが、鏡は回収された。失った天叢雲剣の探索は厳島神社の神官たちに命令されたが、発見されなく、新しいレプリカが伊勢神宮から献上された。 日本書紀に、スサノオが高天原を追放される姿は蓑と笠をまとってであったとある。この姿で屋内に入ってはならないともある。男性が屋内で外套や帽子をつけているのに違和感があるのだが、脱いで入るエチケットである時代に生きた証かもしれない。どこかに笠に霊的なものを感じるとこが帽子にかぶさっているのだろうか。笠が隠すもので、身構える姿勢に思える。兵隊さんも警察官も帽子をとらない。
by forumhiroshima
| 2021-06-15 15:51
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