こひちろうの独り言 |
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韓半島から渡来した2系列の比売許曾の女神たち誕生に牛の伝承がそれぞれにある。姫神たちはこの列島に家畜をもたらした人々の神ではないか。全く新しい家畜の到来は、きっと強いインパクトを起こしただろう。強さが残影となり、渡来ルート2系列という協調された伝承として古事記、日本書紀に併記されてあるのではないだろうか。二系列の女神にそれぞれ赤と白の玉の話があり、瀬戸内海の島々に赤、白の玉の祠や伝承が到来のルートとして残ったと、妄想している。家畜たちの到来は5世紀初頭ごろで、そのころ造られた古墳から多くの馬具の埋葬が発掘されていて、それまでいないとされる牛馬の到来の新しい時代を指示しているという。 馬も牛も体重によるが、一日に25から40リットル程の飲料水が必要だとネットにあった。韓半島から船での牛馬との旅では、飼料の草と水の補給の必要性を思うと、水や草のある島々に立ち寄りながらの旅かな、と思ってみている。瀬戸内の島々に残る赤白の伝承が、飼育のプロたちのその痕跡になろうか。 533年の日本書紀に「摂津国をして大隅島、媛島に置いた二か所の牧場を止めて農地に転換する許可」が記録されている。淀川右岸の大隅島はそれまで乳牛牧だった。このあたりが初期の牛馬渡来の最終地点になるのだろうか。媛島の高瀬神社は比売許曾の女神たちの伝承を持ってはいないのだが、牛たちの牧場の記録が、牛馬を伴って渡来してきた人々の神のそれも姫神を祭祀する神社が存在証明なってもいいのでは。「渡来人たちは韓半島の出身地を問わず、集団として来り、聚居して生活圏が出来上がると、まず寺を建て、神社を建て、仏像を拝し、祖霊を安んじた。白川静」 高瀬の東方そばの四条畷にある車塚古墳は5世紀初頭の古墳で、馬全身の埋葬が発掘されていて、祭祀の痕跡といわれる。 東大寺建立の大僧正となった行基が、『行基年譜』「天平十三年記」のよれば西暦644年に高瀬大橋を架橋している。架橋するところはどこでも良いとは、古代にはむやみにきめることはできなかっただろう。橋げたを川底に打ち込む作業、機材の調達などの、見極めなどが大切だっただろう。その場所選定のヒントがある。 ヨーロッパの話なのだが「数百年にわたって商人は同じ峠道を通り、同じ徒渉点で川を渡った。商業路の交点と、もっとも重要な徒渉点に集落ができた。その名前のよって本来の意味が今日でもよくわかる。ボスポラス(雌牛の渡渉点)からオックスフォード、クラーゲンフルトからハーフォード、ストラトフォードからティフルトまでの地名はすべての渡渉点をあらわしている。古代ペルシャ語のペレトゥ(橋)はユーフラテス(りっぱな橋のかかった河の意味)という河の名のなかにふくまれている。シュライバー 道の文化史」 ドイツ語で-furt・フルトは浅瀬で、fordも同様。イギリスの都市の名、オックスフォードやブラットフォードも同じ意味だという。動物、特に家畜たちが川を渡るポイントは浅瀬で流れが強くない。そこに道を伸ばし、人々は歩いて渡った。のち架橋される。行基も牛馬たちの渡川地点を見極めたのだろう。西欧風にいえばcou ford takase,でしょうか。到来した飼育のプロたちも、商人のように移動する人々。定住する農耕の民ではない。移動に道が生まれる。 渡川地点と思える高瀬は、浅瀬と同意(精選版 日本語大辞典))の地名だとある。河川用語辞典・国土交通省編では、「瀬」は水深が浅いところを示す、とある。fordです。しかし、高瀬の「高い」と、浅瀬は表現に矛盾は、ないだろうか?。浅瀬を高瀬で表現は無理じゃないか。「高瀬」にはきっとなにかある。地図もない古代の旅で川に行き着いたとき、渡川地点を探すだろう。そんな時「高瀬」の場所を知ると、フォードの様に、渡川地点だと、そこにむかった?のではないだろうか。 高瀬のでる古代の有名どころの話をネットでさがしてみた。 例えば源氏物語・宇治十帖。 「橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹(さお)のしづくに 袖ぞ濡れける」宇治の橋姫のような、淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 私も涙で袖を濡らしております。という意味。「宇治の橋姫」は、流れの速い宇治の川瀬に居て、人の罪けがれを運び去ってくれると信じられた女神、 宇治の橋の守り神、鬼女など、色々なお話があるのです・・・。(ブログ・源氏物語・あさきゆめみしにある解説です。) 橋姫は平家物語にあって、深い妬みにとらわれて、鬼になることを祈願し、神のお告げで宇治川に21日間も浸ってのち、都に帰り一条堀川の戻り橋で鬼となった女を、源綱が成敗した話。高瀬の架橋に、橋姫を比売許曾の女神と結びつけられないか、とむちゃぶり連想する。平安京の右京が荒れ寂れて、賑わいのある左京との境となった一条堀川を右京へ渡ることは怖い、戻れないかもしれない橋となった。そこに鬼となった姫が現れる。そんな橋なんだそうだ。 大阪・鶴橋の比売許曾神社の参道入口のそばに胞衣塚の祠がある。 例えば、清少納言の枕草子 清少納言が、淀を渡川したときの光景を、卯月のつごもりがたに(一一四段)で、「屏風の絵に似ていとをかし」と述べ、「これをよみけるなめり」と業平が歌にした景色として引用している。 その在原業平が歌ったという「こもまくら 高瀬の淀に 刈る菰の かるともわれは 知らで頼まむ」、つまり「あなたが心変わりをして来なくなったとしても、私はそれを知ることもなく、あなたの訪れを待つことでしょう。高瀬の淀に」が解説としてあった。清少納言と在原業平に高瀬が絡んでいる。 行基の高瀬大橋架橋から枕草子の間は2世紀半の時間がすぎていても、なお語られる「高瀬」は古代にとても高名な場所のようだ。 その地名は、業平の歌にあるように、薦枕(こもまくら)が歌枕とされている。歌枕は和歌に組み込まれた名所を示す言葉で、薦枕は高瀬を連想させる枕詞でもあるという。 白川静は「古代、枕詞の起源が、地霊に対する呪語(悪魔、災難を払う言葉)に起源すると言われている。地霊にいい聞かせる言葉に満ちているのである。全集11巻万葉集」 薦・コモ(イネ科の多年草マコモの古名)枕は、高瀬に何をいい聞かせたのだろうか。 神事に関わる「薦」で浮かんでくるのは、例えば、宇佐八幡神社の御神体が神社から遠い西の中津市の薦神社の鎮座地の三角池で採れたマコモでつくられている。 高瀬の地名の由来が知りたい。 淀川の堤防に建てられた古代の高瀬大橋の説明板は、広い淀川河川敷の平坦なサイクリングロードのように、ただただ、そこにある!だけだった。河畔の少年野球グランドと広いサイクリングロードと低空飛行する伊丹空港行きの広い青空を背景に黒い影の飛行機の景色はハッキリと思いだせる。川岸の水際にマコモと茅が風にゆれていた。
by forumhiroshima
| 2021-11-11 11:02
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