広瀬の町へは能義の大神のいます飯梨川の河畔から国道をできるだけさける道をたどって入った。広瀬は江戸時代に水害で全滅した歴史があったという。
酒造メーカーの月山の煙突だけが空に伸びる。ビルの少ない空の町を対岸から眺めて入ろうとおもっていた。道は大きな石垣でかこまれた城塞のような寺院にぶつかる。寺の前にショウブの白い花畑があって、自分としては珍しく参拝に石段をのぼってみた。そろそろ老体モードにはいったのだろうか。
寺をでて広瀬の町と反対になにか新しい石垣が標識と目に入ってきた。狭い谷口の向こうはV字に広く開けて、あかるい傾斜の尾根に家が点在している。新しい石垣の前の表示に尼子氏奥津城とある。この広瀬の城主尼子氏の墓所。表示はこのV字の谷にいくつもの墓があると書いてあった。新宮谷とよぶのだそうだ。
そこには尼子を滅ぼした毛利の墓。尼子氏の内紛で殺害された一族の宮。尼子氏が一時城を追われて、その間に入場し、また尼子氏に追われた塩冶氏の墓。そして最後の領主となって、城を放棄した堀尾氏の墓と1395年に尼子氏がこの富田城に入城して後427年、廃墟となるまでの主人やそれに連なる人々がすべて眠っていることになる。
お花畑に祠って、初めての風景だ。
地名で古い埋葬地を芦屋とか後谷とか、つけられるのだけど、古墳がある場所でもそうなんだが、どこも明るくて風が通る良い場所になっている。死者たちの安らかな眠りを祈っている場所なんだろう。都会でビルの中の小さな小部屋に埋葬されるより、海に散骨してほしい、って気分は良くわかる年頃になって、走っていても、ここはそんな死者の眠る場所では?なんて気になりだしてきた。そして結構当たる。ヤバイかもしれない。お迎えちかいのかな?
広瀬の町にも尼子の墓所はあるのだけど、1666年の大洪水があったと知っていれば、その墓所はきっと記憶のなかで再建されたものかとも、おもってしまう。それより、きっとこの明るい谷では、みなさん、快適のお過ごしなんだろう。
谷にはたくさんの地蔵が道端におられた。
ふと石見の山奥の杉の森にあった尼子墓を思い出した。そこは後谷であった。島根県観光課発行のふるさとの散歩道・広瀬のページにこの谷が山中鹿之助生家の場所として記載されていて、その地図にこの谷の川が後谷川とあった。なくなれば皆一緒って、日本でね。