こひちろうの独り言 |
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古代奈良の時代に備後の山奥に小奴可という郡ができたという。その郡に東と西に集落ができて、いま西城・東城と東西に町ができている。古代このエリアが一つであった。
が、不思議でならない。この町の中央はおおきな山塊でそれに江の川と高梁川の分水嶺もある。この地域にふった雨は日本海と瀬戸内海へ別々に流れ出る。不思議だ。 東城の町から北上して道後山へのエリアはあらかた走って見た。いよいよ西城から道後山へ。 明治35年発行のいちばん古い五万分の一地図で西城から中国山地へはいるルートはいまのR183とはちがっている。 JR西城駅前から北上すると分岐がある。そこを右にはいると、ふるい幹線路にはいっている。この辺りを八鳥・ハットリという。奈良時代に備後に部人という朝廷直属の人々ができた。その中に織物をつくる人々がいて、服部部といわれた。 その人々の土地を職業で名付けるってことがあったのかどうか?古代の記録はいまここにあるって考えるだけで、景色が古びてくる。 大きな谷で中央をながれる川筋も水量がある。最初にこの国で稲作をもちこまれた場所は海岸の湿地帯と山中の盆地だという。大きな流れも足元より下では汲み上げるほかなく、大量の水を必要とする稲作はできないということらしい。そんな場所を「サコ」といって、いまも知名になってる。 谷中央部の道端におおきな鳥居がある。正面の丘陵のふところに神社が鎮座されていた。そばに横穴の古代埋葬地の標識もあって、過去ここが神聖なところであったようだ。神社は白山神社。出雲でも広島でも自分は始めての対面だった。 ![]() 古代ここが小奴可という郡であったとしたら、その奴という字がきになる。ヤッコであって、征服された人々ってイメージをもっているのだ。 白山神社は蝦夷・東北の平泉にもある。それを建立した藤原秀衛が岐阜県にある白山中居神社に菩薩像を寄進していた。1184年のことだという。藤原氏の一族は安部氏と婚姻をむすんでいる。安部氏は蝦夷の一族だという。 白山神社の神様は菊理姫命で黄泉の国から逃れたイザナギ尊の穢れをはらった神様で、衣服も新しく新調したところから、機織の神様であったり、穢れを清める神様であったりする。ヤッコとよばれた人々の再生の願いなのかなどと妄想は広がるばかりだった。 でも、服部とせずに八鳥としたのは、なぜだろうか? 広い谷は狭まってきて、峠への一本道になる場所に五輪塔がすえられた、広い墓所を通り過ぎた。寺もなく、ここまでの谷を睥睨しているように、すえられていた。この谷の主のついの棲家なんだろうか。 ![]()
by forumhiroshima
| 2008-10-09 19:57
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