西城の町の中央に入ると爾比都売神社がすぐにみつかる。
東城町の小奴可にある奴可神社の表示に「・・813年この地を拓いた大船足治麻呂がおまつりしたのが始まりで、往古は爾比都売神社と称し・・室町時代に鳥羽氏により妙見宮と改め・・明治元年に奴可神社と改め・・」とある。
西城の神社は江戸末期1817年に古代編纂された延喜式にある奴可郡の一宮の爾比都売神社の所在が不明になっていることから西城に仮勧請され、それが明治になって正式な認可神社となっていまにいたっている。
小奴可の神社が爾比都売神社であったと、人々が思っていたののに、西城ではちがうとわざわざ新しく神社を勧請している。それを認めた形で小奴可では奴可神社とそれまでにない名を付けたことになる。

そのことの理由はわからないのだが、実は爾比都売神社は行方不明であった。江戸時代に編纂された「芸藩通史」では「爾比都売神社は当郡の名神なるに、世変わりて久しく廃し、その社地さえも知れず」とある。幾多の考証もおこなわれたが、今にわかっては居ない。
爾比都売神は爾比都比売・ニヒツヒメから比は欠落しての名称で、丹生都比売・ニホツヒメとか仁保津比売・ニホツヒメと同じ神様で、丹生・ニュウつまり水銀の産地にかかわる神だといわれる。
広島・黄金山麓のニホヒメ神社もおなじ神様になる。
東城の町から南下して、サイクリングおきにいりに先日追加された青木峠のちょうど南にある久代の高野山が古来ニヒツ山と呼ばれており、全国の水銀産地を調査されている先生の分析からも水銀が検出されたという。過去にこのニヒツ山の水銀を採取した高野聖とよばれる山伏たちの信仰がかぶさることによって爾比都比売・ニヒツヒメが消えてみえなくなったのだろう、といわれる。
広島でニホヒメを祀った人々と、古代奴可の地にニホヒメを祭ったひとたち。いまさら、なにがどうしたって訳もないのだけど、古代ニホヒメの痕跡探しに、走りにいかなきゃいけんでしょう。
その人たちの親分は大船足治麻呂ってことだろうし、船もってた人なんだろうから。