備後の国、豊松へ。標高が600mにもなろうかという幾つもの尾根を深い渓流が分断し、その流れを覗き込む高台の狭い尾根すじに、点在する集落が地図にちらばっている。
「山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現れ、鎮魂の舞を舞ったあと、いずこともなく去ってゆく山間の僻地を民俗学の方ではかくれ里という。謡曲で、行方もしらずなりにけり、とか、失せにけり、というのは、皆そういう名残であろう」白州正子「かくれ里」。
豊松の村の北側をながれて、岡山の高梁川に合流する成羽川が備中湖となって、この川に向かう道筋は、ダムの底にしずんでしまって、分断されている。その尾根にある集落へ走って見た。いまは行き止まりとなった場所なのだが、ダムがなくても深い渓流へくだり、川を渡り、また切り立った崖をつづらに登る道があるのみで、やはりここはむかしから行き止まりであったのだろう。
豊松の役場のある、米見山から、北へ三つの古道が古地図にある。この行き止まりに法曾、奴留田、大萩の地名をみつけた。いまも健在らしい。
集落はそれぞれ渓流に刻み込まれた尾根のトップにあるため、車道がつけられた渓流そばの道がいっきに傾斜をもって、自転車をまっていてくれる。ありがたい傾斜で500mを標高200mをかせぐ。しめりけのある空気が乾いた風になって、空が大きくなってくると、斜面に四角や三角や六角に整地された畑と、その上に長い赤い屋根の民家が現れる。
石見では当たり前の赤瓦が中国山地で黒の屋根とまざりだしてくる。この訳を考えてきた。このごろに様に、オシャレ感覚でえらばれた色でないことは明白で、それはその家が寒冷な場所になるかどうか、で決まるのだと結論つけてみた。赤瓦は水をはじく焼き方のため、しみた水分が凍って瓦をくずすことがないときいた。
それぞれの行き止まりの集落へ入る道も表情がちがう。奴留田への道は、アスファルトの表面があれてきている。車輪がこまかく振動している。法曾への道は滑らかに整備されている。どちらも隣の集落まで一里。奴留田の集落の孤立が車輪からつたわってくる。車輪からつたわる情報って、けっこうな量だと思う。緊張したり弛緩したりする自分の神経を、自転車は楽しんでいやがる。コイツめ!
道辻に小さな祠を置き、集落の入り口に辻堂と石仏がかならずある。ここの人々は、里へ下って神の舞を舞ったのだろうか。