<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<?xml-stylesheet href="/assets/xslt/atom.xsl" type="text/xsl" media="screen" ?>
<feed version="0.3"
      xml:lang="utf-8"
      xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"
      xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/">
  <title>こひちろうの独り言</title>
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp" />
  <modified>2021-11-11T11:02:44+09:00</modified>
  <author><name>forumhiroshima</name></author>
  <tabline>マネージャーの独り言を綴ってみたりします。</tabline>
  <generator url="http://www.exblog.jp/">Excite Blog</generator>
  <entry>
    <title>馬の渡河　高瀬</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28957622/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28957622/</id>
    <issued>2021-11-11T11:02:00+09:00</issued>
    <modified>2021-11-11T11:02:44+09:00</modified>
    <created>2021-11-11T11:02:44+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[韓半島から渡来した2系列の比売許曾の女神たち誕生に牛の伝承がそれぞれにある。姫神たちはこの列島に家畜をもたらした人々の神ではないか。全く新しい家畜の到来は、きっと強いインパクトを起こしただろう。強さが残影となり、渡来ルート2系列という協調された伝承として古事記、日本書紀に併記されてあるのではないだろうか。二系列の女神にそれぞれ赤と白の玉の話があり、瀬戸内海の島々に赤、白の玉の祠や伝承が到来のルートとして残ったと、妄想している。家畜たちの到来は5世紀初頭ごろで、そのころ造られた古墳から多くの馬具の埋葬が発掘されていて、それまでいないとされる牛馬の到来の新しい時代を指示しているという。<br />
<br />
<br />
<br />
馬も牛も体重によるが、一日に25から40リットル程の飲料水が必要だとネットにあった。韓半島から船での牛馬との旅では、飼料の草と水の補給の必要性を思うと、水や草のある島々に立ち寄りながらの旅かな、と思ってみている。瀬戸内の島々に残る赤白の伝承が、飼育のプロたちのその痕跡になろうか。<br />
<br />
<br />
533年の日本書紀に「摂津国をして大隅島、媛島に置いた二か所の牧場を止めて農地に転換する許可」が記録されている。淀川右岸の大隅島はそれまで乳牛牧だった。このあたりが初期の牛馬渡来の最終地点になるのだろうか。媛島の高瀬神社は比売許曾の女神たちの伝承を持ってはいないのだが、牛たちの牧場の記録が、牛馬を伴って渡来してきた人々の神のそれも姫神を祭祀する神社が存在証明なってもいいのでは。「渡来人たちは韓半島の出身地を問わず、集団として来り、聚居して生活圏が出来上がると、まず寺を建て、神社を建て、仏像を拝し、祖霊を安んじた。白川静」<br />
高瀬の東方そばの四条畷にある車塚古墳は5世紀初頭の古墳で、馬全身の埋葬が発掘されていて、祭祀の痕跡といわれる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10523496.jpg" alt="_d0089494_10523496.jpg" class="IMAGE_MID" height="350" width="450" /></center>韓半島の新羅からの渡来人の「馬の埋葬は馬飼集団の顕著な習俗である（馬と古代社会・佐々木虔一）」といわれる。比売許曾の女神も韓半島・新羅からの渡来の神話だという。淀川河畔は田として開発されていたのでなく、湿地と蘆原の場所で、農地に転換することを認めた以前は草むらの川原に牧場がつくられていたのだろう。そこは牛馬飼育の好適地だった。それは、川原の牧場の適地に移住してきた人々は米を作りに到来したのではないことを示している。彼らの到来は、すでに準備されていて、それは定着への援助ができる勢力の要請があったのだろう。その援助には生活補助、飼育環境の整備に、海上、陸上の移動、港や道が用意されただろう。淀川両岸に出来てくる牧場に架橋することも、いそがれていたのではないか。<br />
<br />
<br />
東大寺建立の大僧正となった行基が、『行基年譜』「天平十三年記」のよれば西暦644年に高瀬大橋を架橋している。架橋するところはどこでも良いとは、古代にはむやみにきめることはできなかっただろう。橋げたを川底に打ち込む作業、機材の調達などの、見極めなどが大切だっただろう。その場所選定のヒントがある。<br />
<br />
<br />
ヨーロッパの話なのだが「数百年にわたって商人は同じ峠道を通り、同じ徒渉点で川を渡った。商業路の交点と、もっとも重要な徒渉点に集落ができた。その名前のよって本来の意味が今日でもよくわかる。ボスポラス（雌牛の渡渉点）からオックスフォード、クラーゲンフルトからハーフォード、ストラトフォードからティフルトまでの地名はすべての渡渉点をあらわしている。古代ペルシャ語のペレトゥ（橋）はユーフラテス（りっぱな橋のかかった河の意味）という河の名のなかにふくまれている。シュライバー　道の文化史」<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10545586.jpg" alt="_d0089494_10545586.jpg" class="IMAGE_MID" height="252" width="450" /></center>馬も泳げる、ぞ！<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10560493.jpg" alt="_d0089494_10560493.jpg" class="IMAGE_MID" height="248" width="450" /></center><br />
ドイツ語で-furt・フルトは浅瀬で、fordも同様。イギリスの都市の名、オックスフォードやブラットフォードも同じ意味だという。動物、特に家畜たちが川を渡るポイントは浅瀬で流れが強くない。そこに道を伸ばし、人々は歩いて渡った。のち架橋される。行基も牛馬たちの渡川地点を見極めたのだろう。西欧風にいえばcou ford　takase,でしょうか。到来した飼育のプロたちも、商人のように移動する人々。定住する農耕の民ではない。移動に道が生まれる。<br />
<br />
<br />
渡川地点と思える高瀬は、浅瀬と同意（精選版　日本語大辞典））の地名だとある。河川用語辞典・国土交通省編では、「瀬」は水深が浅いところを示す、とある。fordです。しかし、高瀬の「高い」と、浅瀬は表現に矛盾は、ないだろうか？。浅瀬を高瀬で表現は無理じゃないか。「高瀬」にはきっとなにかある。地図もない古代の旅で川に行き着いたとき、渡川地点を探すだろう。そんな時「高瀬」の場所を知ると、フォードの様に、渡川地点だと、そこにむかった？のではないだろうか。<br />
<br />
<br />
高瀬のでる古代の有名どころの話をネットでさがしてみた。<br />
例えば源氏物語・宇治十帖。<br />
「橋姫の　心をくみて　高瀬さす　　棹（さお）のしづくに　袖ぞ濡れける」宇治の橋姫のような、淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 私も涙で袖を濡らしております。という意味。「宇治の橋姫」は、流れの速い宇治の川瀬に居て、人の罪けがれを運び去ってくれると信じられた女神、 宇治の橋の守り神、鬼女など、色々なお話があるのです・・・。（ブログ・源氏物語・あさきゆめみしにある解説です。）<br />
橋姫は平家物語にあって、深い妬みにとらわれて、鬼になることを祈願し、神のお告げで宇治川に21日間も浸ってのち、都に帰り一条堀川の戻り橋で鬼となった女を、源綱が成敗した話。高瀬の架橋に、橋姫を比売許曾の女神と結びつけられないか、とむちゃぶり連想する。平安京の右京が荒れ寂れて、賑わいのある左京との境となった一条堀川を右京へ渡ることは怖い、戻れないかもしれない橋となった。そこに鬼となった姫が現れる。そんな橋なんだそうだ。<br />
大阪・鶴橋の比売許曾神社の参道入口のそばに胞衣塚の祠がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10570933.jpg" alt="_d0089494_10570933.jpg" class="IMAGE_MID" height="303" width="450" /></center>「垂仁天皇2年に創建されたとされる比売許曽（ひめこそ）神社にまつられている大小橋（おおばせ）命の胞衣を納めた塚と伝えられています。日本書紀に「仁徳天皇14年11月橋を猪飼津に造り、即ち其処を号（なず）けて小橋（おばせ）と曰（い）う」とあり、この橋は文献上では日本最古の橋といえます。大阪市HP」比売許曾の女神が大小橋命を生んだ時の胞衣・胎盤なのだろうか。小橋は古橋を意味していて、鶴橋の古名だとも。比売許曾の女神と橋がつながった、か？。<br />
<br />
<br />
例えば、清少納言の枕草子<br />
清少納言が、淀を渡川したときの光景を、卯月のつごもりがたに（一一四段）で、「屏風の絵に似ていとをかし」と述べ、「これをよみけるなめり」と業平が歌にした景色として引用している。 その在原業平が歌ったという「こもまくら　高瀬の淀に　刈る菰の　かるともわれは　知らで頼まむ」、つまり「あなたが心変わりをして来なくなったとしても、私はそれを知ることもなく、あなたの訪れを待つことでしょう。高瀬の淀に」が解説としてあった。清少納言と在原業平に高瀬が絡んでいる。<br />
行基の高瀬大橋架橋から枕草子の間は2世紀半の時間がすぎていても、なお語られる「高瀬」は古代にとても高名な場所のようだ。<br />
<br />
<br />
その地名は、業平の歌にあるように、薦枕（こもまくら）が歌枕とされている。歌枕は和歌に組み込まれた名所を示す言葉で、薦枕は高瀬を連想させる枕詞でもあるという。<br />
白川静は「古代、枕詞の起源が、地霊に対する呪語（悪魔、災難を払う言葉）に起源すると言われている。地霊にいい聞かせる言葉に満ちているのである。全集11巻万葉集」<br />
薦・コモ（イネ科の多年草マコモの古名）枕は、高瀬に何をいい聞かせたのだろうか。<br />
<br />
<br />
神事に関わる「薦」で浮かんでくるのは、例えば、宇佐八幡神社の御神体が神社から遠い西の中津市の薦神社の鎮座地の三角池で採れたマコモでつくられている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10582603.jpg" alt="_d0089494_10582603.jpg" class="IMAGE_MID" height="597" width="451" /></center>八幡のご神体が薦の枕とは不思議だ。出雲大社で6月に真菰（薦）の神事が行われる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202111/11/94/d0089494_10595042.jpg" alt="_d0089494_10595042.jpg" class="IMAGE_MID" height="675" width="450" /></center>神官が潔斎して道に置かれてゆく薦の葉を踏みながら進む。これらの薦に特別の意味があるのだろうか。枕草子は、「菖蒲・薦などの末の短く見えしを取らせたれば、いと長かりけり。薦積みたる舟のありくこそ、いみじゅうおかしかりしか。」とある。薦枕が高瀬を人々の心中に引き出す「言魂」なのだろう。清少納言はなにが「おかしかりしか」なんだろう。<br />
高瀬の地名の由来が知りたい。<br />
<br />
<br />
淀川の堤防に建てられた古代の高瀬大橋の説明板は、広い淀川河川敷の平坦なサイクリングロードのように、ただただ、そこにある！だけだった。河畔の少年野球グランドと広いサイクリングロードと低空飛行する伊丹空港行きの広い青空を背景に黒い影の飛行機の景色はハッキリと思いだせる。川岸の水際にマコモと茅が風にゆれていた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>難波の姫島</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28920177/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28920177/</id>
    <issued>2021-10-14T14:07:00+09:00</issued>
    <modified>2021-10-14T14:28:34+09:00</modified>
    <created>2021-10-14T14:07:12+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[半島で誕生した二人の姫神の伝承。（神の伝承って好きなんです）<br />
<br />
<br />
ある女が太陽の光を受けて受胎し赤い玉を生み、その玉をもらい受けた牛飼いから、玉を奪った男がいた。男のそばで玉は美しい娘に生まれた。また、ある男がいなくなった牛を探して、その牛を食べてしまった犯人たちを見つけて、その代償に彼らが祀っている白い玉取り上げた。その石から美しい娘がうまれた。この二人の娘たちはそれぞれに男への不満から逃げ出し、難波に至って比売許曾の女神となる。一方、彼女を追いかけて海をわたった、それぞれの主人たちは、難波から遠く日本海に面した越の国の敦賀や、但馬の国の出石に鎮座している。二つの話はよく似た筋書きで古事記にも日本書紀にも書かれていて、神々のゴッシップぽくって面白いと思った。<br />
<br />
<br />
女神たちのこの国での最終の鎮座の場所は散らばっていて、難波の上町台地のから東に大阪市平野の赤留比売社、東成区比売許曾社、深江稲荷社、中央区玉造の玉造稲荷社、深江稲荷社、天王寺区高津の宮など、いくつもが重なるようにして今もある。難波到来までには瀬戸内海を経由し、大分の姫島の比売語曾神社、広島の呉の亀山神社にも姫神の伝承が残っている。大阪の西淀川区の姫島神社は難波の瀬戸内海の入り口の西端に上町台地から離れて鎮座している。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_13560362.jpg" alt="_d0089494_13560362.jpg" class="IMAGE_MID" height="327" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
その姫島神社は鳥居は朱色でなく、真っ赤に塗られ反り返ってけっこう派手な印象だった。強烈な存在感の演出に違和感を失礼にも感じてしまった。姫神たちは、ひそやかに町の路地裏に鎮座されていることが、上町台地の姫神たちの鎮座地に感じていたからかもしれない。塗りたての朱色より、風雪にさらされた木目の古代を感じがふさわしい。<br />
ところで西淀川区姫島神社が創建とされるころには、まだ淀川の国生みの神威は姫神の鎮座地とする島を用意されていなかかった、という。まだその場所は海だった、と。そういった創建の伝承の危うさが派手な印象をより強くさせたのかもしれない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_13562844.jpg" alt="_d0089494_13562844.jpg" class="IMAGE_MID" height="230" width="324" /></center><br />
畿内のエリアという巨大な水域の膨大な全ての水流が淀川を一つだけの蛇口として水とともに吐き出す土砂から生まれてくる島々に、神の所在を感じて神の一柱を勧請することは、違和感はないと感じる。その流れの出口を姫島神社が、正面から受け止めている。洪水が去った朝に突然出現した砂州を目の当たりにしたとしたら、神の仕業と、に思いはゆく。そこに姫神の姿を見出す人はいたのではないだろうか。大地が生み出す国土の出現の神威を人は感じても不思議はないだろうな。広い氾濫原の平野にポツネンとあるお宮さんはどこにもある景色だ。たとえば、斐伊川の氾濫原の真ん中、出雲・斐川町の広い田園に森に囲まれて鎮座する熊野神社を思い出した。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_13565266.jpg" alt="_d0089494_13565266.jpg" class="IMAGE_MID" height="296" width="400" /></center><br />
難波は成・ナル、生まれる土地（庭）の言葉で、西成と東成に淀川を挟んだ地名で呼ばれた。難波には押し照る・オシテルの枕詞がつく。歴史地理学者の大和岩雄は、「オシテルは太陽を仰ぐの意味があり、迎日・日神を祀る庭と解釈される。難波に到来した比売許曾の女神は、難波で日女・ヒルメに成れる。半島の古代国家の新羅の創生伝説の始祖・赫居世・カクキョセイの居世は許曾である。この王は海の向こうから（倭国）からやってきた伝承は稲飯命・イナヒノミコトであると「韓国古代歴史書・三国史記」にある。　神社と古代民間祭祀」<br />
姫神は始祖の難波へむかったのか？日本側の記録にも、『新撰姓氏録・平安時代初期の815年（弘仁6年）に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑』において新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命（神武天皇の兄）だとされている。まさに末期の真筆・カオスの登場である。<br />
<br />
<br />
難波に鎮座した西淀川区姫島神社は、淀川の水が大地を初期に生成した、もっと東の場所にまずおられて、そのうち西へ移転、かもしれない。ならばとなると手掛かりに「日本書紀」を引き出してきて、その533年の条に「牛を難破の大隅島と媛島松原とに放て」とあることから、大隅島のそば、今の守口市の弥生時代の遺跡の森小路が媛島ではないか、と大阪の古代を調べた「大阪平野のおいたち」は述べている。弥生時代からの人跡が発掘されているここに想定されたのだろう。がそう見ても、このあたりに、媛神鎮座の神社は見いだせない。<br />
<br />
<br />
奈良時代の僧・行基が森小路辺りに比売嶋堀川を開削したという伝承があり、媛島の存在がより確かには、なってくるが、これも文献資料のみでその場所は比定されてはいない。大阪で最も低い位置にできた古代集落と言われる今の森小路の町は弥生遺跡址を公園として整備し区画整理がおこなわれて弥生遺跡の痕跡は全くなく、静かな住宅地だった。ただそこに居ると古代の景色を想像したるする。神武天皇東征の船団はこの集落の南の水路、いまの寝屋川を進んだことになるのでは。古事記・日本書紀では稲飯命・イナヒノミコトはこの軍団の船に乗船しているはずなのだが。稲飯命は紀伊半島の熊野の沖で海に身を投げて隠れられている。そののちは、知られていない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_13574967.jpg" alt="_d0089494_13574967.jpg" class="IMAGE_MID" height="387" width="297" /></center><br />
神武たちの船団の船の埴輪が出発地美々津の港の近くの古墳から発掘されている様な船だったのだろうか、そうなら、彼らの船団に森小路に暮らしていた人々は目を見張らさただろう。ただし、その神武東征紀元前667年はいかに、何でも無理すぎでしょう。淀川の氾濫原の低地に集った森小路の弥生時代の集落の営みの痕跡は新森中央公園公園に建てられた一本の石柱と教育委員会の表示カンバンだった。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_13593467.jpg" alt="_d0089494_13593467.jpg" class="IMAGE_MID" height="506" width="450" /></center><br />
姫島神社とは結び付かないが、森小路遺跡の真北2.5ｋｍあたりの京阪・守口市駅の西の淀川に行基によって高瀬大橋が天平2年（730年）に架橋と「行基年譜」にある。行基は橋を架ける場所に必ず寺院を建立している。「橋畔には高橋橋院と尼院が建てられた。”行基年譜”行年63歳　730年（天平3年）のこと」と記載。高橋橋院は淀川右岸の大隅島にあって、左岸の森小路遺跡の約1.3ｋｍに高瀬神社がある。「高瀬神社は神社の社伝に行基により鎮座とある。ウイクペディア」<br />
　<br />
歴史地理の足利健亮「生馬直道　河内北部の東西横断・歴史の道の原型」に、高瀬橋院の淀川右岸に建立されたが、淀川左岸、森小路の媛島にも高瀬の地名が見いだせるとある。淀川を挟んで左右の岸に「高瀬」の地名がみられるという。左岸の高瀬は古代媛島にもある地名だとすれば、高瀬神社が比売許曾の女神の鎮座としても、いいのではないだろう、などと思う。チョット無理筋でしょうか。西淀川区姫島神社の真っ赤な鳥居がえらく印象にのこっている、からだろう。西淀川区の姫島神社が虚構とは思えない。神を新しく鎮座させるのは、そう難しくはない、が無くすことは難しい。<br />
<br />
<br />
媛島の高瀬神社の祭神は天之御中主神だとある。「天之御中主神　平安時代の延喜式神名帳にはこの神を祀る神社はラインナップされていなく、この神への信仰の形跡はない。ウイクペディア・」。まさに、そうなら、奈良時代の行基活躍のころ、高瀬神社の祭神は不明ということになる。比売許曾神であってもいいのだ。<br />
行基は誕生の地近く矢田の阿麻美許曾神社との関わりがあるといわれ、神社そばに今、行基大橋（昭和53年完成）がその由来から架橋されている。その神社の祭神は半島から渡来してきた比売許曾の女神たちと同じ許曾の名を名乗る。阿麻美許曾の神は渡来の神で行基も渡来の人の子孫だ。高瀬神社に最初の姫神の鎮座地にしてはどうかな。のち淀川に河口の海への進出により鎮座地も下って行ったのでは。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_14274920.jpg" alt="_d0089494_14274920.jpg" class="IMAGE_MID" height="466" width="467" /></center><br />
西淀川区の姫島神社への冬至の朝日は生駒山系の高安山の山頂から上る。媛島の高瀬神社では生駒山頂から上る。日の出日の入りマップ・https://hinode.pics/で確認できます。※高瀬神社 大阪府守口市馬場町１丁目１−１１<br />
大分・姫島神社の冬至の朝日をマップで見てみると二つのピークの間を抜けて神社に伊勢の夫婦岩のように到達する。姫島は死火山の集合体で出来ている。神社には湧くが流れている。温泉として使われる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_14001942.jpg" alt="_d0089494_14001942.jpg" class="IMAGE_MID" height="315" width="500" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202110/14/94/d0089494_14003966.jpg" alt="_d0089494_14003966.jpg" class="IMAGE_MID" height="384" width="500" /></center><br />
大地は火山から生まれ、水流で造形される。そこに神の所在を思うよね。<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>大阪・姫島行方知れず</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28856471/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28856471/</id>
    <issued>2021-09-08T11:17:00+09:00</issued>
    <modified>2021-09-08T13:19:54+09:00</modified>
    <created>2021-09-08T11:17:03+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<br />
<br />
奈良盆地の東南ある長谷寺の初瀬川の対岸に与喜天満宮がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_13183858.jpg" alt="_d0089494_13183858.jpg" class="IMAGE_MID" height="500" width="500" /></center>参道途中から尾根を越えて南に出れる道が古風さいっぱいで引き込まれた。古道趣いっぱい。何とか走れる。尾根越えで小さな集落に入った。まだ眼下に見える車道まで少し距離がある高巻き道で、古道発見と喜んだ。道はだんだん畑に入って、とうとう下に見えていた車道に引きずり込まれた。まだ古道があるか？と山道で入るとその集落の名、吉陰・ヨナバリの看板に出会う。車道下れば墨坂、名張・ナバリは陰国・コモレルクニだそうで、墨色の向こう側なのか、そこに室の寺、室生寺がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_13174053.jpg" alt="_d0089494_13174053.jpg" class="IMAGE_MID" height="388" width="500" /></center><br />
木津川の源流域の榛原の墨坂と大和川の源流域の初瀬・長谷寺とは約1ｋｍ弱、標高差40ｍほどの距離。二つの川の分水嶺がこの近さ。そして木津川、大和川が堺に河口を付け替えるまで難波上町台地の北でつながっていた。<br />
<br />
<br />
墨坂から木津川河畔を走ってみた。川下へ走るのだから、大丈夫！と。川の両岸に道があるわけではないが、木津川は辛うじて、どちらかの河畔に道がある。橋で右岸、左岸を移動する。なかには、登りで山中へ引っ張り上げられて、結果、引返す。道幅がえらく狭くなったら、沈下橋。これって怖い。が道あるだけありがたい。もう古道なぞ探す余裕なくなって、車道一本でやっと木津駅に逃げ込んだ。すっかり暗くなって、陰国を満喫させられた。景色は黄昏に白く浮かび上がる川面しか見えないサイクリングでした。川だけが目印でした。気が付きました。木津川にフジタカヌーがあったことを。カヌーにすればよかった。けど、途中にあるダムどうする？<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_13193220.jpg" alt="_d0089494_13193220.jpg" class="IMAGE_MID" height="400" width="400" /></center><br />
木津からＪＲ大和路快速であっとのまの1時間の乗車で大阪梅田。まさに快速で快適。車中で距離をみると梅田からぐるり初瀬を回って190ｋｍぐらい？。初瀬から木津の走ったのは90ｋｍほど。平野川（旧大和川）大和川（初瀬川）木津川　淀川でまさに川の環状線。この円に琵琶湖　宇治川　賀茂川　桂川　と、主要河川が流れ込み淀川河口に難波の町をつくる。この環状線の唯一の切れ目に与喜天満宮が鎮座する。天満宮は区分される土地の境に置かれることが多い、と宮本常一は例えば、瀬戸内海の瀬戸田にある二つの天満宮のことを例に話している。瀬戸田には二つの行政区がありその西端にそれぞれ宮が鎮座している。水流の神の龍の頭を初瀬とし、尻尾を陰国としたなら何となく納得する。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_11153820.jpg" alt="_d0089494_11153820.jpg" class="IMAGE_MID" height="602" width="423" /></center><br />
この川流域の環状線の流域を畿内としている。河内国、大和国、近江国、山城国、摂津国の雨は余すことなく最終に難波の上町台地の北にあつまる。この環状線で囲まれた土地の四方を四囲とし畿内とされる。この律令の発令ののち、貴族は朝廷の許可なくこの区分のそとには出られなかった。この律令が飛鳥でなく、古代難波の宮で646年に発せられたことに川の流域があるのかもしれない。<br />
<br />
大阪の西淀川区の姫島神社が、姫を追っかけてきたイクメイリヒコの時代にはまだ島が出現してなく、海原だったといわれている。一方、大阪府西淀川区区役所のHPには「古代の文献に地名（媛島・日女島・比売島）の出典を求めて、「ヒエシマ（稗島）」を「姫島」と当地に比定していることに由来する。「ひめを・ひえ」と訛り、遂には稗島と書くに至れりとするもの差し誤りなきに似たり。（後段は西成郡史より）とある。司馬遼太郎さんは、「地名には落とし穴がある。面白いと思えば面白い。」そうです。姫島は古代にあったのかどうか。生島足島神ははたして島産みされてただろうか。淀川の砂の推たい運動が大阪湾の沿岸流の運動との拮抗したエネルギーが姫島の女神の所在の関わっている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_11135366.jpg" alt="_d0089494_11135366.jpg" class="IMAGE_MID" height="484" width="500" /></center><br />
縄文時代、温暖化の気候変化で海が陸地に進出して海岸に打ち寄せる波・沿岸流と風による流砂によって砂がたまり、例えば天の橋立のような砂州が生まれる。大阪湾では上町台地から北上して出来た砂州によって、淀川が運ぶ土砂は遮られ、上町台地の東側に堆積したため、砂州の西側の海になる古代には姫島が出現していないと、「大阪平野のおいたち。1986出版」の著者の梶山彦太郎、市原実は、記述している。この砂州は十三、加島にのび尼崎に到達している。生国魂の神々の贈り物。いまこの砂州の上のJR、阪急、阪神の路線が設置されている。国道2号もこの贈り物の上を走る。広島湾では太田川の推たい運動と沿岸流、潮の干満運動とによって、横川あたりの砂州の誕生から、二次的には、神田川の東西への流れ、また広島城築城時には今の本通りが先端部ではなかったか、と言われる。<br />
<br />
<br />
淀川が運ぶ土壌の推たいした砂州の東側の内側に幾つかの島が出現してくる。それらの島には縄文、弥生の遺跡が見つかっていて、その一つに大阪市旭区の京阪本線の森小路駅そば森小路遺跡付近（GooglePH94+7H 大阪市、大阪府）が伝承の媛島ではないかと梶山、市原は述べる。地名の落とし穴から這いあがれそうだ。だとするとヒメ島は存在するのだ。神々の島産みにより、すでに生まれていた島々の景色の記録がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202109/08/94/d0089494_11120446.jpg" alt="_d0089494_11120446.jpg" class="IMAGE_MID" height="555" width="500" /></center><br />
姫島でなく媛島と書かれるのは、日本書紀に「牛を難波の大隅島と、媛島の松原とに放て」とあり（安閑2年、6世紀半ば）秋九月、勅してここに牛を放牧せられ,のち鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。※東淀川区大桐に乳牛牧址の由来の石柱がたてられている（Google　PGXX+G4 大阪市、大阪府）。続日本紀の元正天皇2年（716年）に、牧を廃止された記録がある。約130年にわたる牧場だった。牛とかかわるヒメコソ女神伝承との関わりを連想する。<br />
<br />
<br />
平安時代の延喜式という記録に東成郡ヒメコソ神社記載があって、現在は場所不明なのだが、これが、西淀川区姫島の姫島神社は、梶山、市原の語る媛島はこれなのか！としている。が、西生と東生の地名の違いがある。この違いについては、古代に淀川の右岸が西生とよばれ、左岸が東生となっていた。のちに西成、東成に字がかわった。土地が生まれる、成る、ことによる。現在の西成、東成は難波全体のうち上町台地の海側を西に、内側を東に分けていた地名が、だんだんに狭い地域に限定されて、今に残ったといわれる。難波の大地創世記を示す「生・成」は淀川を母としている。その母がヒメコソの女神は担っていたのでは。女神を追って半島からやってきた男神たちは、敦賀と出石にそれぞれ鎮座しているが、女神たちは難波から立ち去った気配はみつけていない。今も国生みは続いている。<br />
<br />
<br />
ならば、姫嶋の女神もさがさなければ。<br />
守口市の地図で森小路遺跡そばに祝町の地名を見つけた。大分の姫島の比売語曾神社とそばの祝島とが浮かんだ。「祝」に、神の島と祝、つまり神と神主との関連を感じる。西淀川区の姫嶋神社のHPにある由来に「応神天皇の御代、新羅の国の女神が夫から逃れて筑紫の伊波比（いわい）の比売島、さらに移って摂津の比売島（姫島）に留まったと伝えられている。」筑紫は九州のこと。伊波比が祝。守口市祝町そばに媛島があった、と妄想を確信している（この日本語オカシイ、かな）。大分の姫島は火山の火口の集合体で形造られている。古代の人々は国生みの神業として感じる同じ場所だったのだろうか。火山と洪水。<br />
<br />
<br />
祝島と姫島は聖地を海を隔てて遥拝する、そんな神殿と拝所の関係ではないか。宮島・厳島神社と地御前神社、沖縄セーファ御嶽と久高島、兵庫赤穂坂越と生島などなどいくつも存在する。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>ヒメコソの女神の赤玉・赤石</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28768149/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28768149/</id>
    <issued>2021-08-09T15:58:00+09:00</issued>
    <modified>2021-08-09T15:58:50+09:00</modified>
    <created>2021-08-09T15:58:50+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[ヒメコソの話は古事記にも日本書紀にも二つ、半島の王子の話としてあって、新羅の王子の天の日鉾は牛飼いから取り上げた赤い玉から生まれた赤留売女神が逃げ込んだ日本へ追いかけてきた。比売は難波の比売許曾神社に鎮座。当人は琵琶湖を回って日本海にでて、コウノトリの舞う但馬の出石に鎮座。<br />
一方の加羅の王子のツヌガノアラヒトは自分の飼牛を盗まれて、その犯人から取り上げた白い玉が美しい日売となった。王子が口説いたが逃げられて、追って穴戸の国、山口県・下関あたりにやってきたのちに出雲を経由して越前・敦賀の気比神宮に鎮座。敦賀の古地名、角鹿（つぬが）に名を残しているといわれる。彼には角があったとのでツヌガと伝承されている。比売はどちらも難波の比売許曾神社に鎮座。が白い玉の女神はのち瀬戸内海を西へ豊国の国東の姫島に至りて島の比売語曾神社に鎮座（許と語がちがって書かれる）。二柱の比売神は難波の地で同じ「コソ」で祀られることから、「両者の内容が重なり合うことから同じような人物と見なされる。（青銅の神の足音・谷川健一）」とされている。<br />
王子たちが、二人なのか一人なのかは、古事記・日本書紀の製作者はヤヤコシスギル。が、今もヒメコソは祀られている。「コソ」は「聖地、即ち、マツリゴトの場所で、この言葉がとくに新羅、加羅という古代の朝鮮半島の国と関わっている。（神社と古代王権祭祀・大和岩雄）」とある。古代の半島での言葉だとは、王子たちが古代の半島からスタートしているのだから、そうなのだろう。<br />
<br />
<br />
「コソ」の神社は出雲、島根半島の佐太神社そばに許曾志神社がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15474692.jpg" alt="_d0089494_15474692.jpg" class="IMAGE_MID" height="638" width="468" /></center>特異な狛犬が猿と鶏の姿で境内で待ち受けている。出雲国風土記にある古社なのだが、拝殿正面の神額に「白髭神社」と掲げられている。新羅と似ている。許曾志神社の祭神はサルタヒコとアメノウズメのご夫妻。猿の狛犬はそこら辺からだろうか。ニワトリはどうなる？。比売の鎮座ではないようだ。王子たちに追いかけられる日女たち。半島の出生は同じだし、玉から生まれ出たのも同じ。だが赤玉と白い玉と違う。<br />
<br />
<br />
瀬戸内の海で赤石の神と出会った。玉は石となって「コソ」＝神社に収まっておられる。ツンガノアラヒトの最初の訪問地の穴戸、（これが長門地名の由来？か）その穴戸・下関の赤間神宮の鎮座地は紅石山の麓にある。広島を夜半に車ででて、九州のどこかを走るとき、神宮の前の海沿いの駐車場で仮眠させてもらった。大きな潮騒で目が覚めることもあった。早朝神宮の境内を散歩していた。大連神社があるそばに赤い鳥居の稲荷神社があった。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15490940.jpg" alt="_d0089494_15490940.jpg" class="IMAGE_MID" height="263" width="400" /></center>赤間神宮は維新前は阿弥陀寺という高杉晋作の事務所みたいなところ。ここに赤い馬の形の巨石があったという。平家はこに都からの稲荷神を招来し紅石稲荷社を創建したと由来の看板があった。関門海峡は馬関とも、門司と赤馬で馬関。<br />
<br />
<br />
赤馬関から瀬戸内海を東進して出会う赤石は周防大島の北海岸の久賀の赤石様、<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15495229.jpg" alt="_d0089494_15495229.jpg" class="IMAGE_MID" height="335" width="500" /></center>と南海岸の戸田の赤石明神。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15502709.jpg" alt="_d0089494_15502709.jpg" class="IMAGE_MID" height="486" width="500" /></center>どちらも集落の端っこに鎮座されていて、この島出身の宮本常一は集落の入り口の守り神だとする。赤馬も瀬戸内海の西端の境ですよね。南隣の平郡島の南海岸に真っ赤な赤石神社が鎮座している。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15520376.jpg" alt="_d0089494_15520376.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="400" /></center>そばに海に面して、細い道一つで真水の大きな蛇池があり、<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15505795.jpg" alt="_d0089494_15505795.jpg" class="IMAGE_MID" height="321" width="400" /></center>蛇の伝説をつたえている。道一つが真水と海水を分けている驚きの景色は古来船乗りたちにはよく知られていただろう。海と空の青を背景に平群の赤石神社は赤色に塗り込まれている。<br />
<br />
<br />
赤石や赤崎の地名はヒメコソにつながらないのだが、幾らもみつかる。防府市の向島・赤崎、上関町の長嶋・赤石鼻、周南市の大津島・赤石等々。瀬戸内の東端の明石は「赤石」が由来。JR明石駅から2ｋｍ程の宮ノ上町の林神社は浜にあったおおきな赤石を祀った神社で、岩が海中に没した為に代わりとして創建とある。神社から海岸に伸びる参道の道は見事に子午線をなぞっている。子午線の町、明石の証？なんて。明石原人発掘地はここから西の海岸線にある。とても古くからの人の営みがあった。明石海峡を東進すると正面に生駒山。赤馬から生駒へ、「コソ」の半島との海峡のの、対馬をつけて、三馬ルート、とでも、どうか！。ただツヌハノアラヒトの比売は白石からの誕生なんだが？。比売コソの女神の誕生は牛に関わって,つたえられている。瀬戸内に点在する赤石の神の所在の島々は半島から持ち込まれる家畜の牛馬搬入ルートではないのか？。牛や馬は古墳時代末期に使役の家畜として持ち込まれた。馬は騎馬でもあった。牛馬の船旅ルートに水を与え草を食む場所、言ってみればサービスエリアやパーキングエリアを島々に設置した。としたら、どうなのか。周防大島の小松は「高麗津」いや「駒津」、倉橋島の南端の鹿老渡は「唐渡」だと言われる。港だけの機能の場所なのだろうか。<br />
<br />
<br />
「中国地方の島では，牧畑が行なわれていた。牛馬の放牧地をいくつかに区切って垣で囲み、その一区画で牛を飼うとあくる年は作物をつくる。そして二、三年もすると、また牛を放牧するのである。宮本常一。日本風土記」輪作障害の起きる作物、麦・アワなどに用いられた。「牛は傾斜地に放牧すると等高線にそって食べていくものである。馬にもその性質があるが、牛のほうが強い。草の生えてるところを次々に横に食ってゆくと、段々が出来てゆく。こうして海辺より山頂にいたる段畑が積み重なって山頂に至る階段を作り出したのである。宮本」放牧や牧畑は瀬戸内の島では愛媛県忽那島、広島県生野島、岡山県鹿久居島、山口県祝島、祝島では今ブタの牧場がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15543254.jpg" alt="_d0089494_15543254.jpg" class="IMAGE_MID" height="270" width="500" /></center>八島<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202108/09/94/d0089494_15563523.jpg" alt="_d0089494_15563523.jpg" class="IMAGE_MID" height="475" width="497" /></center>、平郡島、雌雄島、見島、大島など。それらの島は川はないのだが湧水あった。牛の背で石を運び石垣を造った。牛は本土に売れる大切な商品でもあった。牛飼いの人々が島にいる訳が牛馬が家畜として運搬したルートでもあったと思わせる。<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>大阪・上町台地の古代渡来者たち</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28733885/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28733885/</id>
    <issued>2021-07-22T16:10:00+09:00</issued>
    <modified>2021-07-23T16:09:41+09:00</modified>
    <created>2021-07-22T16:10:44+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[大和の玉造のように、大阪の上町台地に玉造の地名がある。古代渡来するお客様で忙しいところだったようだ。<br />
<br />
<br />
イクメイリヒコの時に、半島から逃れてきた嫁や恋人を探して上町台地の北端に現れた男が二人がいた。半島にあった古代国家、新羅の王族だという。<br />
一人の男天之日矛（あめのひほこ）は牛飼いの男から手に入れた赤い玉が美しい娘となって妻となった。いつしか天之日矛は驕り高ぶり妻を罵るようになった。妻は「私はあなたの妻となるべき者ではない、私の祖国へ行く」と言って小船に乗って逃げ渡り、難波に留まった。今は比売碁曾社・ヒメゴソに坐すアカルヒメという神だ。「古事記」<br />
もう一人の男、都怒我阿羅斯等（つぬがあらしと）は飼っていた牛をある日見失った。その牛を食べてしまった農民たちから、償いとして手に入れた白い石を寝室に置いた。すると、白い石は美しい乙女になった。喜んだ男は、さっそくこの乙女と交わろう、近寄った。すると忽然と消えていなくなってしまった。乙女は海を渡り、日本に辿り着いた。乙女は難波にいて比売語曽社のアカヒルメ神となった。「日本書紀」<br />
<br />
<br />
逃げられた二人は玉から生まれた女を追っかけて、難波・上町台地の北端部にやってきた。その女たちは女神となって、上町台地の突端エリア周辺に鎮座している。その由来の神社は多い。<br />
アカルヒメの社は比売許曾神社とも呼ばれJR鶴橋駅の東に鎮座している。西淀川区姫島の姫神社はヒメコソ神として、平野区平野の赤留比売神社の鎮座もこの神だとしている。笠縫の深江稲荷神社の伝承に、下照姫（したてるひめ）を、また玉造稲荷神社も下照姫命と稚日女命(わかひるめのみこと)を祀神としている。この女神はヒメコソ神と同体だとされる。中央区高津宮の摂社にも比売古曽神社がある。これらみな日女・ヒメ神だという。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15515291.jpg" alt="_d0089494_15515291.jpg" class="IMAGE_MID" height="327" width="500" /></center><br />
「女神たちは高い木に降臨する神を鳥のごとく舞いながら、太陽を待ち受ける。そして神霊を受胎し、自ら神となり、人の世に向かう。」と、中国や半島の古代呪術を調べる民俗学者の吉野裕子は語っている。女神の衣装のたもとは羽のように長いと吉野は語っている。「しのぶ思いを 振袖に、祇園恋しや だらりの帯よ,・・祇園小唄」そう、振袖は乙女だけの衣装だった。女神たちは「日女・ヒメ」と語られ、また「日妻・ヒルメ」とも言われる。いずれも「太陽の妻」という意味の名前であった、と中沢新一、大阪アースダイバーで語っている。<br />
<br />
<br />
女神たちが太陽の妻・日妻であること、それって、何とか知りたい。<br />
日妻は太陽の動き・朝日と夕日を、冬至から春分・秋分・夏至の一年を通して指定出来るから、日妻、太陽を受胎した女神とされるのだろうか。天体観測者なのか。<br />
そんな神業を、今自由に指定したポイントで地図上に日の出日の入りの時刻、日差しの方角を描き出すアプリをみつけた。「日の出日の入り・時刻、方角マップ」。まさにアプリ・日妻だ。太陽の動きを自然の地面にラインしてゆき、冬至の日に最も南からスタートし夏至の日に最も北で、そこから反転する朝の陽ざし。地面の置かれた垂直な棒の影がつくる角度を記録し、日々のその角度を記録すれば、夏至の日を予見できる。冬至も角度がもっとも小さくなる日の朝日が上る山を知りさえすれば、冬至の日を予見できる。日の出の位置を山のピークに設定すれば、観測がしやすい。高安山もその南の二上山も物差しのように横たわる生駒山地では判別しやすい。特に双耳峰の二上山の峰の間が冬至の朝日なら、それだけで、冬至の朝とわかる。そして夏至と冬至の太陽の朝日の位置の中間が東に大雑把にはつかまえられる。生駒山山頂はたやすく判別できる。冬場にオリオンの三ツ星の上るポイントの山際と朝の陽ざしの東方向と合わせれば精度がたかい。幼稚で雑だが今住む世界を包み込むスケールの大きなストーンサークルを持つことができる。日妻たちは日々太陽を迎える舞の動作の中にに所作に、太陽の位置と動きを感知したのだろう。祭りの舞は表と裏と回る動作で構成されていると聞いた。自転車の旅をこのストーンサークルに落とし込めば、景色が宇宙につながってくる。<br />
<br />
<br />
それどころか、マークした山際の向こうにも広がることがある。古代難波の宮とほぼ同じ北緯に鎮座する玉造神社、つまり生駒山に隠れているが、その向こうに正しく東位置の御蓋山もストーンサークルの一つの起点として、玉造稲荷神社の冬至の朝日を調べる。生駒山地の南端にチョッコリとピークを見せる高安山から太陽は上ってくる。高安山の東に信貴山が並び同じ朝日のラインにある。<br />
このラインは東の王子町を流れる大和川に懸かる明治橋をぴったりと通過する。ある日そこに走った時、橋から二つのピークが生駒山地の尾根上に見ることができた。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15535652.jpg" alt="_d0089494_15535652.jpg" class="IMAGE_MID" height="339" width="500" /></center>自分と高安山・信貴山と難波の宮が見えないライン上に並んだ。そしてアプリ・日妻の冬至のラインは自分を通り越して奈良盆地の南東の三輪山に向かう。冬至の日に近い正月元旦に三輪明神大神神社で大松明のご神火まつりが行われる。巫女たちが太陽の復活を知らしめること、が祭りになる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15561426.jpg" alt="_d0089494_15561426.jpg" class="IMAGE_MID" height="391" width="500" /></center>御蓋山の春日大社では12月17日の夜半に若宮御祭りで巨大松明が参道をひきずられる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15543973.jpg" alt="_d0089494_15543973.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
春日大社と大神神社はほぼ東経135.50.10にあって同じ子午線に位置する。難波の宮・春日大社・大神神社は直角三角形を形成している。この三角形は三角定規の30°60°90°にほぼ近い。小学校時代筆箱にいれてたアレです。などと、なると、日妻は東西どころか、南北まで、お知らせします、の魔女？とまぁ。そこまでは「日女」気分に浸れた。Keisanというアプリがある。直角三角形の角度計算はっこれで行った。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15565576.jpg" alt="_d0089494_15565576.jpg" class="IMAGE_MID" height="358" width="500" /></center>この国の神社占有率NO-1は、神功皇后の八幡神社と住吉神社で、皇后は日女であろうか、稚日女命が住吉大社の祭神でもある。そこで住吉大社をアプリ・日妻のターゲットとすると、高安山、信貴山を東西の正方位に置き、冬至の朝日は二上山から差し込む。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_16085740.jpg" alt="_d0089494_16085740.jpg" class="IMAGE_MID" height="353" width="482" /></center>「いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から神聖な山として崇められてきた二上山。悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。」<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_16092594.jpg" alt="_d0089494_16092594.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>これ程の設定があろうか？いや、住吉大社の位置は二上山と高安山・信貴山との太陽の示す宇宙との交信として置かれた。その神託は稚日女命のお告げ‎に依る。とチョット本気でそう思ったりして。<br />
<br />
<br />
住吉大社を突き抜けた冬至の朝日は1分のちに、神戸市住吉区の本住吉神社に到達する。この二つの神社には本家と元祖の争論がある。<br />
「日本書紀」神功皇后摂政元年二月の条に・大津渟中倉之長狹・に住吉三神の和魂を 居さしむべしとあり、その地こそ現在の鎮座地で、大阪の住吉大社は後にまつられたものである。江戸期の国学者の本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。（本住吉神社ＨＰ）なのだが、大津渟中倉之長狹は大阪の住吉大社の鎮座地だと、大方の歴史学者は述べる。<br />
<br />
<br />
本住吉も住吉大社も航海の神・港の神として祀られた神社と周知されている。瀬戸内海から東進してきて明石海峡の北側尾根にある巨大な五色塚古墳を望む。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_15574647.jpg" alt="_d0089494_15574647.jpg" class="IMAGE_MID" height="276" width="350" /></center>その位置から東の生駒山地の南のピーク、高安山を目指せば住吉大社の浜の住之江に入る。ラインは東西正方向なのだ。勝負あり！になるのではないか。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_16074710.jpg" alt="_d0089494_16074710.jpg" class="IMAGE_MID" height="303" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
以前本住吉神社のそばの住吉郵便局の年賀状元旦配達のアルバトをやった。早朝出勤の前に神社参拝。神社は標高20ｍの高台に南に向かって真っすぐな参道に見える車道が海へと下って、ご来光の時にははやすぎるが、白く霞んでいた。白んでくる遠い空に小さいが双耳峰の形の目立つ二上山のがげが浮き出て、それに真っ白な霧がむくむくと山から流れ出していた。二上山の霧はとても神々しい。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/22/94/d0089494_16100701.jpg" alt="_d0089494_16100701.jpg" class="IMAGE_MID" height="319" width="442" /></center>住吉大社でも見られるだろう。<br />
<br />
<br />
Keisanというアプリは見える範囲も簡単にたたきだす。ちなみに本住吉神社標高20ｍから見渡せる範囲は17ｋｍとKeisanされた。住吉大社までは24ｋｍの距離。住吉大社はここから目視できない。東経差約20分も朝日の到着の差を大きくさせる。元旦の朝に地球は球体だと、宇宙をかんじてしまったことだった。本住吉神社から標高499ｍの二上山まで44ｋｍ。Keisanでは85ｋｍの範囲が見えると答えた。<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>飛鳥の瓦蘇我氏の玉造</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28713072/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28713072/</id>
    <issued>2021-07-09T09:58:00+09:00</issued>
    <modified>2021-07-09T10:00:41+09:00</modified>
    <created>2021-07-09T09:58:37+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[奈良の町へ入る機会には、元興寺に立ち寄る。飛鳥から718年、平城京に移築されてる。後に衰退の一途で広い境内に住居が侵入し、今の奈良町になった。奈良町に住む友人に古代の不法占拠？とはなしたら、町の住人はみな寺の信者なのだと、話していた。境内の本堂・禅室 の屋根瓦は飛鳥時代創建当時のものだといい、青いグレーや鈍色のオレンジのモザイク模様は、596年以来のものになる。鵤の里・法隆寺の再建が670年だから、80年も古い。古代飛鳥がここにあると思うとなにやら感慨深い。まるで不思議の国へとアリスが入り込んだウサギの穴を気分は滑っている。奈良っていいな。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/09/94/d0089494_09554906.jpg" alt="_d0089494_09554906.jpg" class="IMAGE_MID" height="373" width="500" /></center><br />
もっとウサギの穴に潜り込んでみよう。<br />
御影から笠に囚われて、その影をつくる太陽の方位、正位東西を追っかけると、暗がりの峠に行き着いた。摂津の笠縫の稲荷神社も古代の時間へと引っ込んくる。さらに西へ、次に現れたのが摂津玉造の玉造稲荷神社だ。輝く「珠」に御影の影が揺らめいている。それもこれも古代の天皇イクメイリヒコ由来の時代とされ、そして道が生まれてくる。<br />
<br />
<br />
元興寺は古代豪族の蘇我氏の菩提寺として建立とされているが、その時代に僧侶はいなかった。まったく新しく寺院と僧侶が用意されることになった。<br />
日本書紀に（588年）、百済から日本へ僧と技術者（寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名）が派遣された。飛鳥の真神原（まかみのはら）の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉（あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは）の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。同5年（592年）10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起（た）つ」とある。593年2月21日）の条には「法興寺の刹柱（塔の心柱）の礎の中に仏舎利を置く」ウイクペディア。（法興寺は元興寺の前の名。）寺は596年に完成。寺院と僧侶全てが渡来してきている。<br />
蘇我馬子は自宅に仏を安置していたといわれるが、僧侶なき、いきなり仏教なんです。いきなり五重塔なんです。本尊の丈六仏像が鞍作鳥（止利）のよりできたのが609年だろうといわれている。それにしても寺院完成後18年後なんです。<br />
<br />
<br />
1956-57年に行われた飛鳥の法興寺発掘調査で「刹柱（塔の心柱）」が掘り出された。「出土品は、挂甲（上古のよろいの一種）、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。金銅（銅に金メッキ）製品 - 耳環23点以上、歩揺146点以上、鍔付半球形金具2点、円形打出金具14点、杏葉形打出金具28点以上、鈴7点。玉類 - ガラス小玉、ヒスイ製勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀製空玉、銀製山梔玉、赤瑪瑙製丸玉、ガラス製トンボ玉、その他 - 金延板7点、金粒1点、銀延板5点、銀粒7点、雲母片、琥珀片、蓋石片（凝灰岩製）。後日、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることが奈良文化財研究所の調査で判明し、同研究所の2017年版紀要で調査結果が公表された。これらの小玉は直径1.5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。ウイクペディア。」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/09/94/d0089494_09564989.jpg" alt="_d0089494_09564989.jpg" class="IMAGE_MID" height="918" width="402" /></center><br />
これほどの宝物を造っただろう場所が蘇我氏の本拠地に発掘調査されている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/09/94/d0089494_09562948.jpg" alt="_d0089494_09562948.jpg" class="IMAGE_MID" height="433" width="400" /></center><br />
「曽我町の歴史より」<br />
曽我町の西北にある宗我都比古神社は古く、弥生中期の遺跡群の中にあり、半世紀前頃までは田畑に土器片や石器が見られました。曽我の地名は８代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(ﾀｹｳﾁﾉｽｸﾈ)の第三子・石川宿禰が“蘇我（そが）“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。宗我坐宗我都比古神社(ｿｶﾞﾆﾏｽｿｶﾞﾂﾋｺｼﾞﾝｼﾞｬ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第５世の蘇我馬子(～626年)の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。<br />
<br />
<br />
曽我遺跡（そがいせき）ウイクペディア<br />
宗我都比古神社そばの曽我遺跡（そがいせき）は5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの集落であったことが判明しています。滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方から持ち込まれ、玉類が生産されていました。玉類の完成品・未製品、さらには玉を研ぐための砥石、玉に穴をあけるための舞錐状（まいきりじょう）木製品などといった、玉造りに関わる多量の遺物が出土しています。ここで作られた玉類は勾玉、管玉、丸玉、切子玉、小玉など多くの種類が確認されています。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202107/09/94/d0089494_09571433.jpg" alt="_d0089494_09571433.jpg" class="IMAGE_MID" height="475" width="426" /></center><br />
この遺跡についてこんな話をブログでみつけた。<br />
「朝鮮半島では、鉄が非常によく利用されています。日本では、鉄が必要で、その鉄を直接輸入するためにに勾玉をなどどんどん作って、ある種の支払い手段として、バーター貿易で取引が行われた。今で言えばドルとか円の代わりに通貨の支払い手段として、掘り出したものを大量生産して、それを朝鮮半島に支払って鉄の武器とかを輸入していたようだと言うことが分かっております。それから非常に興味を持ったのは、蘇我一族と言うのは、天皇家に楯突した大変な連中だったのか、よく調べましたら、そうではなく、むしろ蘇我一族は、天皇家の忠実な保護者であったと思われます。曽我遺跡に埋蔵されている勾玉管玉類はトラックに20台分世界的な量です。石の数は億です。それで、勾玉管玉完成品は、1300万個、気狂いじみた数です。それが末だに眠っている訳です。」曽我遺跡の勾玉～貴石の話いろいろ～民谷　晴亮<br />
<br />
<br />
司馬遼太郎の「竹ノ内街道こそ・街道をゆく夜話」<br />
・・・飛鳥期は蘇我氏の時代と言ってよく、その蘇我氏はこの山麓（二上山、葛城山）に盤踞し、この赤土の官道をにぎっていた。この官道ははるかに難波ノ津に通じ、難波ノ津には韓カラとも唐とも知れぬ蕃船が入津し、異国の神はきらきらしといわれた仏像その他の文物を運んできては、揚陸した。・・・この景色に、きわめて奇妙なことながら、異国がかぶさるようになった。たとえば長安というだけで、胸がときめくのは、強引な言葉をつかうとすれば、日本人の史的遺伝といっていい。・・・<br />
<br />
<br />
奈良、元興寺の瓦に、蕃船の入港する飛鳥時代の景色がかぶさっている。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>暗越奈良街道  クラゴエナラ街道</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28682582/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28682582/</id>
    <issued>2021-06-20T14:04:00+09:00</issued>
    <modified>2021-06-21T15:04:02+09:00</modified>
    <created>2021-06-20T14:04:55+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[伊勢神宮へ関西の人々は「御蔭参り」を江戸時代に盛んに始めた。イクメイリヒコの娘のヤマトヒメが大和・笠縫村から放浪のごとき旅の末に伊勢に鎮座、伊勢神宮創建の伝承。そこへの大阪からの参拝の旅ｎ出発地がイクメイリヒコ創建の玉造稲荷神社とされ、同じくイクメイリヒコ創建の大和笠縫村からの移住由来の摂津笠縫村の深江稲荷神社で参拝者は笠を求めた。大阪から奈良・猿沢池までの伊勢参りのルートが暗越奈良街道とよばれる。<br />
<br />
<br />
暗峠・クラガリと聞いたときには奇妙な地名におどろいた。そうして、峠はとても狭いが今も国道308であることに引き込まれた。その道が、イクメイリヒコとヤマトイメの伝承、そして御蓋山・生駒山・上町台地の東西正方位ラインをなぞっている暗越奈良街道は生駒山をこの峠で奈良へと抜ける。玉造稲荷神社で伊勢参りの地図が有料で頒布されている。いまも伊勢参りはここをスタートに盛んに行われている。<br />
（ネットにいくつかの伊勢参りのコースガイドがあり、そのうちの「暗越から伊勢本街道をくhttp://kaz.my.coocan.jp/isemap-kouraibashi-1.htm]は実に子細に案内されている。）<br />
<br />
<br />
玉造稲荷神社のHPに「当神社は垂仁天皇・イクメイリヒコ18年（西暦　紀元前12年）の秋に創祀されたと伝えられ」は、邪馬台国の卑弥呼活躍の300年も前の神話になる。イクメイリヒコの宮殿は纏向珠城宮・マキムクノタマキの宮で奈良盆地の南東の三輪山の北、山の辺の道に近く、跡碑がある。玉造と珠城と連想ゲームに誘われる場所だ。この宮殿と玉造のお宮とを生駒山越えで結ぶ道が上代にあったのだろうか、と。神話と思っていてもですが、ね。大阪の古代の地形を工事現場を尋ね地層をしらべ古代地理を想定した「大阪平野のおいたち　1986年発行」に5世紀の古地形図がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14011124.jpg" alt="_d0089494_14011124.jpg" class="IMAGE_MID" height="432" width="500" /></center><br />
想定された地形図をのぞき込むと妄想が膨らんでくる。瀬戸内海を西から淡路島と本土との海峡・明石海峡を抜けると、海の水はしょっぱくなくなる。川が流れ込んでいる。定住の希の味がする。主面には小高い岬が南の山地から伸びており、岬の向の東の空に高い尾根の山影が重なって現れる。岬を回り川にさかのぼると、葦原に縁どられた広い干潟に入る。魚が飛び跳ねる。水はとても澄んでいて、ここに「イル」人々は、静かな湖面と取り巻く森との美しさに包み込まれただろう。後にここを「ナニワ」とよばれた。お酒のアテをサカナ、酒菜という。酒の「ナ」がいくらでもあるから、魚の庭と、つまり「ナニワ」になった？。大和の大和川上流、山城の桂、賀茂川、河内の大和川下流、和泉の石川、摂津の安威、猪名川の水は近江、琵琶湖の水を含めてすべてがナニワに流れ込む、すべて、がです。水が良ければ魚が集まる。アテがよければ美味い清酒も、と、清酒は摂津・伊丹で誕生した。「イリ」して、到達した人々の上陸の歓喜の歌が聞こえてくるようだ。<br />
<br />
<br />
この地理図に古代暗越街道の想定図が加えられた図（大阪アースダイバー・中沢新一）に平安時代に作られた「延喜式」の神社でリストアップされた神社を記入してみると、河内瑚はすでに陸地化していたとみられ、生駒山から上町台地への連絡は5世紀ごろにはできたとある（古代日本の空間・足利健亮）。日本書紀に「猪甘津に為橋す。即ち其ところを小橋という」とある小橋がJR玉造の周辺にのこる小橋地名にかかわっているとすれば、暗越街道は橋も渡れる古くからの存在なんだろう。小橋の南にも鶴橋の地名も古い。ここには古く橋も架けられていたと、されていいのだろう。「イリ」して河内瑚の渚を生駒山ピークをランドマークに大和へと進んだちがいなかろう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14013290.jpg" alt="_d0089494_14013290.jpg" class="IMAGE_MID" height="446" width="474" /></center><br />
5～6世紀には人々の営みが集まってくると、神の鎮座を願い神社を創建される。渡来しここに「イリ」した人々は祖先を同じくする人たちごとに集住しその祖先を祀る。玉造稲荷神社創建にある紀元前12年は「滅後の真筆」なんだろうが、「イリ」した伝承を自分たちのアイデンティティを、イクメイリヒコとヤマトヒメの日本書紀記載を根拠に、「やはり、祖先はイリしたのだ」と確信したのだろう。「滅後の真筆」は日本書紀の神々を人々によって、今によみがえり正当化される。加えて御蓋山と生駒山と上町台地が東西正方位にあるという地形の持つ神威はイクメイリヒコ御陵位置をそこに置くことで一層の「イリ」の人々に与えられた神威の根拠になる。「滅後の真筆」は「紀元前12年」が真実である！と筆を今に走らせる。春分・秋分の朝、そのラインの正当性を太陽が必ず示してくれるのだから。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14015836.jpg" alt="_d0089494_14015836.jpg" class="IMAGE_MID" height="352" width="500" /></center><br />
広島市市街地に東西正方位は見つけられない。それは広島の都市設計の街並み方丈の区分で道は置かれているが、東北に約18°に傾いだ天守閣と大手町通りのラインが基本線になっていると言われる。ゆえ東西の春分・秋分の朝日が差し込む道はない。が、シツコクさがすと、道・ルートではないが発見があった、カナ？。毛利元就の厳島合戦戦勝祈願の己斐、旭山神社の真東の府中甲越峠の中腹、人家もない車道そばに出雲大社広島祠祖霊社がたしか1980年代にきなり出現した。。毛利家は出雲大社の宮司家千家の祖先天穂日命・アメノホヒの14世・野見宿祢・ノミノクスネを祖先とする。だから？などと、おもうことは「滅後の真筆」に囚われている自覚はある。野見宿祢はイクメイリヒコの命により大和・当摩の蹴速と角力をして勝利している。角力の元祖だ。ここも、イクメイリヒコ！！！！！もう「滅後の真筆」病ですね。<br />
<br />
<br />
暗越奈良街道はGooglmapに路面表示されている区間もある。Google mapを追うと街道の案内になる。Google mapで街道の出発点の高麗橋は秀吉の大阪城大手道。こっから秀吉大阪城天守が正面に現れる場所で、この道は周囲の方丈の街並みから外れて南に傾いでいる。明治んはここに大阪道路元標がおかれてて、最初に国道308起点とされた。ここからいったん北浜、八軒屋浜と北上し、八軒家浜スタートの「くまのかいどう」の石碑前を南に入る熊野街道に重なる。大阪市街の中心で榎木の大木に小さな祠手前を左折で奈良方面に東進し暗峠に向かう。著名な熊野街道・熊野古道のGooglmapの記載はないようだ。大阪人のこの街道重視をGooglは見切ったのかも？だって「イリ」の末裔たちが今も健在かもしれないから。<br />
<br />
<br />
暗峠へ大阪市内から向かうなら、Googleの暗越奈良街道を追わずに玉造稲荷神社の北の阪神高速13号東大阪線の高架下を東進し、大阪外環状線の高架を見つけるとけいはんな線石切駅で高架を南に潜り、すぐに東へ。目前の生駒山に向かい近鉄奈良線の踏切をぬけ線路に沿って南下すれば峠入口が見つかる。このルートが今の国道308になっている。兎に角、生駒山へ走ればいい。体力温存してさあ、峠に。<br />
旅先の町でランドマークを早く見つける！とその町での自分の位置が見つかる。<br />
<br />
<br />
もっとも急坂、いや激坂な暗峠が今も国道308に指定されており、大阪や周辺のロードバイク乗りには周知されている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14032822.jpg" alt="_d0089494_14032822.jpg" class="IMAGE_MID" height="360" width="480" /></center>道がコンクリート舗装になったころの1984年ロスアンゼルスオリンピックの自転車4ｋｍ団抜きの選手たちの練習コースでこの登りを教えてもらった。平気にトラックで上り下りしてた。下りのブレーキングでリヤタイヤの摩耗がはげしすぎるのが、過激な斜度よりもご不満な様子がおかしかった。関西の実業団の選手でチームは構成されていた。オリンピックの結果はたしか10位だったかな。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14025082.jpg" alt="_d0089494_14025082.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
NHKチャリダー出演の猪野学さんが最強激坂と「坂バカ奮闘記https://cyclist.sanspo.com/317157」で紹介している。コースを詳しく紹介してくれているＨＰは、「最大斜度41％、暗峠へロードバイクでhttps://jitensha-hoken.jp/blog/2018/03/kuragaritouge/」がほのぼのっとした紹介記事で、わかりやすさで行ってみようか？と身近に感じさせてくれる。チャレンジは、ヤメるのがお勧めですが。往路の登坂も半端ないが、復路下りは、もう行けません、が三十数年前の自分の昔々の感想。だから峠から東へ下る奈良市街地までの田舎道は凄い住宅造成地もありだが、田舎道が続いていて走りやすい。下りなのに目線が上がる。奈良の空は、すっごく広い！。低山に囲まれた奈良盆地へ綺麗な雲を見ながらのラクチン下りを満喫できる。<br />
<br />
<br />
「ヤマトは国のまほろば　たたなづく青垣山隠れる　ヤマトうるわし」って思い出したりしましたね。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/20/94/d0089494_14035374.jpg" alt="_d0089494_14035374.jpg" class="IMAGE_MID" height="352" width="500" /></center><br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>笠で隠されるレガリア</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28674459/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28674459/</id>
    <issued>2021-06-15T15:51:00+09:00</issued>
    <modified>2021-06-15T15:51:12+09:00</modified>
    <created>2021-06-15T15:51:12+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[玉造稲荷神社から東に約4ｋｍにある深江にもイクメイリヒコの痕跡が残っていた。そこにある深江稲荷神社に大和から笠縫という笠造りの人々を大和からイクメイリヒコが移住させた伝承があって、境内にある深江郷土資料館に今も菅細工保存会が菅笠造りを伝承する活動が続けてられている。館内に菅が育成されている。伝承の熱気がある。<br />
<br />
<br />
「古代2000年前より連綿と伝わる菅細工】菅細工保存会ＨＰ（http://www.fukae-suge-zaiku.jp/）には。<br />
大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(かさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える２０年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭（だいじょうさい）」には、深江の菅笠が献納されてきました。菅笠のことは、万葉集などの歌集にも記されています。押し照る浪速菅笠置き古し　後は誰が着ん　笠ならなくに　(万葉集巻十一・二八一九)奈良時代の927年に完成した法令全般の施行細目の延喜式に「菅蓋一具・骨の材料は摂津国より笠縫氏参りてつくれり」とあります。」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/15/94/d0089494_15414683.jpg" alt="_d0089494_15414683.jpg" class="IMAGE_MID" height="537" width="350" /></center><br />
今昔マップ（https://ktgis.net/kjmapw/index.html）は国土地理院発行の年代が違う地図が比較できるアプリです。深江の明治41年の地図を見ると、河内国と摂津国の分岐にあり摂津国に所属して見える。Googleマップで大阪市という検索をすると、明治の国境線がいまの行政区分と同じに細い破線で示されてる。国境を示す破線は深江の集落が摂津領内で、国境が海岸線になることから、島だったと思える。淀川、大和川などの氾濫原の摂津と開拓されていた河内国の境は満潮線を境とされた。境とされた場所には守り神や遮る神が招来される。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/15/94/d0089494_15421337.jpg" alt="_d0089494_15421337.jpg" class="IMAGE_MID" height="489" width="500" /></center><br />
「笠の下に神いますという思想はオリエントの発して東方にひろまった。仏として釈迦を描くことははじめタブーとされた。絵には菩提樹の枝に笠が吊るされ、その下の空白に釈迦がいますものとされた。のち仏像が作られ始めると、上につるされる天蓋・テンガイが笠を示すものになった。仏塔の先端や後の五重塔などは笠を重ねたもので、その真下に仏陀の骨が収められた。仏教伝来以前の弥生時代にも、古代日本でもみられ、奈良・佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡には、神殿と現人神である王の高屋には竿に付けた笠が立てられ、そこに神がいますことの標識とされた。また天皇即位の大嘗祭で、現人神となった新天皇には侍従が笠をさしかける。女王卑弥呼の国・鳥越憲三郎」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/15/94/d0089494_15423085.jpg" alt="_d0089494_15423085.jpg" class="IMAGE_MID" height="341" width="500" /></center><br />
イクメイリヒコのお父さんのミマキイリヒコの時、それまで宮殿で奉斎されていた天照大神の鏡とスサノオから献上された天叢雲剣がミマキイリヒコの娘のトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に移動し祀られた。その場所は三輪山山麓の檜原神社だといわれる。（大阪・深江にはここから移住したのか、と思われる。）天皇のレガリア・神器を笠に入れ隠すかのようだ。宮殿にはレガリアの代わりに「鏡を鋳、剣を造らしめて、以て護りの御シルシとす。故事拾遺」とレプリカができた。では本物はというと、トヨスキイリヒメはその安置場所を探して、京都・宮津の籠神社、奈良・桜井の予喜天満宮、和歌山・日前国懸神社、岡山・伊勢神社と旅され、「吾、日足りぬ」とイクメイリヒコの娘、姪のヤマトヒメに「事依サシ奉り」された。イリ一族の宮殿内宗教改革は激しいものに感じる。ヤマトヒメは、のち90年94か所かけてレガリアを奉斎する場を探し最終に伊勢神宮を創建し奉斎されたという（ウイクペディア・元伊勢）。のちに東征にでる甥のヤマトタケルにヤマトヒメが天叢雲剣を渡されている。いまも熱田神宮にあり伊勢神宮には帰っていない。レプリカは源平合戦で安徳天皇と海の藻屑となったのだが、鏡は回収された。失った天叢雲剣の探索は厳島神社の神官たちに命令されたが、発見されなく、新しいレプリカが伊勢神宮から献上された。<br />
<br />
<br />
日本書紀に、スサノオが高天原を追放される姿は蓑と笠をまとってであったとある。この姿で屋内に入ってはならないともある。男性が屋内で外套や帽子をつけているのに違和感があるのだが、脱いで入るエチケットである時代に生きた証かもしれない。どこかに笠に霊的なものを感じるとこが帽子にかぶさっているのだろうか。笠が隠すもので、身構える姿勢に思える。兵隊さんも警察官も帽子をとらない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/15/94/d0089494_15491330.jpg" alt="_d0089494_15491330.jpg" class="IMAGE_MID" height="274" width="360" /></center><br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>イクメイリヒコの痕跡-2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28658167/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28658167/</id>
    <issued>2021-06-05T15:04:00+09:00</issued>
    <modified>2021-06-05T15:04:55+09:00</modified>
    <created>2021-06-05T15:04:55+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[奈良三条大路の西端のイクメイリヒコ御陵から生駒山の山頂のテレビ塔が見える。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/05/94/d0089494_15015609.jpg" alt="_d0089494_15015609.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>ここからの展望は正方向西にあるのか、と方位が気になったりした。東大寺のお水取り行の二月堂からは生駒山が奈良盆地の大半のエリアから見えるだろうな、ってことがわかる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/05/94/d0089494_15021817.jpg" alt="_d0089494_15021817.jpg" class="IMAGE_MID" height="216" width="290" /></center>平たく長い山稜に盛り上がった、そう目立たないピークだが、他に競う頂もなく、間違いなく見つけられる優れたランドマーク、振り返ればそこにいつも生駒山！。ランドマークはこうでなきゃ、な。そしてその向こう、その先への興味がひきだされてくる。「山の彼方」へ「知らない町」へ旅したくなる。ランドマークは引き込ませる力をもっている。まして生駒山地は河内の国と大和の国との国境でもある。その尾根上にまるで万里の長城のような信貴生駒スカイライン（自動車専用道）が通っている。向こうに「知らない国」が広がっている。国境を進入する敵はここで越えることで、判別されるのもこの尾根だ。<br />
<br />
<br />
「イコマ」は邪馬台国の卑弥呼（242から248年ごろ死去）を支えた官職の中に見られる「伊支馬・イキマ」ではと、魏志倭人伝の記載から明治時代の京都大学の歴史学者、内藤湖南が提唱した。”コナン”の推理なんでス。2世紀のはなしなんだ。生駒山地はイクメイリヒコの領地とされて、住吉大社に寄進されたことでもこの地名由来になるという。イクメイリヒコ・垂仁天皇と、お父さんのミマキイリヒコイクメ・崇神天皇とに「イリ」がついていて、大和に西から進出したことで「イリ」が呼ばれるという。このこと。古事記ではミマキイリヒコは168才、イコマイリヒコは153才の長寿だとある。凄いです。この長寿から架空とされても、架空じゃない。人の業績には死後におこなわれたものがある。それを「滅後の真筆」というそうだ。「イリ」は八重山列島の西表島・イリオモテシマのイリを連想させる。お日様が海に沈むから「いり」なのか、西からやってきた人たちがいたから「イリ」ってことか。<br />
<br />
<br />
九州・日向を出立した神武天皇は東征して生駒山の西の孔舎衙・クサカエに上陸「イリ」の伝承だが、その地は今の生駒山頂の北のふもとの、日下・クサカだとされる。生駒山頂の少し北になる。が、上町台地北端に上陸を想定されてもいる。明治時代の神武天皇上陸地点推定図があって、そこに古代難波の宮になるあたりが上陸地となっている（明治時代の東京帝国大学の学術論文）。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202106/05/94/d0089494_15031645.jpg" alt="_d0089494_15031645.jpg" class="IMAGE_MID" height="474" width="500" /></center>ここに、ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が上町台地北端に生国魂神社(地元ではいくだまさん。日本書紀に掲載）を建立の伝承ある。この地に「イリ」している。生国魂神社の祭神は生島神足島神とされ、いまも宮中のお祭りされているという。（大和巌男・生国魂神社）<br />
<br />
<br />
生国魂神社には「難波の宮でナニワの海岸に生まれ出る砂州の島そのものにむかって、儀式が生島御巫・イクシマカンナギという巫女がいた。新しい天皇が誕生すると、用意した箱に新しい御衣を入れ、渚で箱を開き誕生しようとする島々の霊力を呼び込み、その霊力を衣に付着させる。眼前に波立つ広々とした海に次々と生まれる八十島に生成する宇宙を巫女たちは見てた。（大阪アースダイバー・中沢新一）」<br />
<br />
<br />
ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が新しく国造りに生国魂神社の神を鎮座させた伝承は生き生きとして感じさせる。地名から上陸地点とされる日下は厳しい斜度の尾根の下で、とても上陸地点には選べない、と思った。上町台地の北端には先住の生国魂の神そばに古代前期後期の難波宮が建設、のち浄土真宗の蓮如が石山本願寺を、そして秀吉、家康と大阪城建設の地の歴史が重ねられる。まさに地霊・ゲニウスロキの地、最強のパワースポットに違いない。なのだが、日下にはそれらしき神社も見当たらないのだが、5世紀の蒙古系12才（どうしてわかったの？）が発掘された日下遺跡がある。「江上波夫の騎馬民族国家」がチラチラします。<br />
<br />
<br />
生国魂神社の古来の鎮座地てもある秀吉の大阪城の三の丸があった場所に玉造稲荷神社が鎮座（北緯34.40.41・ほぼ同じ北緯）している。神社HPでは神武天皇到来から約600年のちのBC12年垂仁天皇・イクメイリヒコ創建の伝承とあり、下照姫命奉斎。神社HPの由来では「当神社は垂仁天皇18年（西暦　紀元前12年）の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。」とあるのだ。ここから約2ｋｍの南東に深江稲荷神社がある。神社HPには「深江稲荷神社は垂仁天皇・イクメイリヒコの御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地（今の深江南３丁目の地）に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請した」とここにもイクメイリヒコがあらわれる。<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>垂仁天皇・イクメイリヒコの痕跡-1</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28615003/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28615003/</id>
    <issued>2021-05-25T12:02:00+09:00</issued>
    <modified>2021-05-27T10:14:06+09:00</modified>
    <created>2021-05-25T12:02:22+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[垂仁天皇・イクメイリヒコなどと、ずっと昔のことですが、今も、なんです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
春日大社（768年造営）と御蓋山（春日山）と生駒の峰がほぼ同じ北緯N34.40.50にPCのアプリでは並んでいる（国土地理院のデジタル地図）。春日大社の位置に、それも東西正方向の決定の時代にはデジタル地図による北緯を使えるはずはないのだから、ただ、ただ同じ北緯位置だと驚いている。<br />
さらに、この三地点のライン中央あたりの奈良市西部、平城京西端に垂仁天皇・イクメイリヒコ御陵がある。古墳の中心点がどこなのかは、指定しているウイクペディアの表示N34.40.48を見ると、やはりほぼライン上にある。ここの緯度の2秒の差は約50ｍほどの距離だ。イクメと生駒によく似ている。大阪、住吉大社のに残る胆駒神南備山本記・平安時代に垂仁天皇・イクメイリヒコが生駒山地と山麓一帯を寄進したとあり、住吉神は天皇の天下泰平を約したとある。（日本の神々4）生駒山山頂のほぼ東の山麓に生駒大社が北緯N34.40.41に鎮座している。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_09582072.jpg" alt="_d0089494_09582072.jpg" class="IMAGE_MID" height="294" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
東西の正方位N34.40.50に並ぶということの正確さはPC上で知りえたことで、春日大社造営時の平安時代に認識されていたか？は予想もつかない。この東西ラインは偶然でしかない、と思っていた。楽しい妄想でよかった。それを一変させる話に出会ったのは松岡正剛の[白川静・漢字の世界観]の柿本朝臣人麻呂の作れる歌」だった。<br />
<br />
<br />
「東の野/ﾋﾑｶｼﾉﾉ　に、炎/ｶｷﾞﾛｲ　の立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」柿本人麻呂。阿騎野にて歌う。阿騎野冬狩歌。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_10102958.jpg" alt="_d0089494_10102958.jpg" class="IMAGE_MID" height="263" width="500" /></center><br />
「阿騎野にやどった翌朝、日の出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪に降った野にも写っている。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている。斉藤茂吉の解説」であるといわれてましたそうです。が、「この阿騎野へは、孫である軽皇子をつれて祖母、持統天皇が冬狩りを計画した。その訳は軽皇子の父で天皇を後継するこであった草壁皇子の死去により、幼年であった軽皇子を天皇の後継にすることであった。急逝した父のもつ天皇霊を呼び起こし、その霊が生命的な活動へとなる状態で後継者に摂受されるとなることから、もっともその摂受ができる日に、霊幽の世界に働きかけ、それを感応する。その為の冬狩りであった。白川静」こう白川静/漢字の世界観・松岡正剛で紹介されています。<br />
「この冬狩の日は東に太陽が輝きはじめ、そのとき西に月がかたぶく光景がなければならないし、生命が復活へと活動はじめる、冬の冬至でなければならない。実はその日が確定されているのです。ずばり持統天皇6年。西暦692年12月31日の午前5時50分ごろ、すくなくてもその一週間前後。この計算は東京天文台がおこなっています。白川静」<br />
<br />
<br />
この白川静の解説から692年ごろには、冬至の日、その日の日の出、そして同じ時間の西に月が沈むことの天文時間が理解されて、かつ旅を予定されていたことになる。その旅先の安騎野には人麻呂像と万葉公園が作られていた。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_10122312.jpg" alt="_d0089494_10122312.jpg" class="IMAGE_MID" height="337" width="450" /></center>そばには美しい阿紀神社がある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_10124305.jpg" alt="_d0089494_10124305.jpg" class="IMAGE_MID" height="337" width="450" /></center>東西に開けた空、神社そばの流れが手水舎になっていて、手ぬぐいが風にゆれている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_10130317.jpg" alt="_d0089494_10130317.jpg" class="IMAGE_MID" height="288" width="388" /></center>この安騎野には神武天皇が熊野から到来したという場所であり、道案内の八咫烏神社は3ｋｍ東に鎮座する。大海人皇子（のち天武天皇）鵜野讃良（のち持統天皇）夫妻が吉野に隠棲から挙兵したときここを通過している。古代人にとって余程の重視される場所だったのだろう。<br />
<br />
<br />
白川静は古代人たちには「神隠れるというように、神は常に隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在を知られるようになる」のだと言っている。朝日は御蓋山の山頂から登り、生駒山の山頂に落ちるその日を知ろうとすること、を影向とした。それを指示したのがイクマイリヒコなのだ、いや、したのだ、とこのラインは言っているように思った。生駒と御蓋山という自然の造営物が同じ北緯に並ぶことに合わせて御陵を造っているのだから。北緯は北極星の高度角の観測で知られる。同じ角度なら同じ北緯にある。宇宙を探すこと、が神の存在につながるように、思えるのだが。<br />
<br />
<br />
春分と秋分の日を確定して正東西の方位を決定してこそ、神を尋ねることができた。明け方は「彼ハ誰・カワタレ」夕暮れは「誰ソ彼・タソカレ」の「彼」は神なのかも。<br />
<br />
<br />
この日に似た「朔旦冬至」の日がある。冬至の日、それは太陽がもっとも弱体し、翌日から復活しはじめる日。その日が月の朔日・新月に当たり明日からやはり復活する日のことで旧暦11月1日と冬至が重なること。月と太陽が同時に復活する日。20年に一度のことらしい。ただ記録上に見られるのは861年だというから、692年の安騎野にそれを予見され実行された旅の日程は凄い。<br />
<br />
<br />
冬至に近い今年2021.12/31の阿騎神社で日の出日の入りの方位と月の出月の入りの方位、また時刻を”日の出、日の入り　時刻方位マップ”のアプリで検索したもの。月の出、入りも付けている。方位はうまく合致するのだが、月の入りは昼間になるようだ。柿本人麻呂マジックとしか、言えない。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/25/94/d0089494_10201715.jpg" alt="_d0089494_10201715.jpg" class="IMAGE_MID" height="415" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
正方位東西については、冬の星座だがオリオン座の三ツ星は東の空に現れる。それも縦にならんで登場する。そして最初の出てきた星の位置は真東だ。観測点を固定して、東の空の何処から現れるかを決めれば、正東西方位になる。その位置に日の出がある日は春分・秋分の朝である。<br />
「天の海に　雲の波立ち　月の船　星の林に　漕ぎ隠る見ゆ　柿本人麻呂」この歌を白川静はどう解説するのだろうか。<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>影向線</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28551876/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28551876/</id>
    <issued>2021-04-20T14:57:00+09:00</issued>
    <modified>2021-04-20T14:57:30+09:00</modified>
    <created>2021-04-20T14:57:30+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<br />
<br />
広島城位置決定には牛田・見立山から宮島弥山山頂に結んだライン、影向線を使っているという。影向・ヨウゴウ？って、なに。<br />
<br />
<br />
東大寺のお水取り、修二会の法会・修行に僧侶が退出するまで二月堂の堂内で過ごしたことがある。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525743.jpg" alt="_d0089494_14525743.jpg" class="IMAGE_MID" height="318" width="500" /></center>僧侶たちの読経の声を聴き、堂内での激しく動く影を、燈明の、また時に堂内で燃やされる松明の光が映しだされるのを障子越しに聞き、見ていた。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525741.jpg" alt="_d0089494_14525741.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
1250年も欠かさずつづけられた修行に、奈良時代から現在に至る間の東大寺や 二月堂に関係した人々、或いは修二会に参籠した僧侶等の名前が記された「東大寺上院修中過去帳」をその人たちの冥福を祈るために特に読み上げられる。「”鎌倉時代、承元年間（1207-1211）に修二会中、集慶（じゅうけい） という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で「青衣（しょうえ）の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。（東大寺HP）”」　青衣の女人は現在も読み上げられている。その声を聞きたくて、夜半まで狭い堂内でうずくまっていた。<br />
<br />
<br />
僧侶たちの激しい動作の影と燃やされる松明の火とに包まれてるうちに、青衣の女人の読み上げを聞き逃したらしい。その夜の法会が終わると僧侶たちが松明に囲まれて退堂していってハタと気づいた。いつの間に終わってしまった。熱っぽくなった頭を持て余して過ごしているうちに、ブラブラと浮見堂の堤あたりにきていた。春日大社の背後のまだ暗い御蓋山・ミカサヤマが、朝日の中で明るくなってきた春日山連山を背景に影として浮き上がって現れる。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14505914.jpg" alt="_d0089494_14505914.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>御蓋山の三笠山とも春日山とも呼ばれる円錐形の山影が神がまさに今降臨するかに見せる景色は神々しい。青衣の女人の読経を聞き逃しの無念さはこの景色に吹き飛ばされた。浮き上がる御蓋山。これが神の「影向」だろうか。そう思えて、お水取りの御蔭です。などとつぶやいた。いや、仏様は影向でなく来迎だろう、などともつぶやいて、明るさが増して御蓋山の影が薄れてゆくのを見ていた。青衣の女人が影向にあらわれること、そして消え失せたことがあったのだろう、と御影山に重ねていた。このような景色にひどく惹かれる。<br />
<br />
<br />
春日の神の御蓋山への降臨の「鹿島神立影図」絵図を思い出していた。神は白い鹿に乗り、常陸からここに鎮座しているが、すでに地主の榎本の神がおられた。御蓋山に鎮座をもくろんでいた鹿島の武鬢槌神に土地を乗っ取られ、今は本殿の南側の塀の外の祠小さくおられるのだという。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525661.jpg" alt="_d0089494_14525661.jpg" class="IMAGE_MID" height="232" width="500" /></center>白鹿にのられた神を常陸から案内したのは神官の中臣時風、秀行と氏名も記録されていて、追い出し占拠する神のとても人間臭い話が由来である。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525781.jpg" alt="_d0089494_14525781.jpg" class="IMAGE_MID" height="579" width="252" /></center><br />
<br />
<br />
平城京遷都が710年。その約50年のち春日大社創建。都城の道はすでに碁盤の目状に区画されており、三条大路の東端から春日大社の位置は少し南に寄っていて、御蓋山山頂の真西N34.40.53の北緯にある。山頂の本宮神社の北緯と同じ。東西に置かれた三条大路の東端にある一の鳥居。ここから東に向かう直線で伸びる参道が南方向に100ｍ曲がって二の鳥居から本殿にはいる。奈良・平城京の道の設計に外れて、わざに本殿の位置が御蓋山の真西に置かれたことが気になる。大社は三条大路と四条大路の間を四分割する小路にも該当していない。この都の設計に御影山は考慮されてなかった。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525776.jpg" alt="_d0089494_14525776.jpg" class="IMAGE_MID" height="253" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
このぐらいの誤差は仕方ない、とはいえないのだ。古代の都城、難波の宮、板葺の宮（明日香村）、藤原京、平城京、平安京の市街地道路の設計は南北の子午線を基準とされていて、誤差は約21分から23分西へ振っている（京都学園大学・臼井正）という。1000ｍ北へ進んで右へ7ｍずれる程度の誤差だという。すさまじく精度がいい。神仏は意味なく配置されることはない。<br />
<br />
<br />
南北線ばかりか東西線の北緯も、御蓋山山頂、春日大社から、平城京のはずれ西ノ京にある垂仁天皇陵、その西の生駒山山頂、そして大阪の前期難波宮址と東西間約30ｋｍは北緯N34.40に立地していて、御蓋山にのぼった春分・秋分の太陽は、おのおのの正午に真上を通過する。東西に違わず並ぶ、御陵、山、春日大社とをこれほどの同じ北緯は、なぜ平城京道路設計とのずれたのだろうか。三条大路はなぜ春日大社の参道にならなかったのだろうか。<br />
<br />
<br />
平城京誕生の半世紀の後、生駒山と御蓋山とのあたらしいラインが平城京の都城の由来にくりこまれ、神の影向と降臨を現実のものとする作為があったのではないだろうか。宇宙を感じさせる太陽の動きが東の聖山から西の聖山へと説明されれば人は引き込まれるにちがいなかっただろう。その中間点の御陵・垂仁天皇の名はイクメイリヒコ。生駒ににていませんか。このラインに古代の天皇をも引きこむ、そんな計算、だれができたのだろうか。<br />
<br />
<br />
生駒山山頂のラインは賑やかだ。山頂のほぼ直下の麓の枚岡神社（N34.40.10）から、春日大社の祭神の天児屋命と姫神が春日大社に遷祀されている。山頂ほぼ北の麓、枚岡神社から1.5km北に神武天皇と戦った物部の神・饒速日尊・ニギハヤヒを祀る石切神社（N34.40.56)、その神武天皇上陸地で地元の長髄彦に敗北した戦場、孔舎衛坂・クサカエサカ（N34.41.38)が1.6km北だ。古代神話が重層している。瀬戸内海を東に航行する船の舳先の展望に難波宮と生駒山山頂との見通しが重なると、そこが平清盛の大輪田の泊（N34.40.15）がある。神が指し示す、まさに”神の戸”だろう。(神戸の地名は生田神社の支配地のをいう、となってるが、生田神社は元は新幹線新神戸あたりに鎮座していた。港神戸は海と陸との交流の戸では？が美しい）<br />
<br />
<br />
古代難波宮の北隣になる織田信長と戦った浄土真宗・蓮如の石山本願寺がのち秀吉の大阪城で、この東西ラインに近世も乗りかかってる。秀吉は正・東西南北で真四角、方丈に大阪船場の町を建設している。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/20/94/d0089494_14525779.jpg" alt="_d0089494_14525779.jpg" class="IMAGE_MID" height="351" width="500" /></center>丹下健三プランの千里が丘万博会場のメイン道路の子午線は秀吉大阪城の豊国神社に重なってある。丹下健三も凄い！。<br />
<br />
<br />
ラテン語の、Genius loci、ゲニウス・ロキを建築家の鈴木博之は。「姿形なくどこかに漂っている精気のごときもの。ある土地から引き出される霊感とか、土地に結び付いた連想、あるいは土地が持つ可能性といった概念だという。”東京の地霊ゲニウス・ロキ”」影向・ヨウコウ、来迎・ライゴウの起きるってそんな感じがする。それをラテン語でいわれると、なんとなく判った気分になれる。経度緯度という宇宙観は影向という響きを強く感じさせる。それは時の流れに竿さして渦をおこす磐のように響させる。。<br />
<br />
<br />
夜目、遠目、笠の内、とは女性が誰しも美しい！時がある。アンブレラじゃない笠！。田植えの早乙女、花笠の乙女、阿波踊りの鳥追い笠の乙女、笠を付けることにのより、彼女たちは神の巫女になる。海の厳島神社も海の御笠浜に鎮座地している。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>広島築城、都市伝説</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/28534898/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/28534898/</id>
    <issued>2021-04-10T14:45:00+09:00</issued>
    <modified>2021-04-10T14:45:09+09:00</modified>
    <created>2021-04-10T14:45:09+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<br />
広島市立図書館の二階の郷土資料室の北向きの窓の正面に広島城天守閣がみえる。書庫の棚に自治体発刊の歴史書だけでなく、市井の郷土史家たちの労作も並んで、それらは興味深い。その一つの最も厚い「新広島城下町　郷土研究会　1974年第7集」を棚から引き出した。その挿絵のページに広島城位置を決定したという二本のラインが簡単な地図上に引かれて、それが交差する場所が眼前の天守閣の位置になった、とある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/10/94/d0089494_14440631.jpg" alt="_d0089494_14440631.jpg" class="IMAGE_MID" height="342" width="500" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/10/94/d0089494_14401915.jpg" alt="_d0089494_14401915.jpg" class="IMAGE_MID" height="240" width="320" /></center><br />
「広島城を築城するさい、毛利輝元（元就の孫）は先ず牛田・新山に登り、厳島の頂上に一線を画き、次に二葉山と己斐松山（旭山神社）に登って一線を引いて、その交差する点を、天守閣の位置を定めた。それで新山を一名「見立山」という。△･･･影向線の訳　厳島神社のご鎮座縁起に「御山を影向地と定めて宮を建つことなり」という。影向線は甲午線とも書き、方位学、家相学でいう表、裏鬼門の意。それで広島城の天守閣を定めるにあたり、安芸国の一宮たる厳島神社を中心に影向線上に建てられたもの。」と説明されている。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202104/10/94/d0089494_14403259.jpg" alt="_d0089494_14403259.jpg" class="IMAGE_MID" height="454" width="299" /></center>これって、マジ！広島誕生の都市伝説！誕生ではないか。と引き込まれた。とは思ったのだが、影向線とは甲午線とか、郷土史家たちのファンタジーの世界の言語が理解できない。<br />
<br />
<br />
書庫の棚にある、大正時代に広島市から発刊された廣島市史に、広島城が建設される前の大田川の河口の五箇庄と呼ばれていた砂州の地図が掲載されている。その古地図上に二本線を想像してみた。<br />
<br />
<br />
1961年刊行の新修広島市史・昭和33年広島市発行に、広島城の1958年再建の際の天守閣の地質調査報告書を見つけた。そこに天守閣の地盤の図が掲載されている。岩礁や小高い場所があったのでなく、人工的に砂州に小石を積み上げ盛土され、石垣が組まれたとある。地盤が強固な場所などの土木条件による選定でなく、特別の何か、ここでなくてはいけない、ないか、があったのではないか、マジカルな選択と決定を思わせる。郷土史家たちのいう「影向線」とやらが、その謎の選択の正体なのだろうか。<br />
<br />
<br />
築城位置の決定の逆方向で確かめることにした。ラインの実態を地図に落として確認してみようと、己斐松山の旭山神社をマークして天守閣を経由する直線を、東方面へ伸ばしてみた。尾長山の山頂にピッタリと張り付く。宮島の弥山山頂の三角点からやはり天守閣を経由するラインを引くと、牛田の見立山の尾根に到達した。単なる都市伝説ではないようだ。計測され設計されている。広島城域の設計図の存在を確信した。毛利輝元とその一族の築城への決意が都市伝説伝として郷土史家たちに見出されている。<br />
（地図は国土地理院の数値地図で表示しているGISソフトウエアー、カシミール3D山旅を使用。ラインの見通し（プロフィールマップ）、距離、方位も計測できる。）<br />
<br />
<br />
己斐、旭山神社は毛利元就が1555年厳島合戦の際に必勝祈願をした由来がある。そして勝利した。神社ホームページに元就が祈願した朝をもって、旭山神社とそれまでの己斐八幡神社から改名されたという。築城主の毛利輝元は父毛利降元を11歳で亡くし、家督を継承するが、祖父元就が彼を後見している。毛利家由来の場所で、小高い丘のある見通しの良さで選ばれたのであろうか。二葉山は江戸時代に浅野藩により改名された呼び名で、矢賀山と呼ばれたと矢賀郷土史にある（矢賀郷土史・山田隆夫）。山の名は見る麓の名で呼ばれることが多いようで複数の名があることもある。矢賀の西側地域が尾長である。この山頂には広島空港の無線電波灯台が残っていえ、さきの戦争に高射砲も置かれたといわれる展望の良い場所だ。円錐形の山頂は麓の聖光寺の山門をくぐると正面に仰ぎ見れ、この寺に輝元一行が城地選定に（1589.2.20）最初に集まった場所で、築城設計ライン一端がここと、この景観で納得でした。この寺で城域を広島と命名し由来があって、山門に広島山と額が掲げてある。<br />
<br />
<br />
宮島の弥山山頂から天守閣を通過するラインは、牛田、見立山の尾根の東端を通過する。グーグルマップにある見立山のマーク位置には広島市が設置した展望掲示板があるが、そことは40ｍ程東へよってラインは通過している。尾根にはちがいないが見立山といえるピークは尾根にｈみあたらない。が、尾根の麓に日本陸軍の設置した見立山の記念塔があったりして見立山の地名は結構周知されている様子だ。尾根の掲示板から広島城天守閣は建物にかくれて見えない。ただ天守閣南に隣接する県立総合体育館の丸い大屋根を宮島からのラインが地図では通過しており、その北側の天守閣への想像で弥山へのラインの展望が確認できる。見立山から宮島・弥山間21ｋｍは天守閣の設置点には遠すぎると思うのだが。元就が宮島合戦での上陸地点と言われる包ケ浦をラインは通っている。マジカルと言えばマジカル、かな？<br />
<br />
<br />
地図上でかなりの精度で、確かに2つのラインは交差している。これが一番マジカルなんだ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>川が運んだもの</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/26665465/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/26665465/</id>
    <issued>2018-04-15T16:14:00+09:00</issued>
    <modified>2018-04-15T16:14:05+09:00</modified>
    <created>2018-04-15T16:14:05+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[13世紀初頭に記録に残る栗栖氏はなぜ戸河内に定着できたのだろう。彼らの祈願社の大歳神社の神紋は厳島神社の神紋が使用される。栗栖氏は厳島神社神領衆といわれ深い関係がいわれる。栗栖氏と関わり深いここの大歳神社は厳島神社の摂社となるのだろうか。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_15550456.jpg" alt="_d0089494_15550456.jpg" class="IMAGE_MID" height="415" width="500" /></center><br />
大田川下流の口田の弘住神社の神主家が栗栖さんだと発見。川上に中世繁栄した栗栖氏が今と中世をつなぐものあるか、に引かれた。弘住神社のそばの小山に大歳神社も鎮座している。川上―川下の関係、チョットロマンチック、とおもったのです。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16113438.jpg" alt="_d0089494_16113438.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
厳島神主家の廿日市・桜尾城と同じ名の城が加計の町の西の滝山川右岸の上調子にある。ここにも大歳神社が鎮座している。加計から太田川をすこしさかのぼると、右岸にあるのが西調子。ここにも大歳神社が鎮座している。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_15554341.jpg" alt="_d0089494_15554341.jpg" class="IMAGE_MID" height="365" width="500" /></center><br />
この「調子」の地名が下流にある。<br />
広島市安佐南区川内の胡神社のすぐ南のバス停に「中調子」がある。「下調子」は明月寺前のバス停にある。安佐南区川内6丁目に上温井集会所がある。温井は加計・上調子の滝山川にある温井がある。いま温井ダムの名に残っている。水はけのよい、抜ける井・水の場所が“温井”だという。<br />
太田川の川下の川内に温井、調子の地名が残り、川上、川下に同じ温井、調子の地名があらわれる。古代の河内郷にあった温井・調子が今に残っている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16065137.jpg" alt="_d0089494_16065137.jpg" class="IMAGE_MID" height="365" width="500" /></center><br />
「“調子”は三々九度の杯に巫女さんがお酒を注ぐ容器で左右に注げる。川上から流れ込んでそこで膨らんで川下は細くなる流れ。それがお銚子に似ている。だが、そんな地形はどこでもある。奈良県の宇陀に調子の地があるが、もと鳥飼で音読みでチョウシになり鳥子から調子へ変わった（池田末則　地名の話）」。<br />
地名の漢字にフリガナがつかないと、かってに自分が読める発音になる。調子は川沿いにあることから、鵜飼いの浜のことだったら、おもしろい、と。太田川の鵜飼いのポイントが“調子”なのだ、とは、いかないか、妄想にすぎないカ？。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16073694.jpg" alt="_d0089494_16073694.jpg" class="IMAGE_MID" height="325" width="500" /></center><br />
大田川の左岸の口田、右岸の川内・東野・中筋、そして古市の河内郷が川を越えて一括の区分にあり、1603年川の流域が変わって、口田と東原の間には新しく太田川が流れ、古川（それまでは佐東川）も残り、その領域は“北の庄”と名前が変わり、明治に高宮郡とまた変わり、そして今安佐北区に変わった。高宮郡は古代には八千代、吉田、美土里（安芸高田市）、と高宮あたりとされている。それは鎌倉時代には高田郡に吸収されて消えている。江戸時代の“北の庄”の北の指す場所、明治の“高宮”の復活になにかがありそうで、気になるのです。<br />
<br />
<br />
1245年、鎌倉時代、厳島神社が自社の荘園の年貢徴収の記録が残っている。その領地の内、山県郡三角野の荘園が、（場所不明だが、中国新聞社・鉄学の道では北広島町・豊平にあてている。）年貢を鉄、百三十四斤余（約80kg）で課せられている。宮島へ鉄が送られていた。<br />
この辺りは1171年地元の豪族凡氏から厳島神主家佐伯景弘が仲介して平清盛に寄進し厳島社領となった。三角野は北広島市西宗あたりらしい。<br />
<br />
火と砂から鉄を取りだす、古代の最先端の鉄生産技術者たちが住まう場所が高宮と呼ばれても不思議ない。とおもうのは、九州の宗像大社の奥宮を高宮祭場とよぶ。そこは森の中の宗像三姫神の降臨の地だというしめ縄で結界されたただの空間なのだけど。神の降臨なくして（化学反応）、砂は鉄にならないだろう。いまは、すっかり圃場整備と直線車道で昔匂いは消し去ってしまっている。<br />
<br />
<br />
栗栖氏の拠点の加計から丁川・ヨウロ川畔を北上し豊平へ向かうと出会う、溝口・千代田の分岐のカンバンを右で、民家が坂に点在する鶉木・ウズラキの集落の十文字峠（鶉木峠）にかかる。とても広い空へ登る。ここの登坂は中国山地には珍しい九十九の道を気に入っている。曲がり角に厳島神社が谷を望む姿で鎮座している。来るものを拒んでいるのかと威圧を感じる。中世厳島神社神領の入口を守護している、かの様子。峠のとりつき口に神原、才ノ平の地名がある。神原の神は厳島の三女神だろうか。才ノ平の才はサエギる場所でヒラは坂をさすことがある。「切り立った地下へ通じる道の境界・柳田国男」の意味であの世をしめすという。神なる土地へのヒラ。峠登り口に安芸太田町と北広島町の境界線がある。“才”がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16082372.jpg" alt="_d0089494_16082372.jpg" class="IMAGE_MID" height="447" width="500" /></center><br />
峠を越え右へとり、豊平の都志見の町へ。採鉄のかんな流しで砂鉄を採取しできた田んぼが広がっている。このあたりに、鉙原・カンナハラの地名もある。とても清潔な街並みが整備された車道に並ぶ。たたら製鉄址が保存される公園も駐車場かとおもったほど、昔が消えている。鉄の匂いも消えている。けれども、砂鉄採取のカンナ流しの土砂を階段状に石垣を組んでそこに流し込んででできた景色は山尾根でなく田んぼの中に森と神社を置いているのが多い。神社周囲の土砂もながしてしまったからかと、その特異さが中国山地でどこかで又であったりすると、なぜか懐かしい。<br />
<br />
<br />
たたら製鉄址公園から東へ15ｋｍほどに千代田の古保利薬師がある。境内に大歳神社が鎮座している。ここに古墳があり、古代豪族・凡氏に関係しているといわれる。凡氏はオオクニヌシの末裔を自称している。彼らが鉄の職人たちなのだろうか。宗像女神長女の御主人大国主鎮座の出雲を連想する。（戸河内インター・上殿の大歳神社の石柱の文字の揮毫が出雲大社の千家だった）凡氏はのち山県氏として毛利家に属し今にいたっている。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16110358.jpg" alt="_d0089494_16110358.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
平安時代10世紀中旬の”和名抄“に安芸国山県郡に賀茂郷がみられ、すこし離れるが大朝のもっとも古い神社とされる枝宮八幡神社は三輪庄大麻三荘鎮守と古称され、三輪は奈良の三輪山に通じて、大国主の国ってことになる。境内に摂社として賀茂社が鎮座する。凡氏は出雲に関係あり、枝宮の摂社に大国主社もあった。出雲の賀茂神はオオクニヌシの長男・アジスキタカヒコネ（よくできている鍬）で、鉄そのものの神にといえる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16090503.jpg" alt="_d0089494_16090503.jpg" class="IMAGE_MID" height="470" width="500" /></center><br />
凡・オオは梵・ソヨギとも同じ字になる。元カープの梵選手は三次出身。この珍しい名は県北にであったことがある。古代がポツリと顔をのぞけた感じがした。<br />
太田川下流の口田の月野瀬神社の祭神は賀茂神。古代高宮と明治の高宮が賀茂神つながったと、妄想完成。が、明治に官営製鉄産業が勃興したのは豊平ではなく備北だった。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16131342.jpg" alt="_d0089494_16131342.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
戸河内、上殿の栗栖氏の実力の一端が彼らの館跡の宗玄寺にある石碑が言っている。上殿は石工自慢であり、今に残っている石組みは福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉城と同じだとその石碑にあった。ここらあたりにはない！と自慢している。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16100134.jpg" alt="_d0089494_16100134.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>車道を越えて北の山へ伸びている。その先に佐々木家の立派な墓所。そこの西に箕角（大歳）神社、裏尾根の上に箕角城址と中世トライアングル。この三角関係をつなぐ水は神社奥の谷から出ている。館（今は寺）側が最良の田で前田と呼ばれたりする。ここでは土居とあるから堀があったのだろう、などと痕跡を探してウロウロがいい。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/15/94/d0089494_16103217.jpg" alt="_d0089494_16103217.jpg" class="IMAGE_MID" height="581" width="500" /></center><br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>安芸太田町　中世の豪族・栗栖氏</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/26644340/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/26644340/</id>
    <issued>2018-04-08T15:21:00+09:00</issued>
    <modified>2018-04-08T15:21:54+09:00</modified>
    <created>2018-04-08T15:21:54+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[中国道・戸河内インター近くの、ひな壇状に点在する赤瓦の民家の町が「上殿」。高速道からは譜面にみえる。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/08/94/d0089494_15152843.jpg" alt="_d0089494_15152843.jpg" class="IMAGE_MID" height="415" width="500" /></center><br />
三段峡へ向かうと潜るトンネルの尾根に栗栖氏が最初につくった土居の発坂城址があり14世紀初頭とされている。東隣尾根に連続して栗栖氏の岩田城址がある。その城址の尾根裾が流れ落ちる「上殿」集落に箕角八幡神社が鎮座し、すぐそばに宗玄寺がある。この八幡神社は大歳神社であったと角川地名辞典にある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/08/94/d0089494_15134806.jpg" alt="_d0089494_15134806.jpg" class="IMAGE_MID" height="429" width="500" /></center><br />
「われわれの祖先の多くが、農耕に従事し、生活を楽しんだ平野には、中世の遺物・遺跡は豊富である。“立ノ内”“辰ノ越”などは武士の居館であり、近くに菩提寺の跡があろう。背後の城山は戦時にたてこもる要害である。居館（タテ）よりさがったところに「屋敷」の地名があるが、ここは名主・ミョウシュのいたところで、････戦国末期の兵農分離の過程で、大名の家臣団に編入され、村を去った。その残された屋敷神が村の鎮守となってくる。そのまま農村にとどまれば、庄屋として村落共同体の首長になる。　石井進」<br />
“山城址”の教育委員会の標識近くに神社があり、集落に寺院、のトイラアングルが田園の集落に残されていることに中世の時間があること、驚いた。すこし景色を見る目が変わった。戦国の時代が頭を駆け巡る、そんな集落が「上殿」だった。いまも中世の精霊のただよう時間に町が見え始める。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/08/94/d0089494_15173274.jpg" alt="_d0089494_15173274.jpg" class="IMAGE_MID" height="413" width="500" /></center><br />
山城址は全国に三万とも四万ともあるといわれ、それは14世紀からの300年間に築かれた、という。山に見張場をつくることが、支配者の気分があったのだろうか。文化庁宗教年鑑で神社が88600社、摂社・末社含めて30万とも。寺は77350寺とある。どうりで、そこかしこで、マジ、どこでも、中世トライアングルか？と、妄想してしまう。<br />
<br />
たとえば？土居の大歳神社は栗栖氏の祈願所なのか、また彼らの館の跡なのか。土居は館にめぐらした空堀をいう。だから、･･･?と。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/08/94/d0089494_15162716.jpg" alt="_d0089494_15162716.jpg" class="IMAGE_MID" height="530" width="500" /></center><br />
岩田城址、箕角八幡神社に宗玄寺のトライアングルが中世を残しているといわれる。寺が栗栖氏の館跡なのだという。宗玄寺に石碑がある。<br />
「今は、この辺りを｢考哉河内｣と呼ぶが、昔は｢高野河内｣であったことを示す貴重な碑である。栗栖氏と高野山とは丹（朱）の産地を通して関係が深い。昔、太田地方は丹を多く産出して、栗栖氏の豊かな財源になっていた。栗栖氏が高野山へ献じ物をするための土地であったと考えられる。」<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201804/08/94/d0089494_15181259.jpg" alt="_d0089494_15181259.jpg" class="IMAGE_MID" height="431" width="500" /></center><br />
「広島に住んでいます。田舎は戸河内で、そこら一帯、栗栖ばかりなんですけど。その辺りに昔、栗栖の殿様がおって、栗栖の城もあったらしい･･」ネット「全国栗栖会コミュの栗栖族って」を見つけた。ホント！安芸太田は栗栖さんでいっぱい。栗栖が多くて、栗栖のカンバンや表札を数えながら走ったことも。そのHPに各地の栗栖さんが書き込んでいる。戸河内の栗栖氏はどこからやって来たのだろうか。<br />
<br />
<br />
栗栖氏は関東・下野国岩田からの説、京都・山科の栗栖野からの説、和歌山市栗栖からの説、等々。和歌山に自分は特別な思いいれがある。<br />
<br />
<br />
紀氏・栗栖氏とある戸河内・栗栖氏の記録がある。和歌山県田辺市から東征に向かう、熊野古道・中辺路途上、ここから山岳ルートの起点にある中辺路町栗栖川を思い出す。栗栖と書かれたカンバンは気にしてなかった。熊野古道は地味な古風がある道で錆びたシャーターが目に付く。栗栖とあるカンバンは印象にのこっていない。それは、きっとここからの登坂が怖かったから、景色を見る余裕なかったのかも。<br />
熊野古道・辺路道の王子と呼ばれる点々と置かれた祠をたどる道に初めて「辺」・あの世の境、清濁の境をここと決めた人々がいたこと、を発見した道だった。最初に神の所在を感じた人が、そこを石や木によってマークする。そのマークは伝えられ、そこにまた神の所在を見つかられると、そこが人々に認知され、ある機会に祠にする人があらわれ、そこが王子と伝承される。そして境界が辺路になり遍路になる。やはり、遍路には、その名だけで、なにかを生まれさすなにか、があるのかな。長い人々の思いの時間の蓄積が、走る気分を熱くする。<br />
中辺路が登り連続になって「こんなバカなこと、どうして、？」と思ったとき、非日常のサイドに入った。日常の向こうに渡った。境を越えたと「王子」が教えてくれた感覚があった。が、息は切れ、足は止まり、腹が減っていた。夢みていたようだった。今、あの時を思い出した。<br />
<br />
<br />
栗栖氏が最初にこの地に現れたそのルートはきっと船だろう、と妄想する。<br />
5世紀雄略天皇の時代に半島の新羅に征新羅将軍として紀小弓が派遣されたが現地で病死。その子、小鹿火は帰国し朝廷に角国にとどまり住むと願い出て許されている。そののち、名を角臣とした（日本書紀14巻）。この角国・ツヌコクは山口県都濃郡に古代あったという紀村とされる(岸俊男)。この角臣の一族に紀・坂本臣があり、8世紀に半島の製鉄技術者集団の韓鉄師たちが坂本臣の氏姓を賜った。近世に大朝、可部、そして岩国は鋳物の中心地となった。<br />
紀・栗栖氏は丹だけでなく、鉄などの鉱山経営に関わってゆく一族のバックボーンがあった。と妄想する。箕角八幡神社の「角」がツノでは、と思ったりしている。<br />
<br />
<br />
紀氏・栗栖氏2代目帰源は、僧・栗栖帰源禅門になり、京都・東福寺住職・雪舟喜猷を開基として招聘し、戸河内・土居・実際寺を創建（1366年ごろか）の記録がある。豊臣秀頼寄進の3つの橋廊と紅葉の東福寺は鎌倉幕府の唐船つまり貿易船を運営した巨大寺院。戸河内に貿易の専門家の坊さんがやってきていたことはすごい。14世紀ここに中国大陸との接点・境があった。ここに世界に向かうエネルギーがあった、と思った。<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>中世は生きている</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://forumdoi.exblog.jp/26592855/" />
    <id>http://forumdoi.exblog.jp/26592855/</id>
    <issued>2018-03-22T12:31:00+09:00</issued>
    <modified>2018-03-22T12:31:23+09:00</modified>
    <created>2018-03-22T12:31:23+09:00</created>
    <author><name>forumhiroshima</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[太田川の名は戸河内・本郷の町並みが途切れる橋の上流の天神さんが鎮座する合流点から太田川放水路河口までだという。上流からみての左右で左岸右岸になる。上から目線にこの表現にはとまどう。太田川橋上流の細野神社から右岸（この表現では左岸が自然）に筒賀まであるルートが電源管理道路と整備され関連施設は右岸に設置されている。この道を見つけ走った40年以上前に初めて、サイクリングの何！を見つけた、ことは忘れられない。車は見られなく、道独り占めだった。解放感にあふれて走った。<br />
古代の安芸郡も今の安佐北区も、川上への境界線は津都見（堤？）の八幡神社あたりにあるようだ。ここから川上が安芸太田町になる。川でも道でもない、この境界はどうして決まったのか、県・市・町などの境界の表示に出会うと何故か緊張感がわいてくるのはなぜか。<br />
すこし下流の戻っての宇賀ダムに入る道を詰めると空の広い山村・高山で行き止まる。ここの安佐北区安佐町、境界が交錯する。そこ石段を登ると大歳神社の小祠がある。安佐北区は太田川を越えてここに境界がある。境界の印が社だろうか。<br />
<br />
<br />
自転車で走っていて神社の名を見るための止まることはまずない。神社は地図で位置を特定するには多すぎて使いにくい。それでも、この電源道を幾度か行き交っているうちに、大歳神社の連続に不思議を感じていた。その始まりが川下からは、口田の大歳神社、そしてすこし距離をとっているが高山の小祠、その上流へ安芸太田町、戸河内・本郷にかけて、まさに乱立連続する。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12254791.jpg" alt="_d0089494_12254791.jpg" class="IMAGE_MID" height="600" width="500" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12260872.jpg" alt="_d0089494_12260872.jpg" class="IMAGE_MID" height="750" width="500" /></center><center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12263937.jpg" alt="_d0089494_12263937.jpg" class="IMAGE_MID" height="367" width="500" /></center><br />
「地図をひろげてみていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名がでてくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名になって、ひとびとに周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者（法印さま）が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であった為にほかならない。<br />
これらの点と線をたどってゆくと、崇拝対象となっている丸山・星峠などに達する。その山腹・山麓には本地である阿弥陀・観音・大日・蔵王などの諸仏菩薩・権現をまつる仏堂があり、八幡・熊野・十二神などの社祠がある。また山頂にいたるまでには、荒行をした法印滝・不動滝、精進落としの温泉（湯沢・湯の谷）がある。さらに仏は大地の精である金と考えられたから、山の名は金峯山・金山と呼ばれ、現実に砂金採取のあとがみられることも珍しくない。　山の民・川の民　井上鋭夫」作者は中世史の専門家。新潟大学でフィールドワークをかさねて、この記述がある。境界の在り様に近づける。<br />
<br />
<br />
自転車ではあるとき、古道の勾配に痛めつけられる。何故にこのルートができたのか？知りたくなる。こんな道つくるか？。その道で山中に孤立する集落にでくわす。いま、なぜ、ここで生活を営むのか。法印様が道をつくり、開拓した人？どんな人？。<br />
<br />
<br />
「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の依代の森をあちこちにのこして神の場・ニワとした。そのうち、紀国ぜんたいの神の場として、日前・国懸（ヒノクマクニカカス）神社の森をのこし、木綿・ゆうや幣・ヌサなどをかけて斎祀ったのである。　司馬遼太郎　街道をゆく32・紀ノ川流域」<br />
和歌山市の古墳で覆いつくされた山際に鎮座する森の神々は住宅や学校に囲まれて窮屈そうだけど、負けてはいない存在感を示している。<br />
「宮司は紀氏である。“紀”という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。　司馬遼太郎・街道をゆく32」<br />
<br />
安芸太田氏に大歳神社を建立した栗栖氏はこの「紀氏」の流れにあるという。大歳神社を実際寺側に1311年に鎮座させたのが栗栖氏初代の高基でその系図に「紀氏」とある。（東皓傳・修道商学41-2）。紀氏は愛媛の河野氏の祖先越智氏と婚姻関係があり、周防国玖珂に古代住民リストに名が残る。<br />
<br />
<br />
和歌山市の日前神社そばを走るわかやま電鉄貴志川線の路線に出雲の神々が点在して鎮座している。出雲の神々を背負って移動した人々の痕跡の路線は神社に導かれていて至る終点の貴志川駅はネコ駅長で人気。ネコ様に人々が集まる景色がここから始まった場所では、なかろうか、と思うほど人々があつまっている。<br />
「街道をゆく32」にある根来寺へ向かった。貴志川にそって低い瓦屋根が軒先に顔をのぞかせる集落の中を北上していると、屋根の向こうに小高い木々の森が見えた。司馬さん流では、日前社に集められた残りの森？と、向かった。森を背負って「大歳神社」があった。長屋門の境内の森の中の小山に鎮座している。大歳神社はスサノオがお父さんで、そこかしこに鎮座しているお稲荷さんと兄弟で、親しみやすい神様だと思っていたが、ここは威厳がある。創建の由来に推古11年（603年）と古い。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12281848.jpg" alt="_d0089494_12281848.jpg" class="IMAGE_MID" height="383" width="500" /></center><br />
大歳神を貴志川側の森に鎮座させたのは紀男麻呂宿禰という人で欽明23年（574年）に新羅遠征の記録があり、また崇峻4年（596年）の九州遠征にも記録がある実在の人。和歌山から瀬戸内海を航行して半島へ九州へ活動した「紀氏」の痕跡が安芸太田町に残っていることは、不思議ではないと思える。<br />
<br />
<br />
史実のある神様の由来の前に、上古（司馬さんによれば、記録がない時代、らしい）のモヤモヤとした古代妄想感に目いっぱいに浸るって時間はできそうもない、かと、思いきや、そうでもない記述があった。<br />
伊勢神宮の摂社・伊雑宮・イザワノミヤに“天真名鶴・アマノマナズルが稲の穂をくわえて湿地に植えているのを見つけた倭姫が驚き伊左波登美に命じて収穫し、その地に伊雑宮を建立した。天真名鶴を毎年到来する大歳神として佐美長神社を建立し祀った。その大歳神、天真名鶴を招来して紀国の調月・ツカツキに大歳神社を建立し祀った。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12285082.jpg" alt="_d0089494_12285082.jpg" class="IMAGE_MID" height="889" width="500" /></center><br />
戸河内インターからＲ186で左へ向かうと巨木の銀杏を見る。筒賀神社は角川地名辞典で大歳神社とされる。旧筒賀村は天上山の北山麓に広がって、中央部に棚田の井仁の集落がある。そのすべてに大歳神社が鎮座する。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12292654.jpg" alt="_d0089494_12292654.jpg" class="IMAGE_MID" height="232" width="500" /></center>大歳神社祭神・天真名鶴から「ツルガ---ツツガ」との説がある。井仁の森を“引き明けの森”とはロマンチックだ。太田川を越えると大箒山、月の子原、その地名群に法印様がチラチラする。<br />
井仁の棚田の谷、北斜面の独立峰の姿がすっくと空を切る。どうしても聖なる山に思える、が。修験者たちの時間、中世の景色が、ここにありはしないか。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201803/22/94/d0089494_12300545.jpg" alt="_d0089494_12300545.jpg" class="IMAGE_MID" height="338" width="500" /></center>天真名鶴の飛ぶつるがの里。モヤモヤとした古代妄想感なのか。<br />
.<br />
]]></content>
  </entry>
  <supplier>
    <url>
      <excite>https://www.excite.co.jp/</excite>
      <exblog>https://www.exblog.jp/</exblog>
      <idcenter>https://ssl2.excite.co.jp/</idcenter>
    </url>
  </supplier>
</feed>
