こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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大田川の流路ストーリー

戸坂から河畔を北上する古道が芸備線にそって走り出すとすぐに幹線への分岐に出会う。そこに郵便ポストと道しるべの石柱が並んで迎えてくれる。チビッコな情報をお仕事ご夫妻に思えた。名前を付けて呼びたい!カワイイ。
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お父さん?の石柱に「左 東野 渡テ 古市ニ通ヅ」と刻まれる。道を進んでJRの高架橋手前で車道を横切ると足元に小田用水にそった道がみつかる。
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用水にそった道がJRの踏切を渡るその先に弘住神社と深い森が現れる。
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この神社は川向うの中筋の福島大和守の祈願所の才ノ木神社の祭司を勤めていた。
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弘住神社の祭祀圏は矢口・小田と対岸の古市・中筋・東野であったという。930年ごろ、このエリアは安芸国・田門郷・タト、よばれていたとの記録がある(倭名類聚鈔・延喜式)。
聞き語りなのだが、胡町の胡神社の祭司は広瀬神社が担当されているという。
市内の広瀬神社は毛利元就の菩提寺の洞春寺があった場所で、胡神社の祭神が毛利家祖先の大江広元であることにかかわりがあるのかもしれない。神社の祭祀圏・氏子のエリアは何かしら昔の当たり前が埋もれているようで、覗き込みたく、知りたくなる。
この田門郷と呼ばれた場所に条里制の土地開発の痕跡は現在残っていない。氾濫頻発の所だから消滅した、のだろうか。

「古代に条里制の開発が進められたのは収穫への税金賦課の計算に便利であったことにもよるが、大きな理由は牛馬農耕が人力の2.5倍の効率があり、耕地を方形に、尚且つ一辺60間ほどに整備すると30間の耕地とでは前者の効率が後者の1.2倍になることによる。(開拓の歴史・宮本常一)平安時代に拓かれた水田の大半が条理制の設計であったことは、圧政による押付けからではない」、という。「増産する生産機構を斉一化したことで国民意識が生まれ、国力の伸張するときの国全体にみなぎる気風を万葉集の数々の歌にうかがえる。宮本常一」
そのための農耕馬の生産は、東に向けた峠越えで馬木、12世紀の記録にある豊平、また佐伯も牧がある良馬の産地だった(広島県農業発達史)。

古代の“田門郷”矢口・小田・東野・古市・中筋を今の町行政区分で大正7年国土地理院地図に記載してみた。
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地図では区分は古市・中筋・東野を合わせて三川村となっている。東から太田川、古川、安川の三川か。一つの町に三つの流域が入っている。この区分は明治22年古市・中筋と東野の合併によっている。町の区分は太田川を渡って右岸の高宮郡(1664年浅野藩により安北郡から改名)に含まれている。すぐそばの大町・祇園の太田川左岸は沼田郡(佐東郡からの改名1664年)になっている。川を境界としない不自然さがある。とても気になっている。
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明治31年(1898)に安佐郡となり昭和55年(1980)に広島政令指定都市指定時に安佐南区が成立し、太田川の右岸に所属し、区役所が古市に設置され区の中心になった。大田川左岸の矢口・小田が合わさった口田は安佐北区にふくまれた。1607年の洪水で生まれた太田川から373年後となっている。
三川町の南の古代幡良郷は古川に分断され東原・西原に代わっているがここも三川村とおなじ変遷をたどった。

古代に安佐郡と佐伯郡の境界は古川だった。1607年の新しく流域を変えた太田川を行政区分では安佐と佐伯をミックスして安佐郡としたのが明治31年(1891)。氾濫するたび現れる流路にもてあそばれている様子だ。
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いきなりですが、自転車は道を走る。その道に駐車や障害物があると、えらく腹がたつ。個人的な道路使用は許せない!。ここは公共なエリアである、と。が、自分も走りながら道を個人所有しているのである。
ふと思う。土地の境界区分に打つ杭は、はたしてどちらの所有なのか?。
境界が線で描かれても、その線はどちらの領域に所属しない。線でなく面で不確実な領域を境界と認められると、その面はだれの所有でもない。支配するものが居なくなる空間がうまれる。

この河の流路の変遷が行政区分の不確定さをつくってきたのだろう。そこは河原で水に沈む氾濫原だった。
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この流路の変遷を歴史の中の追った論文が広島文教女子大のHPに見つけた。「中世地域経済の発展と広島湾頭 角重始」(図1 古代~中世の太田川流路図)
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① 太田川は可部で北から根の谷川、東から三篠川と合流し南下する。流路に砂州ができており、いまの高瀬堰あたりで東西に分流していた。東の流れは矢口から西へ急角度に流れ、田門郷の北の境界となった。
② 西の流れはいまの古川の流路をとり古市で西の旧安川を含んだ流路で南下する。田門郷の北辺を流れてきた東からの流路は古市あたりで合流する。
③ 古市から旧安川に流路で南下する。いま公園になっている旧古川よりも広い流域をもっており、東原と西原に地域を分割した流路は遅く戦国時代になる。
論文の図1には流路は①②③と流れ④の流路で大芝水門あたりで海へでたと説明される。④から⑤に分流したのは中州別符(いまの中須)古河村(いまの古市)と氾濫原の地名を残すことから、このあたりが安川・古川が合流しまた分流した場所で今の古市橋あたりだろうという。ここに1955年に安川が古川へ流す放水路が過去の流路跡につくられている。中筋は流れが集中した場所、いわゆる「筋目」からの地名ではないかともいう。

安川の「安」はもしや「野洲」では?。琵琶湖東の野洲市は野洲川が山地から出てそこにつくった扇状地の氾濫原上にできた町だ。などと妄想がふくらむ。
古代の田門荘の北の境界線が、古太田川の東の流路と関係あるのか、はわからない。ただ道路や水路の方向を想像するしかない。

大田川の流路の変遷について地理学からの論文が広島修道大学のHP掲載されている。東晧傳「前近代における広島湾頭地域の開発とその進行」。地形から読み取れば、矢口から西へ洪水時には流れができる、とある。掲載された図で矢印を赤くしている。
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広島築城に関わった福島大和守の痕跡をさがしていて、いつの間に古代からの安佐、佐伯両郡の境界線を不明にした流路を探すことになった。そこに生まれた無縁所ともいう氾濫原に立ち上がった人々の生活の痕跡の道がそこにあること、に興味がうまれた。

ただ氾濫原が頭の中で暴れて、しまっている。

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by forumhiroshima | 2018-02-24 10:15

ストリート、ストーリィ・条理制の道・福島大和守を訪ねる

430年程前の天正17年(1589)2月20日。 吉田町を出発した毛利輝元が北庄(広島市安佐南区川内あたり)の福島大和守元長の屋敷を宿舎にして己斐・松山、明星院・二葉山、比治山に登り、広島城の場所を定めた。(広島市新史)。福島元長の屋敷が浅野藩・芸通藩史(1825年完成)にある絵地図に書き込まれている。どんな所にすんでいたのか?
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江戸期の芸通藩史の地図にある福島氏屋敷跡の八幡神社が地名だろう才ノ木に記載されている。いま才ノ木神社として古川(旧太田川)の面してあり、福島氏の祈願所であったという。「才ノ木」は「塞」、さえぎる神で境界を示している。キは城ではないだろうか。ここに福島氏の邸宅という城塞があったと、妄想すると、何だかどこかでみた戦国の映像がうかんでくる。

この場所は古川を渡って古市という昔の市場に賑わいを思わせる場所に渡る地点で、ここに屋敷、城塞があるってことは、川を渡る人から通行税をいただくtoolgateなのでは。福島大和守は渡し人・船頭さんの親方のだろうか。

「どこへ行くのよ、知らぬ土地だよ・・・」渡し場って心地よい響きがある。千葉・松戸の矢切は谷・ヤのオワリ・切、谷を出てきたところ。ここの矢口は谷・ヤの入口、これから谷を登る。追分は山へ分け入る。落合は下ってきて出会う。旅の言葉に憧れる。

古代山陽道・大宰府官道がこの才ノ木神社そばを抜けている。福島氏の神とともにいた官人としての姿が浮かんできた。古代の行政は神に寄り添っているように感じている。大和守という朝廷が下賜する官職の位が輝く。官道は府中町を経由して戸坂から古市、大町へ、とむかったという。

古代山陽道・大宰府官道が府中から戸坂へ入る場所に7,8世紀、条里制といわれる長方形が並ぶ田が拓かれた。そこに中山峠の谷から南へ流れる中山川を条里制の地割に直角に曲げ合わせる古代の川の付け替え工事の痕跡がある。JR芸備線の中山踏切を府中町へ向かう土手道がそれだ。

そう知ってここに立つと、なぜか時間の重層なんだと、感慨がある。今は広島駅への高速道路の工事で、美しかった土手桜並木もさっぱりとバッサリ伐採されてしまった。2018年の春が一つ失われた。
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踏切を越え川が屈折する所を右へ土手をくだる道が、古代山陽道でいまはJRの車両基地の新幹線車両がズラリ見えるのフェンスにぶつかる。道は基地のフェンスにそって南下し、バイク・自転車・人、通行可の長い長い陸橋を登り車両基地を東へ越える。ワクワクする長さ、眼下に新幹線車両、チビッコがいれば大喜びだろう。陸橋を下ると、幹線道路にのみこまれるが、府中本町の古代山陽道・大宰府官道になる古道へつづく。
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桜が伐採の土手は条里制時代の設計でその南北の角度が安芸郡系条理角度といわれ(祇園あたりの条里制の痕跡は佐伯系といい安芸系とは角度が異なる)。安芸系は中山峠を越えて、戸坂の条理制のラインに現れる。条里制は神社を基点に設計されている。その一つの基点が西の狐爪木神社・クルメギ、また一つが東の三宅神社の位置とされる。戸坂に安芸系の条理制の区分が残されている。
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中山峠の登り約1.6km標高差45mほぼ直線の古代官道仕様と、JR路線が平行してシートで覆われた路線の無機的な景色が、つらい。下った戸坂の町並みに入ると、道や水路が直角に交差している。それに引き換え西の狐爪木神社のあたりから道が交錯しはじめる。この対比は条里制の名残の景観となることを残しているのだろうか。古代の課税単位は「束・ツカ」で、戸坂にある“千束”地名はそんな遠い時間の豊かな収穫の景色を思わせる。農地の広がる景色があっただろう。
戸坂の西の町・くるめ木の並みの道は曲線に交錯している。鎮守の狐爪木神社のクルメギはクルメク、川が大きく蛇行する場所に付く地名との説明は納得させる。川が残した不規則な砂州にそって人々が寄り添って交錯する道になり、広がった町なのだろう。クルメについた「キ」は「城」でここの小山に中世の城があったと妄想したくなる。尾根の先っぽを切り落とし、城にする瀬戸内海の海賊たちを感じる。そばに八坂神社・祇園さんがあって、古い賑わいがあっただろう。路地の郵便局の景色も古風がある。

安芸大橋にもどる。ここに吊り橋があった記憶があって、昭和27年に架けられたとHPで見つけた。それまでここに渡船があったそうだ。条里制の安芸系角度も太田川を渡り、東原にその直角な道筋で痕跡を残している。
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安芸大橋のすこし川上で川を渡ったといわれる官道の直線の道の痕跡は600mもすると行き場を失う。条里制の痕跡もそこから北では失われる。
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1607年、洪水で東原と戸坂の間にあたらしい川が現れた。それまであった安芸角度の条里制は途切れることなく両岸に残った。土地が分断されたことの証が安芸系条里制が担っている。

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by forumhiroshima | 2018-02-20 13:17


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