こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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中世は生きている

太田川の名は戸河内・本郷の町並みが途切れる橋の上流の天神さんが鎮座する合流点から太田川放水路河口までだという。上流からみての左右で左岸右岸になる。上から目線にこの表現にはとまどう。太田川橋上流の細野神社から右岸(この表現では左岸が自然)に筒賀まであるルートが電源管理道路と整備され関連施設は右岸に設置されている。この道を見つけ走った40年以上前に初めて、サイクリングの何!を見つけた、ことは忘れられない。車は見られなく、道独り占めだった。解放感にあふれて走った。
古代の安芸郡も今の安佐北区も、川上への境界線は津都見(堤?)の八幡神社あたりにあるようだ。ここから川上が安芸太田町になる。川でも道でもない、この境界はどうして決まったのか、県・市・町などの境界の表示に出会うと何故か緊張感がわいてくるのはなぜか。
すこし下流の戻っての宇賀ダムに入る道を詰めると空の広い山村・高山で行き止まる。ここの安佐北区安佐町、境界が交錯する。そこ石段を登ると大歳神社の小祠がある。安佐北区は太田川を越えてここに境界がある。境界の印が社だろうか。

自転車で走っていて神社の名を見るための止まることはまずない。神社は地図で位置を特定するには多すぎて使いにくい。それでも、この電源道を幾度か行き交っているうちに、大歳神社の連続に不思議を感じていた。その始まりが川下からは、口田の大歳神社、そしてすこし距離をとっているが高山の小祠、その上流へ安芸太田町、戸河内・本郷にかけて、まさに乱立連続する。
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「地図をひろげてみていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名がでてくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名になって、ひとびとに周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者(法印さま)が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であった為にほかならない。
これらの点と線をたどってゆくと、崇拝対象となっている丸山・星峠などに達する。その山腹・山麓には本地である阿弥陀・観音・大日・蔵王などの諸仏菩薩・権現をまつる仏堂があり、八幡・熊野・十二神などの社祠がある。また山頂にいたるまでには、荒行をした法印滝・不動滝、精進落としの温泉(湯沢・湯の谷)がある。さらに仏は大地の精である金と考えられたから、山の名は金峯山・金山と呼ばれ、現実に砂金採取のあとがみられることも珍しくない。 山の民・川の民 井上鋭夫」作者は中世史の専門家。新潟大学でフィールドワークをかさねて、この記述がある。境界の在り様に近づける。

自転車ではあるとき、古道の勾配に痛めつけられる。何故にこのルートができたのか?知りたくなる。こんな道つくるか?。その道で山中に孤立する集落にでくわす。いま、なぜ、ここで生活を営むのか。法印様が道をつくり、開拓した人?どんな人?。

「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の依代の森をあちこちにのこして神の場・ニワとした。そのうち、紀国ぜんたいの神の場として、日前・国懸(ヒノクマクニカカス)神社の森をのこし、木綿・ゆうや幣・ヌサなどをかけて斎祀ったのである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」
和歌山市の古墳で覆いつくされた山際に鎮座する森の神々は住宅や学校に囲まれて窮屈そうだけど、負けてはいない存在感を示している。
「宮司は紀氏である。“紀”という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。 司馬遼太郎・街道をゆく32」

安芸太田氏に大歳神社を建立した栗栖氏はこの「紀氏」の流れにあるという。大歳神社を実際寺側に1311年に鎮座させたのが栗栖氏初代の高基でその系図に「紀氏」とある。(東皓傳・修道商学41-2)。紀氏は愛媛の河野氏の祖先越智氏と婚姻関係があり、周防国玖珂に古代住民リストに名が残る。

和歌山市の日前神社そばを走るわかやま電鉄貴志川線の路線に出雲の神々が点在して鎮座している。出雲の神々を背負って移動した人々の痕跡の路線は神社に導かれていて至る終点の貴志川駅はネコ駅長で人気。ネコ様に人々が集まる景色がここから始まった場所では、なかろうか、と思うほど人々があつまっている。
「街道をゆく32」にある根来寺へ向かった。貴志川にそって低い瓦屋根が軒先に顔をのぞかせる集落の中を北上していると、屋根の向こうに小高い木々の森が見えた。司馬さん流では、日前社に集められた残りの森?と、向かった。森を背負って「大歳神社」があった。長屋門の境内の森の中の小山に鎮座している。大歳神社はスサノオがお父さんで、そこかしこに鎮座しているお稲荷さんと兄弟で、親しみやすい神様だと思っていたが、ここは威厳がある。創建の由来に推古11年(603年)と古い。
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大歳神を貴志川側の森に鎮座させたのは紀男麻呂宿禰という人で欽明23年(574年)に新羅遠征の記録があり、また崇峻4年(596年)の九州遠征にも記録がある実在の人。和歌山から瀬戸内海を航行して半島へ九州へ活動した「紀氏」の痕跡が安芸太田町に残っていることは、不思議ではないと思える。

史実のある神様の由来の前に、上古(司馬さんによれば、記録がない時代、らしい)のモヤモヤとした古代妄想感に目いっぱいに浸るって時間はできそうもない、かと、思いきや、そうでもない記述があった。
伊勢神宮の摂社・伊雑宮・イザワノミヤに“天真名鶴・アマノマナズルが稲の穂をくわえて湿地に植えているのを見つけた倭姫が驚き伊左波登美に命じて収穫し、その地に伊雑宮を建立した。天真名鶴を毎年到来する大歳神として佐美長神社を建立し祀った。その大歳神、天真名鶴を招来して紀国の調月・ツカツキに大歳神社を建立し祀った。
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戸河内インターからR186で左へ向かうと巨木の銀杏を見る。筒賀神社は角川地名辞典で大歳神社とされる。旧筒賀村は天上山の北山麓に広がって、中央部に棚田の井仁の集落がある。そのすべてに大歳神社が鎮座する。
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大歳神社祭神・天真名鶴から「ツルガ---ツツガ」との説がある。井仁の森を“引き明けの森”とはロマンチックだ。太田川を越えると大箒山、月の子原、その地名群に法印様がチラチラする。
井仁の棚田の谷、北斜面の独立峰の姿がすっくと空を切る。どうしても聖なる山に思える、が。修験者たちの時間、中世の景色が、ここにありはしないか。
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天真名鶴の飛ぶつるがの里。モヤモヤとした古代妄想感なのか。
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by forumhiroshima | 2018-03-22 12:31

流れ星と月

矢口、月野瀬神社は弥生の集落にあって、平安末期にその記録があるという、その長い時間重なる境内の子供たちの遊び声がひびく。その神社の前にきっと、さかのぼった時間には湖があって、川湊があった、と妄想している。その湊にやってきた人々が出発した湊は加計の太田川と丁川との合流する所の元JR三段峡線(本郷線)の加計駅そばの月ヶ瀬ではないか!と名前繋がりで、重ねて妄想する。

今は廃線になった鉄道と船便との接点という重要な場所だ。そこは陸と川との接点を示している。加計の町並みに入るR433のトンネルを抜けてすぐの三叉路に大きな屋敷がある。鎌倉時代の隠岐国守護佐々木氏の末裔という加計の庄屋、鉄山師・隅屋の居宅。1661年からここにあるという。鎌倉幕府崩壊時、隠岐を離れてからの放浪の末の定着という。その屋敷南に旧JR加計駅、その川岸に月ヶ瀬の川湊とならんでいる。

加計の北部・温井ダムの西に大箒山という流れ星の名の山がある。その南山麓に月の子原があって、そこに宇宙人到来の泉岩という伝承地がある。もう宇宙がいっぱい。
ここに加計から走ったことがある。R191が消えR186と変わるループな不思議なポイントの加計山崎の信号交差点(R191は戸河内インターでまた現れる。不思議な訳は?)。ここは東西南北の交差点だと、加計はそういう場所だと、信号が点滅する。
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ここから西の滝山川の渓谷をたどる3.5kmの登坂ルートののち広々とした明るい盆地にでる。そこが月之子原だ。この坂、辛いような、そうでも無かったような印象。芸北の松原の虫木トンネルの上の残る東へ入る林道が大箒山を巻いてここに下り、加計の鉄山師・隅屋・佐々木家に向かう牛馬が行きかった道で、たたら鉄の運搬、たたら工夫たちの食料運搬の道だった。森の中の道は下草もなく、しっかりと踏み固められた感触が靴から伝わってきた。もちろん連れて入った相棒のMTBは荷物だったが、歴史を踏んでいる感慨がうれしかった。加計から牛馬の踏み跡を広げた滝山渓谷の道を登って月の子原に入る。そこには3.5km標高差300mのデーターで平均化することのできない「道」の色々がある。ここだけの「歌」があるのです。
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月の子原から南の戸河内へ向かって約6km、ストレートな、走ってはいるが、だた自転車に乗っかっている、ユルイ下り。誰も車もこないのびやかさで、暇でキョロキョロしていると、川向うの小高い丘の上にひょろりと散りかかったしだれ桜が見えた。橋を見つけて、花見にゆく。桜は1940年に「栗栖さん」が植樹した「与一野のしだれ桜」と説明版があった。
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HPで「与一野しだれ桜」を探して、HP..rogukameraで写真を見つけた。きれいな桜なのだと、おもった。が、散りかかったさくらの木を見上げて、発見!の感動は薄くならなかった。
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桜から戻って車道に入ってすぐに与一野大歳神社がある。平家物語の那須与一はこの地に到来し、ここで亡くなったから“与一野”との伝承もここにある。「エー色々そうなの」と景色を見まわすような伝承が、まるで遠野物語(遠い時間のある野の物語)。この野が古戦場であったことで、夜討野・ヨウチウノと無粋な説明もあるようだが、与一の墓まで用意されたロマンの前にはかすんでしまう。

加計・隅屋は、「たたら場2カ所,鍛冶屋11軒のほかに,酒造場4カ所を操業し,大坂通船2 艘,川船18艘,牛48匹,馬87匹を有し,土蔵数は36カ所,借家は489 にも江戸期にある大庄屋だった(芸藩通史)」。今も県内屈指の山林主だという。庭園・吉水園はこの家の別邸になる。 1814年に浅野藩から苗字帯刀を許され祖先の氏名・佐々木を名乗り、明治に“加計”に改名している。戦後加計学園を創建し、広島加計学園・英数学館、岡山理科大学を経営し、獣医学部を愛媛県今治に設置する。

与一野の道がストレートから川沿いに蛇行しだすとすぐに小さな分岐にでる。古道の雰囲気の右へ。すぐにトンネル、暗いね。出口にトンネルの上に古城・発坂城のあったとある。
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下りの左に奇妙といえるだろう、コンクリートで造られた藁屋根に卍マークの寺を見る。
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実際寺という。この寺の景色が広島から太田川を遡上して約60kmのポイント。与一野は寺領と呼ばれる地域の一部にある地名でこの寺の領地であった地名という。その重要さが感じられる。14世紀中葉創建とその歴史は古い。
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寺を過ぎてR191の合流地点から右へ少し走ると、右奥に大歳神社が見える。なぜかGoogle Mapには掲載されてないが、1311年創建のこの地域で最初の大歳神社。この神社を建立したのが、トンネル上の発坂城の主の栗栖氏初代。
「栗栖」が口田の弘住神社そばの小山へ長い石段の先にあった大歳神社と弘住神社の神主の栗栖正臣さんとが、クロスする。


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by forumhiroshima | 2018-03-19 10:44

川内町(河内郷)の迷路の道

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589年2月毛利輝元は吉田をたって20日に築城の場所の見立てに二葉山、牛田・新山、己斐・松山を視察、いまの場所に決定している。視察前に、案内人の安佐南区川内にあった福島大和守元長の屋敷に立ち寄っている。そののちに、福島家に敷物が不足しているようだと、調達し渡すよう申し送っている。(新修広島市史2)。福島家の質素な生活が思える。
一説として毛利家祖先の大江広元(胡町の胡子神社祭神)の「広」と“鍬はじめ・鍬入れ”の神事にも加わった福島元長の「島」を合わせて「広島」としたと紹介している。(新修広島市史2)

広島城築城から330年のち、浅野藩が作成した“芸藩通史”の添付された中筋・古市村地図に“福島宅址”と位置が記載されている。
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そして大正7年1909年の国土地理院地図に同じく“福島宅址”があった。
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この400年を超えて公式に記録される福島元長・宅址は普通じゃないな、いたく感じた。“広島の地名”に残された家名も伝承とはいえ、凄い。
「福島大和守元長は古代からの官人の家の人で“守”の位の称号をもつ、国人領主といわれ地元の豪族だという。安芸国守護に任命されていた武田氏(1300年ごろ銀山城建設)に被官し、1340年ころに守護代(現地知事ほどか)にも任命されている(東晧傅 修道大)。」銀山城落城・武田氏滅亡1541年には戦勝者大内氏から銀山城代に任命されている。そののち1555年厳島合戦の後に毛利元就の銀山城入城にも立ち会っていた。この時に毛利氏に所属している。元就はこの城を隠居所と考えていたといわれる(新修広島市史2)。その彼の太田川河口の情報は築城に欠かせない。
守護という行政長官に仕えた役人で官職名・大和守と代々名乗る彼の一族の太田川中流での長い戦乱を潜り抜け持続した時間は、これもすごい。

その領地に古代官道が通っていた。福島氏宅と地図に残っている場所の才ノ木神社が祈願所だといわれる。神社はその官道面していた。そばの堤に車道のすぐそばにわざわざ石段が残されているのは、古市の町中へと古川を渡る官道の痕跡ではないか。対岸の古市の小路を西へ入ると住宅に囲まれた江戸期の地図の山王社とある久保山神社前にでる。このあたりの迷路のような古道が氾濫原にのこった古代官道の痕跡だろうという(広島市文化財団)。福島宅址が才の木神社に隣接してあるように思う。古代安芸国佐伯郡と安芸郡の郡境界線がこの辺りにあった。才ノ木のサエは遮るのサエだ。福島氏は大内氏が武田氏を滅亡させたとき河内の領地を安堵されている。

1607年の太田川の氾濫で東の口田町と分離した。口田と中筋とは一帯だったことを知らなかった、おどろきだった。
口田の町をだから走ってみた。口田の弘住神社のHPに、兼務神社、のページがある。兼務とあるのは、ほかの神社の神主をされている、ということだろう。口田・月野瀬神社・新宮神社から、川内・温井八幡神社、東野・平堤神社、中筋・才ノ木神社、古市・久保山神社を兼務とあった。口田の町に大田川氾濫により新しい流路がうまれる前、までの古代からの行政区分にこの神社が全て含まれている。福島氏との関係を考えてしまう。弘住神社境内に廃止された小田の川渡しの石灯籠がモルタルで丁寧に修復されて、移設されていた。川により分かたれた向こう岸辺へのレクイエムか。
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月野瀬神社からJRのちいさな踏切をぬけて車が飛んでくる土手の車道にで安佐大橋を渡る。西橋つめの信号の交差点から右の土手の車道から分岐する小道へ。すぐ正面に中調子の胡神社の神額の鳥居。拝殿は恵比寿神社の神額、そんなことどうでもいいのだけど、気になる。
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「船乗りたちは太田庄の加計から一日で下ることができる。広島で夜を過ごせば加計まで次の日に帰れない。広島での荷下ろしを早く片付けて中調子までかえっておれば、次の日に加計まで帰れる。ということで中調子は帰路の宿泊地として栄えた。 (川内の生活1955.7広島大)」
そこの行きの荷、帰りの荷を求める人ができ胡子神社に市場が生まれる。市場に神様が鎮座する。品物をまずお供えし神様に預ける。神様のお供えになる品物なら間違えない、と求める人がいる。そこで御下がりにして頂く。ちょっと皇居への御用達の品物と似ている。御用達になるものなら、まちがいない。市場の信用の基準に自分ではない他者にあたる神様が勧請される。市場には必ず神社が鎮座する。それは品物から自分の所有権を抜いて、無縁にする。それも求める人とも無縁であって、交換することがシンプルになり、無限に拡大してゆける。気遣いは必要がない。品物に魂があった時代のことだが。

堤防の車道の下に平行してある小道を進むと、道に面してに民家が現れる。堤の車道より低い場所にある。「中調子の堤防の上には非農家が家並みをそろえているが、船乗りの帰航の宿泊地として栄えた(川内の生活1955.7広島大)」その古い堤防の痕跡だという
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。こういった場所は対岸の矢口はすが丘団地西のJR路線、堤防車道との狭い間の民家にも同じ痕跡を感じる。ここにも胡子神社があったが、それは今、新宮神社に移設されている。
すこし変わっている、ヘンだ、と思うこの場所には必ず訳があるものだ。(川内の生活1955.7広島大)の記述を読んでここに宿泊の集落があって、新設された堤防の下の横に残されたと理解で来た。川船の船頭さんが浮かんできた。ここで一服・・・。すぐそばに観音堂と鐘楼が古びて、用水路をまたぐようにある。昔の時が固定されてあった。
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堤防から川内へ入った。地図では結構方形に区分され道路網なのだが、(条理に区分された時代を感じた)。
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その区分の中は車道、路地、あぜ道、水路と交錯している。畑とビニールハウスと小さなプレハブの家、アパートも交錯している。
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とまどったが、すぐに、何処へすすんでも堤防にぶつかることに気づいた。迷ってもいい、余裕がでてきて、その分景色の細部が飛び込んでくる。農地に働く人影が多いのにビックリ。
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人のいる景色の中で一番が子供たち、次が農作業のひとたちを見るのがすきだ。景色に角がない。素直に心にとどいてきて、記憶にかわりやすい。その景色にこの町で出会った。

安佐南区区役所のまちめぐりのパンフレットを取り出して、福島大和守の墓所へ。
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HPに写真にあった住宅の中へ。驚いた、です、大きな墓標と五輪塔がない。まさに墓荒らしの行状。気分がわるくなった。
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思い直して、「中調子の明円寺は1506年行空の開基というが、1604年福島大和守の次男京進が行空に改変して開基したという」に直行した。もしやパンフにあったおおきな墓標がうつされていないか、と思った。そこで、見当たらなかった。
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とても、辛い気持ちが広がって、そこから急いで離れた。角のない景色が消えてゆく。
福島大和守元長は広島城完成前年の1597年亡くなっている。

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by forumhiroshima | 2018-03-10 10:33

古墳の間・一間道

口田町にある道しるべとポストの分岐の東の尾根の古墳から卑弥呼の三角縁神獣鏡と、リストバンド古代版の緑色凝灰岩の車輪石が発掘され、4世紀の歴史が現れている。卑弥呼、車輪石の車輪に過剰反応してしまう。(中小田1号古墳・国指定遺跡)

車輪石  「古墳に葬られた死者の副葬品として発見される。そして大型の古墳には数多く副葬された事例をみる。身を飾る装身具というだけでなく、死者の生前の地位を象徴していた。しかし、腕を通すにはあまりにも孔が小さいものもあるので実用でなく、権威を象徴する宝器であったとみる考えもある。昔、京都にお住まいのお公家さんの末裔の中にはこんな小さな孔でも通す細い手首の方もいたと、ある先生から教わった。仮に手首に通せたとしても、腕飾りとして持ち上げ続ける力がそのお公家さんにあったか疑問だから、やはり腕飾りとしては非実用の場合もあったのであろう。古い頃には碧玉(へきぎょく)主流の材質であったが、新しい時期になるとほとんどが緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)に替わった。(国立歴史民俗博物館)」
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古墳のある町、豊かさから生まれたにちがいないその痕跡を抱く景色を示すいささか自慢げな掲示板。その指す方向に姿をさがしても、多くは尾根の森の中に隠されている。なのに、その森を忘れていないことが多いようだ。
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山陰・石見、益田の山陰の海が遠望できる久城の町がある。季節の海と空をだけが見える水仙が咲く崖っぷちの道そばのスクモ古墳から車輪石が発掘されている。その「外形が環状のものは石釧(いしくしろ)」とよばれる。発掘品・クシロが町の名になっている。古墳埋葬品が地名?になっている。とても価値があったのだろう。胸張って“クシロの町”です。
車輪石はここ口田の町から大田川を50km遡上した河畔の筒賀の横路小谷古墳でも発掘された。四世紀が川でつながっている。「車輪石は、初期の近畿政権の手によって一元的につくられ、各地の首長に配布されたものと考えられる。ニッポニカ」

小田用水とJR路線に沿う道を北上する。右手2ツ目の踏切を渡って車道を横切り路地を道なりに緩やかな登りで中小田公園がみつかる。その西隣に祠を包み込む椎の木の中に古墳の入口が正面に開いている。そこにしめ縄が張られて、平野神社と大穴牟遅神とある神額がある。大国主の別名とされる神名だが、シンプルに古墳の穴の奥の祖先が神、それでいい、とおもった。いや、大穴牟遅神・オオナムチは祖先が眠る古墳なのだ。とても可愛らしい。子供たちはきっと、もぐりこみたくなるだろう。
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古墳のすぐ下の教円寺の墓所の石垣(古墳と今の墓地のセットは何処にもある)をまわって、車道を横切り小田用水の流れそばの道にもどって北上する口田小学校教材の「ふるさと口田」に、学校西にある杉崎山に大歳神社があって、そこに5世紀中葉の円墳に枕石を置いていて、多数の鉄製品が検出と記載がある。「枕石」?なに。北枕って言葉もあるな!。大分宇佐神宮は枕がご神体のひとつになっている。「枕石」になにかありそう。
そのお宮がなかなか見つからない。Google Mapにも記載がない。探して通ったはずの路地の民家の奥にはさまれた結構急坂の石段とその上の鳥居をやっと見つけた。
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神社は新しく拝殿が再建されたようだ。その後ろの石垣が丸い川原石で一部に造られている。
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どこか特別ななにかが雰囲気がただよう。「安佐南区まちめぐり」のパンフレットに“とんこ石組”とあった。大田川流域だけの石組みらしい。この情報が気になっている。古い鳥居に大歳神社との神額がかかっていた。(後日訪れた矢口の西願寺古墳の石組みが“とんこ組石”になっていた。モルタルもないころ、楕円の枕に似てる石で壁を組んでいた。)
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,もどって小田用水の道を北上する。農業用水には片側だけに道がつくことが多いようだ。田が掘りこんであるのは水面を用水の水面より下げるため。出た土砂は畑の土盛りや家の建設用地用に使用された。川は排水用、落とし水にと、設計されている。

用水道を進むと正面の森に鳥居、それも二種類の神社が現れる。
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祭神がきっと複数だったのだ。すぐそばにJR線路。上に高架で車道、騒音が降ってくる。「ふるさと口田」に背後の森には縄文、弥生の土器が見つかった太田川流域最大規模の前方後円墳だとあった。新しい高架の車道で削られたとある。本殿右後ろに巨木の杉に注連縄。そばをぬけて登ってみた。踏み跡のような木々の間の痕跡をたどって、尾根になる場所でビックリ、古墳のモニュメントが場違いに鎮座している。この古墳が神社のご神体だろう。ここからガラス玉が1731個もみつかっている。ここは縄文土器、弥生土器も見つかっている。数千年の時、ここは、きっといつも聖地だった。
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JR芸備線の路線を渡って車の高架くぐり進むと矢口川の河畔のお地蔵さんも座っている古びた小道にでる。この道が好きで幅1.8mほどで「一間道」と命名している。江戸期の村道のサイズが一間ほどだ。
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農協前の信号で車道を横切る。矢口川の集まっている三つの橋のそばの登りの小道へ。矢口川の左岸をたどる道は手すりが設置されて、小学校の通学路に整備されているのかもしれない。走りやすい、静か。
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橋にであってそこでUターンして川沿いに車道に変わった道を下ると新宮神社の御神木の銀杏が見えだす。祭神は大山祇命と「ふるさと口田」にあった。関ケ原戦い前年1599年の建立。
神社を抜けてから直進しカーブミラーの四つ角を右。この道が旧県道、ここに西の幹線車道へ移転した郵便局跡があった。この町の昔のメインストリート北上して広い車道の交差点の正面に見える幅一間の路地へ。また「一間道」が現れる。道に時間がとどまっている古さ。おばあさんの妖精がいます。その古さを証に道なりで幹線車道にでて、横断して三叉路に先ほどの路地の続き「一間道」を見つけられる。

「一間道」の右の石垣の一部が開けてその奥に神社を発見する。
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入口の石垣に神社由来がかかげてある。
「推古天皇は、河辺臣を安芸国に遣わして船を造らせた。舟材として霹靂・ヘキレキの木があったので伐ろうとした。そのときある人が、霹靂の木(雷神の宿る木)です。伐ってはなりません。雷電がおこり大雨になります。といった。河辺臣は、「木こりを害するなら、自分の身を傷つけよ」と祈った。雷鳴が轟いたが河辺臣は無事。雷神は小さな魚になった。この魚を木の枝で挟みとって焼いたところ雷もおさまり無事に船が造られた。そこで別雷神(加茂大明神)を祀り、この地を大明地と称した」
河辺臣が安芸国で造船をしたところを船建築材の場所・古代船木郷にあてている。古代安芸国船木郷は三原市本郷町船木、呉市三津田、安芸高田市高宮町船木が比定される。本郷町船木には霹靂神社が二つ鎮座している。高宮町船木は江川に2kmほどの場所、呉市はいまも造船のまち。本郷町船木は沼田川河畔にある。
ここが造船の場所だっただろうか。
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境内は広くその端にスタジイの木(椎木)が二本そそりたっている。雷のおちた木・霹靂の木には神威がやどるという。ここ月野瀬神社に霹靂の木があったのだ・・・ろうか。境内の椎木の祖先だろうか。そうそう、二葉里の鶴羽神社はその昔、椎木八幡社とよばれたっけ。
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本殿背景の森から弥生時代後期の村がみつかっている。すぐ上の山陽道の高架があるとは思えないくらい静かだ。すこし高い境内に社務所がある、閉鎖された南向き空間で、空が広がり明るい。とても落ち着ける。弥生の時間が感じられるから、なのか。

神社のすぐそばから南へ一間道と交差する道がコンクリートで固められた溝を渡る。そこに流れるのが絵坂川。大阪の江坂の淀川(神崎川)の氾濫原の地名を連想する。月野瀬神社由来にここは大明地とあった。大明池、イケではないのか。
※太田川河川の試錐資料(ボーリング)を検すると新流路・いまの太田川に厚い粘土層があり水流の停滞によるもので、河跡湖の推積層を示す(広島の農村1995)

この町の古墳、古跡は海抜15mほどに点在している。太田川の氾濫のデーターで標高10mまでだという。広島城は標高6mにある。それでは江戸期に氾濫に洗われた。平成22年7月にJR安芸矢口駅標高9mが水没している。
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縄文・弥生の人々の川沿いの氾濫原のあった湖を古墳時代の人々が大明池とよんだのでは。ここに矢口に流れ込む川の流れは西へ東原・中筋の北岸を進み古市で本流に流れ込んだのだろうか。
「一間道」は標高10mほどで、この氾濫原の岸の道ではないだろうか。
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1371年大宰府に赴任する室町幕府の九州探題・今川了俊が三原市船木そばを通過したの紀行文「みちゆきぶり」で残している。
「日が暮れてしまってから、河面に舟をうかべると、夕闇のなかの山の端のかげもおぼつかないのに、ほたるがかすかに飛びちがって、なんとなく心細い。そこへ松明をとぼしてやってくる人々の火かげが川の波にキラキラとうつろって、まるで鵜飼いでもしているようだ」
この矢口の湖が存在したら?の景色昔を妄想させてくれる。

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by forumhiroshima | 2018-03-03 12:34


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