こひちろうの独り言 |
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![]() ニエとは神さまへ稲をそなえることだけど,物部氏は三つのうち一つの瓶をここに祀ったとある。ただ,このニエ姫さまはこの池が水源の静間川の加工,大田市土江にもあるのだそうで,そこも楽しみにしている。土江はツチエと読むのだけど,もとはニエでは?という。水源と河口におなじ神さまがある。 ニエ姫は若者との恋のはて,その若者が蛇であったことから入水したという。そのとき着物が湖面にひろがって,浮布という名になった。と。万葉集にこの池を詠ったものがあって,そこでは浮沼池と歌われる。 静間川の中央に一つの瓶をまつる物部神社があって,池のすぐそばにある池田の集落に瓶をまつる高田八幡宮がある。三瓶ともこの静間川の流域になる。弥生時代の遺跡が水源にも河口にもみつかっている。 地名で字とくくられる地域は同じ水源をもっているのだそうで,三瓶の名をのこした人々はこの静間川流域にいたようだ。上代,ここが一つの国であって,それ以前にいた人々の神様・佐比売さまを祭っていたのだろうか?。ここの佐比売さまは八幡さまに合祀されているのだそうだ。 池からの田んぼの間を池田までたどる里道は,伸びやかで,里がうつくしい。池田の集落は,寂れてはいるけど,とざされてしまってはいない。とびらは開いている。 ここから峠をこえて小屋原へくだった。 小屋原は道が登りにはいると,民家は建てこんで,道も細くなった。老人たちが畑や道路にでて働いていて,道端にはたくさんのサルビアがさいている。その花壇は各自の管理らしく名札がつけられていた。地図では道が田の字のようになって,方向を失ってしまった。 おじいさんに神社の場所をたずねる。そこのお寺の角をひだり。そこは三叉路だから,一番左へ。佐比売神社ですか?いや三瓶神社だ。 地図にはお寺のマークがない。神社への道はわかったけど,やはり三叉路も地図にない。ママヨ!と。すぐにお寺は見つかる。祠程度のものかと,地図にない寺を考えていたので,りっぱなお寺。国土地理院もこんなことあるのか!とよろこんだ。が三叉路ではない。ちがう?。ありました。路地が角にはいってます。すぐにおおきな鳥居が田んぼの中にたっている。三瓶山神社。 カンバンに神社の由来がある。すぐにのぞきこんで佐比売の文字をさがした。「元佐比売神社 ・・明治八年従来の佐比売山が三瓶山となったので,三瓶山神社と改称・・オオクニヌシとスクナヒコナと三神を祭り・・」 神社は杉とイチョウの大木のなか丘にある。背景にちいさな円錐の権現山。その背景に男三瓶山。神社をかこむ田んぼの水路は勢いよく水が走って,サワサワといるさいほど。小さな集落の水路も急流。この流れはと地図を追うと,大田市市街地にはいる三瓶川の支流になっている。 集落のりっぱな三叉路から小屋原温泉への山道へ。この温泉は鉱泉水だそうで,シャワシャワと泡がとりつくのだそうだ。入ってみたいけど,きょうは三瓶温泉。 峠をこえるとおおきな三叉路から,また里道へ。ここにズバリ佐比売神社。境内にあがると,隣の民家から伯母さまという感じの老夫人がでてこられた。まあ,自転車で!出雲も石見も神社そばの民家は必ず神主さんといってもいい。きっとご婦人も神社に関係されてるはず。ここで,三瓶山周辺の佐比売神社のリストありませんか?と,いいたかった。だけど,のみこんだ。自力でさがしてみよう。 ここから小豆原へ。ここもちいさな峠越え。縄文杉の埋没林がみつかって,今それが公園になっている。公園そばに,埋没していた杉の根っこが河原にでていたのを展示されてる。その河原が三瓶川。 静間川と三瓶川の勢いがちがうと,おもった。この三瓶川流域の人々は国譲りしなければいけなかった出雲の人々なんだろうか?河流,大田市にでるとそこに南八幡神社がある。そこを諏訪という。鎌倉時代までは八幡宮とはいってなかった?? 追加・「パタゴニアのアンダーレポート」 外気は9度の表示を車道でみました。ウインドブレーカーとアンダー,ウールと化繊のキャプリーン。薄着。でも下りも寒く感じてません。埋没林公園にはいって,風を受けなくなると,一気に汗がでます。暑いのでしょうか?老化してきて,発汗作用がアルツハイマーになってるのでしょうか。公園のトイレでウールを下にキャプリーンをその上にと着替えました。このほうが風合いがいいようです。でも5度以下にでもならなと,実力発揮しないでしょうね。 #
by forumhiroshima
| 2006-11-24 15:33
三瓶山は出雲風土記には佐比売山とよばれ、有名な国引きの綱をくくった杭としてでてくる。そんな印象深い山の名がどうして三瓶という、また不思議な名前になったのか?
同じ山でも東西南北のちがった方向から、ちがう名があることは知られているのだけど、また時代でその名がかわることも多いのだそうだけど、三瓶山でのその名の変化については、いろいろ説があるようだ。 サヒメがサンベと変わったという音の変化の説は、さしもの出雲弁でもそうは発音できないだろう。 ソシモリ(韓国)にオオゲツヒメという、おおきなお尻ではなくて、穀物の女神が悪い神様に切り殺された。そのとき馬や蚕や大豆、稲、麦が体からでてきて、それを末の子、サヒメが赤い雁にのって、まず益田市の比礼振山にやってきて、そしてここに落ち着いて、種をまき開拓したという神話がある。三瓶山に赤雁山がつらなって、多根という集落もある。サヒメ山の名の由来になる。サヒメ山とよばれていたのは江戸時代までともいって、明治になって三瓶山がひろまったと。 三瓶山の西、太田市の郊外に物部神社がある。ここの神様で物部氏の祖先・ウマシマジ様は大和朝廷の軍事部門の神様で国内を平定するために播磨・丹波と渡って、ここ石見を平定した。そこで巌瓶を据えて祝賀会をおこなったようだ。いまもこの瓶で神酒をつくる神事がつづいているという。マジ、ウマクいったことだろう。うまい酒もできたのだろう。そこで同じような瓶二つを山に据えた。一つは浮布池に。もうひとつは三瓶谷に。それから三瓶山となった。朝廷の記録では8世紀初頭には三瓶山とある。この時期出雲風土記ではサヒメ山なんだけど。 武力でこの土地を平定した神様が、なんだか無理やりに山の名を変えたような印象があって、それは、たくさんの人たちも感じることのようで、出雲国譲りにこの物部の軍が圧力をかけていたと考えている人は多いようだ。 江戸時代の記録に物部神社の一瓶社とおなじ神様が三瓶山周辺に八社あるとあって、このうち三瓶谷いまの池田の神様は八幡神社に合祀されているとあった。 「この八社はいずれも三瓶山を仰ぎ見る湧く水の地で、ヤツモトと称し、その周辺から開けていったといわれている。それを裏付ける遺跡もいくつかあり、そのうちの一つは弥生時代前期のもので、農耕とのかかわがみられる。日本の神々7」 湧く水がこんこんと流れて、そこから晩秋の三瓶山がみえる。そんなヤツモトをいろいろしらべてみたのだけど、資料は手に入らなかった。そこで地図に片端から神社マークに○。これをたどって、ヒメにご対面だと。・・・それにしてもえらく登ったり、下ったり。 季節はやっと晩秋・初冬。この季節、着るものに気遣いがいる。登り暑くて、下り冷え込み。しっかり着込むと蒸れてバテバテ。寒いと走れない。 十年以上になるのか、すっかり信頼しているアンダーがある。着替え二枚でほんと毎日使ってきたけど、ほころびもないのだ。 メーカーはパナゴニア。ここは化学繊維のアイテム・フリースをウエアーにしたメーカーで、アンダーはキャプリーン。そこから天然素材のウールのアンダーができたとセロトーレの店長のテッチャンがみせてくれた。 古い話だけど、植村直巳さんが最後になったマッキンレーに入ったとき、彼は初めて化繊のアンダーを使ったらしい。いつもはウールのラクダだった。この化繊のアンダーを提供したのは日本のメーカーでスポンサーでもあった。このことを大学の被服の専門の先生が疑問視して、化繊とウールを重ねて着用した場合の状態をしらべて、もしかしたら化繊のアンダーとインナーのウールかアウターの皮では氷結するか?と。これは直巳さんが見つからないと分からない話なんだけど。限界状況っていろいろ難しいのだな。 パタゴニアが天然素材は・・ないだろう!と、店長にふざけていたら、一度着てみろ!!と、モニターおおせつかった。すっごくいい値段で自転車やでは、とっても手が出ない。が、むかし自転車ウエアーはぜったいにウールだった。・・・ウレシー!! ![]() さて、直巳さんと同じにアンダー・化繊、インナー・ウールでいくか!なんて。ここは暖かい晩秋の日本です。結果報告いたします。セロトーレ様!! #
by forumhiroshima
| 2006-11-23 18:18
石見・浜田から東の丘陵を走り出す。
集落は一塊から零れ落ちたように民家も少なく,手元の地図にかかれた人家のマークが多すぎると感じる。コースは浜田自動車道にそっていて,車道をブーンと移動する車をみても,その道路を利用するには,大回りするしかない,そんな土地を走ってみた。 平安,鎌倉と時代がすぎて南北朝の時代,石見は狭い河岸丘陵や小河川の氾濫域を開発した小規模の領主が台頭する。これが南北朝内乱の過程では,激しい戦闘を各地で繰り広げることになる。島根県の歴史散歩より。 先日,宇津井いう数軒の集落を通がかったとき,大木の林で屋敷をかこんでいる民家にであった。門のある庭の手前に石碑があって,なにやら,南北朝の時代に,南か北はわからないけど,忠臣であったとある。それが気になっていた。 そこには,戦前計画されていた三次ー江津?の鉄道建設の跡も残っていて,それがいまの自動車道と平行している。どちらもここでは無用の長物?? その南北朝時代の集落へ自動車道をくぐる集落・佐野町・田原へ走った。新しい自動車道を走るのをきらって,古道をうねうねと下ると広い田んぼのひろがる谷間にでた。その谷をつめると正面におおきなエノキが根元にちいさな祠をしたがえて,そのそばにシキミが一本。 高野山で,水をはった鉢にシキミの葉がうかべてあって,これはハスの花びらです。年中ではハスは入手できませんから,シキミで代用しています。といわれたことがあった。 以前,金城の丸原で,昔の古埋葬地には大木・祠そしてシキミの三点セットと知って,それからそんな風景に二度であって,すぐにピーンと,老化した頭でもくる。 大木の後の斜面に登って見ると,はたして,すっかり整理されて,いくつかの塊となっているが墓標をみつけた。斜面を回って民家を迂回すると,そこに桜が咲いている。周囲は,紅葉している。 古埋葬地という,名からの印象では,暗くて,寒くて,物陰で,と思うのだけど,これまで,自分が認定!!?した場所はどこも,明るくて,温かい。 「元来僧侶のいるところは寺院の宿坊であった。・・寺を維持するためには多くの経費が必要であり,したがって寺領をもたねばならぬ。・・寺の檀家になりうるものは,そうした寺領を寄進した人々であった。死にあたってそうした寺の僧侶から回向せられるものは檀家に限られていた。他の者の死はいたってミジメであった。・・身分あるものの墓は土をもりあげ,その上に五輪塔なども建てってある。しかしその他のものの死体は棺に入れたまま放置せられたり,筵の上によこたえたたまま捨てられたものもある。それを犬があさり,カラスがついばんでいる。《餓鬼創始絵巻》宮本常一」 「そうした悲惨なものの為に供養し,その死体を処置したのは,聖たちであった。・・村ではそういった聖たちのためにささやかな住居をつくって提供した。これが庵とか寮とか呼ばれるものである。宮本常一」 この聖たちは,大声で念仏をとなえ,美しい鐘の音をもとめて,また念仏を唱えるとき,恍惚に踊ったという。念仏を唱えることを教えた一遍は,人の死にあたって念仏を唱えさえすれば,紫雲がたなびき,ハスの花がふってくると。 #
by forumhiroshima
| 2006-11-16 17:59
「いや遠に,里は離りぬ,いや高に,山も越え来ぬ」万葉集に柿本人麻呂の歌。
江津の東。背景になる島の星山から,廃道になっている道が江の川の河畔千金という集落に落ちている。その河畔に古代の幹線道にあった駅舎の江西駅跡といわれる場所に小さな祠があった。この江西から西へ古代山陰道は次の伊甘・イカンまでは島の星山の西斜面から波子へとつながって,ちょうど多鳩神社の参道を経由したように想像した。 万葉集に土地の名がはいった歌で山陰は因幡に1,出雲が10,石見が25.隠岐,伯耆,丹波にはない。山陰地方では都まで29日かかったという石見が多いのは,もちろん柿本人麻呂による。島の星山にある人麻呂神社は,戦後ここに開拓民として入った人たちが建立したもので,新しい。この江津では新しくつくる神社も人麻呂神社ということ。人麻呂だいすきな人たちだとおもう。 古代島の星山をめぐるように幹線道があったのだったら,ここに人たちの営みがあったといえないだろうか。今もこの山麓東には池が山中に点在している。その周辺にはもう民家はみられないのだけど。 江の川の河畔の川平からこの山麓東を走ると,たくさんの石仏と,まるで道路標識のように一定間隔で祠にであった。平は比良,あの黄泉の比良坂,死後至る場所だと聞いた。石見海浜公園のある波子にある津門神社・ツトで多鳩神社が真東にあって,海岸から春分・秋分の太陽がそこから登ってくるという配置に,この平とが関わりあるように,また点在する石仏や祠がその土地の在り様を感じさせる。 この国で古代の名は,男は彦,女は姫。これは日子,日女だという。太陽をお天道様と信仰する人々は東から再生してのぼってくる太陽に,命の復活,ときには人生の再生をいのったのだろう。だから東の土地に平・比良という場所をさだめたのかもしれない。日の登る場所に。 死後墓標を立てる習慣がなかった時代,その死後をたくす場所が決められていたようで,そこを後谷と呼ぶのだそうで,この東の山麓にいまの地図でもいくつか見つけられる。そうしてそこにりっぱな寺院がたっている。 その場所は走った限り,陽射しをいっぱいにうける明るい谷間だった。 川戸から跡市を回って,波子の神社へついたとき,その三角形の場所にみな”ト”がつくと,思いついた。トは入口出口の戸,門にちがいない。と,あったってるこどうか?よりも,確信の思いがひろがっていた。 波子から約14kmは海岸にそって走ってみた。工場が点在し,その道には砂があがって,快適とはとてもいえない。海はもう荒涼と白く波立っていて,古代,「天ざかるひな」な,でも人麻呂が歌い上げてくれた土地は,再生する装置をいまに温存している。 そうトライアングルの中に人麻呂も入浴したと地元で確信している有福の湯へ行くしかないのだ。 #
by forumhiroshima
| 2006-11-11 16:19
石見の神様を調べていると,とっても御利益のありそうな神さまを見つけた。
石見海浜公園とかアクアスとかですっかり,この広島で知られてきた海岸が波子の海岸。波子は土師という古くは古墳のハニワをつくった焼き物で歴史に残っている古代の氏のハジから付けられたのでは・・といわれ,海水浴より,砂浜の砂の下に広がる粘土をとれる海岸に定着した人たちで,石見の焼き物のおおもとになってる。 そんな石見の風土と密着しての生業の人たちの集落は,江津ではめずらしい漁港をもつ。その漁港を風からまもるように突き出ている岬に津門神社がある。 この境内に合祀されている薗妙現早脚神社におられる神様はこの岬から遠望できる出雲の日御碕神社へ一日で行きかえりできるという。 プロトンごっこで必死に走っている(いなのもいるけど!!こいつが速い)みなさんに,お守りでも売ってないかとたずねてみた。 公園の一部に境内が長い階段をもってある。その森は古くから人手がはいっていないそうで,保護林に指定されて,そのカンバンがそこかしこにある。いまも大切にされている様子。そして境内には蓋がされているけど,おおきな井戸。森と水とは神社の必須アイテム。それがそろってる。 保護林では遠望はできなくて,漁港へおりる参道の石段から浜から突き出た防波堤にでてみた。妙にあたたかい風の海の向うには,神様が疾走した日御碕はみえなかった。 手持ちの地図には日御碕まではカバーしていない。ふと,地図に赤くマークした東の山中の多鳩神社をみつけた。この神社と多鳩神社とを結ぶと,まさに東西になる。 日御碕神社は出雲の古代の中心であった国府をとおり,信州の諏訪神社,そして常陸の鹿島神社とを結ぶ直線にある。これは,よく太陽のルートとして春分・秋分の日の出,日没のラインになる。出雲は鹿島神社の神様,タケミカズチと諏訪神社の神様でオオクニヌシの息子,タケミナカタの争いののち,タケミナカタは信州・諏訪に落ち,タケミカズチの勝利で国譲りとなった。この主要な神様がおなじラインに鎮座している。このラインには出雲大社ははいらないのだが,大社と伊勢神宮をむすんだラインに奈良の宮古の京極殿がある。 ちかくの場所では,宮島の弥山と神社本殿と大鳥居と地御前神社と五日市の極楽寺が一つのラインにある。 どうも神様を祀るのに,森と水ではなくて,おおきな設計図をもっていたような時代がある。 自分も以前は御来光をお正月に弥山で拝んでいた。昔の人たちはもっとしょちゅう御来光や日没をみていたから,かと。でもそんな小さな経験の積み重ねでは,こんなおおきな設計図はかけない。この設計図を自然暦という。 日御碕神社と津門神社をむすんでみた。正確かどうか,いまいちなんだけど,このラインは日御碕から冬至の日没が津守神社の岬,津守神社からは日御碕が夏至の日の出のラインではないかと・・。 こんな知識は,当然思いつくわけなくて,参考文献・「神社の系譜・なぜそこにあるのか」宮元建次から。 この本のあとがきに「古代。日置部という人々が東西線,あるいは南北線をもちいて村を定め,」とある。日置という地名は山口にも石見にもある。出雲風土記では大社の管理人として記載されている。そういえば,総理大臣の故郷は山口の日置だった。 壮大なライン。これがいいのかどうか?。自分としては水と森にちいさくたっている祠の神様をもっとみつけたいのだけど。 ![]() #
by forumhiroshima
| 2006-11-06 17:58
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