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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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笠で隠されるレガリア

玉造稲荷神社から東に約4kmにある深江にもイクメイリヒコの痕跡が残っていた。そこにある深江稲荷神社に大和から笠縫という笠造りの人々を大和からイクメイリヒコが移住させた伝承があって、境内にある深江郷土資料館に今も菅細工保存会が菅笠造りを伝承する活動が続けてられている。館内に菅が育成されている。伝承の熱気がある。

「古代2000年前より連綿と伝わる菅細工】菅細工保存会HP(http://www.fukae-suge-zaiku.jp/)には。
大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(かさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」には、深江の菅笠が献納されてきました。菅笠のことは、万葉集などの歌集にも記されています。押し照る浪速菅笠置き古し 後は誰が着ん 笠ならなくに (万葉集巻十一・二八一九)奈良時代の927年に完成した法令全般の施行細目の延喜式に「菅蓋一具・骨の材料は摂津国より笠縫氏参りてつくれり」とあります。」
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今昔マップ(https://ktgis.net/kjmapw/index.html)は国土地理院発行の年代が違う地図が比較できるアプリです。深江の明治41年の地図を見ると、河内国と摂津国の分岐にあり摂津国に所属して見える。Googleマップで大阪市という検索をすると、明治の国境線がいまの行政区分と同じに細い破線で示されてる。国境を示す破線は深江の集落が摂津領内で、国境が海岸線になることから、島だったと思える。淀川、大和川などの氾濫原の摂津と開拓されていた河内国の境は満潮線を境とされた。境とされた場所には守り神や遮る神が招来される。
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「笠の下に神いますという思想はオリエントの発して東方にひろまった。仏として釈迦を描くことははじめタブーとされた。絵には菩提樹の枝に笠が吊るされ、その下の空白に釈迦がいますものとされた。のち仏像が作られ始めると、上につるされる天蓋・テンガイが笠を示すものになった。仏塔の先端や後の五重塔などは笠を重ねたもので、その真下に仏陀の骨が収められた。仏教伝来以前の弥生時代にも、古代日本でもみられ、奈良・佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡には、神殿と現人神である王の高屋には竿に付けた笠が立てられ、そこに神がいますことの標識とされた。また天皇即位の大嘗祭で、現人神となった新天皇には侍従が笠をさしかける。女王卑弥呼の国・鳥越憲三郎」
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イクメイリヒコのお父さんのミマキイリヒコの時、それまで宮殿で奉斎されていた天照大神の鏡とスサノオから献上された天叢雲剣がミマキイリヒコの娘のトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に移動し祀られた。その場所は三輪山山麓の檜原神社だといわれる。(大阪・深江にはここから移住したのか、と思われる。)天皇のレガリア・神器を笠に入れ隠すかのようだ。宮殿にはレガリアの代わりに「鏡を鋳、剣を造らしめて、以て護りの御シルシとす。故事拾遺」とレプリカができた。では本物はというと、トヨスキイリヒメはその安置場所を探して、京都・宮津の籠神社、奈良・桜井の予喜天満宮、和歌山・日前国懸神社、岡山・伊勢神社と旅され、「吾、日足りぬ」とイクメイリヒコの娘、姪のヤマトヒメに「事依サシ奉り」された。イリ一族の宮殿内宗教改革は激しいものに感じる。ヤマトヒメは、のち90年94か所かけてレガリアを奉斎する場を探し最終に伊勢神宮を創建し奉斎されたという(ウイクペディア・元伊勢)。のちに東征にでる甥のヤマトタケルにヤマトヒメが天叢雲剣を渡されている。いまも熱田神宮にあり伊勢神宮には帰っていない。レプリカは源平合戦で安徳天皇と海の藻屑となったのだが、鏡は回収された。失った天叢雲剣の探索は厳島神社の神官たちに命令されたが、発見されなく、新しいレプリカが伊勢神宮から献上された。

日本書紀に、スサノオが高天原を追放される姿は蓑と笠をまとってであったとある。この姿で屋内に入ってはならないともある。男性が屋内で外套や帽子をつけているのに違和感があるのだが、脱いで入るエチケットである時代に生きた証かもしれない。どこかに笠に霊的なものを感じるとこが帽子にかぶさっているのだろうか。笠が隠すもので、身構える姿勢に思える。兵隊さんも警察官も帽子をとらない。
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# by forumhiroshima | 2021-06-15 15:51

イクメイリヒコの痕跡-2

奈良三条大路の西端のイクメイリヒコ御陵から生駒山の山頂のテレビ塔が見える。
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ここからの展望は正方向西にあるのか、と方位が気になったりした。東大寺のお水取り行の二月堂からは生駒山が奈良盆地の大半のエリアから見えるだろうな、ってことがわかる。
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平たく長い山稜に盛り上がった、そう目立たないピークだが、他に競う頂もなく、間違いなく見つけられる優れたランドマーク、振り返ればそこにいつも生駒山!。ランドマークはこうでなきゃ、な。そしてその向こう、その先への興味がひきだされてくる。「山の彼方」へ「知らない町」へ旅したくなる。ランドマークは引き込ませる力をもっている。まして生駒山地は河内の国と大和の国との国境でもある。その尾根上にまるで万里の長城のような信貴生駒スカイライン(自動車専用道)が通っている。向こうに「知らない国」が広がっている。国境を進入する敵はここで越えることで、判別されるのもこの尾根だ。

「イコマ」は邪馬台国の卑弥呼(242から248年ごろ死去)を支えた官職の中に見られる「伊支馬・イキマ」ではと、魏志倭人伝の記載から明治時代の京都大学の歴史学者、内藤湖南が提唱した。”コナン”の推理なんでス。2世紀のはなしなんだ。生駒山地はイクメイリヒコの領地とされて、住吉大社に寄進されたことでもこの地名由来になるという。イクメイリヒコ・垂仁天皇と、お父さんのミマキイリヒコイクメ・崇神天皇とに「イリ」がついていて、大和に西から進出したことで「イリ」が呼ばれるという。このこと。古事記ではミマキイリヒコは168才、イコマイリヒコは153才の長寿だとある。凄いです。この長寿から架空とされても、架空じゃない。人の業績には死後におこなわれたものがある。それを「滅後の真筆」というそうだ。「イリ」は八重山列島の西表島・イリオモテシマのイリを連想させる。お日様が海に沈むから「いり」なのか、西からやってきた人たちがいたから「イリ」ってことか。

九州・日向を出立した神武天皇は東征して生駒山の西の孔舎衙・クサカエに上陸「イリ」の伝承だが、その地は今の生駒山頂の北のふもとの、日下・クサカだとされる。生駒山頂の少し北になる。が、上町台地北端に上陸を想定されてもいる。明治時代の神武天皇上陸地点推定図があって、そこに古代難波の宮になるあたりが上陸地となっている(明治時代の東京帝国大学の学術論文)。
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ここに、ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が上町台地北端に生国魂神社(地元ではいくだまさん。日本書紀に掲載)を建立の伝承ある。この地に「イリ」している。生国魂神社の祭神は生島神足島神とされ、いまも宮中のお祭りされているという。(大和巌男・生国魂神社)

生国魂神社には「難波の宮でナニワの海岸に生まれ出る砂州の島そのものにむかって、儀式が生島御巫・イクシマカンナギという巫女がいた。新しい天皇が誕生すると、用意した箱に新しい御衣を入れ、渚で箱を開き誕生しようとする島々の霊力を呼び込み、その霊力を衣に付着させる。眼前に波立つ広々とした海に次々と生まれる八十島に生成する宇宙を巫女たちは見てた。(大阪アースダイバー・中沢新一)」

ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が新しく国造りに生国魂神社の神を鎮座させた伝承は生き生きとして感じさせる。地名から上陸地点とされる日下は厳しい斜度の尾根の下で、とても上陸地点には選べない、と思った。上町台地の北端には先住の生国魂の神そばに古代前期後期の難波宮が建設、のち浄土真宗の蓮如が石山本願寺を、そして秀吉、家康と大阪城建設の地の歴史が重ねられる。まさに地霊・ゲニウスロキの地、最強のパワースポットに違いない。なのだが、日下にはそれらしき神社も見当たらないのだが、5世紀の蒙古系12才(どうしてわかったの?)が発掘された日下遺跡がある。「江上波夫の騎馬民族国家」がチラチラします。

生国魂神社の古来の鎮座地てもある秀吉の大阪城の三の丸があった場所に玉造稲荷神社が鎮座(北緯34.40.41・ほぼ同じ北緯)している。神社HPでは神武天皇到来から約600年のちのBC12年垂仁天皇・イクメイリヒコ創建の伝承とあり、下照姫命奉斎。神社HPの由来では「当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。」とあるのだ。ここから約2kmの南東に深江稲荷神社がある。神社HPには「深江稲荷神社は垂仁天皇・イクメイリヒコの御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請した」とここにもイクメイリヒコがあらわれる。

# by forumhiroshima | 2021-06-05 15:04

垂仁天皇・イクメイリヒコの痕跡-1

垂仁天皇・イクメイリヒコなどと、ずっと昔のことですが、今も、なんです。


春日大社(768年造営)と御蓋山(春日山)と生駒の峰がほぼ同じ北緯N34.40.50にPCのアプリでは並んでいる(国土地理院のデジタル地図)。春日大社の位置に、それも東西正方向の決定の時代にはデジタル地図による北緯を使えるはずはないのだから、ただ、ただ同じ北緯位置だと驚いている。
さらに、この三地点のライン中央あたりの奈良市西部、平城京西端に垂仁天皇・イクメイリヒコ御陵がある。古墳の中心点がどこなのかは、指定しているウイクペディアの表示N34.40.48を見ると、やはりほぼライン上にある。ここの緯度の2秒の差は約50mほどの距離だ。イクメと生駒によく似ている。大阪、住吉大社のに残る胆駒神南備山本記・平安時代に垂仁天皇・イクメイリヒコが生駒山地と山麓一帯を寄進したとあり、住吉神は天皇の天下泰平を約したとある。(日本の神々4)生駒山山頂のほぼ東の山麓に生駒大社が北緯N34.40.41に鎮座している。
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東西の正方位N34.40.50に並ぶということの正確さはPC上で知りえたことで、春日大社造営時の平安時代に認識されていたか?は予想もつかない。この東西ラインは偶然でしかない、と思っていた。楽しい妄想でよかった。それを一変させる話に出会ったのは松岡正剛の[白川静・漢字の世界観]の柿本朝臣人麻呂の作れる歌」だった。

「東の野/ヒムカシノノ に、炎/カギロイ の立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」柿本人麻呂。阿騎野にて歌う。阿騎野冬狩歌。
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「阿騎野にやどった翌朝、日の出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪に降った野にも写っている。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている。斉藤茂吉の解説」であるといわれてましたそうです。が、「この阿騎野へは、孫である軽皇子をつれて祖母、持統天皇が冬狩りを計画した。その訳は軽皇子の父で天皇を後継するこであった草壁皇子の死去により、幼年であった軽皇子を天皇の後継にすることであった。急逝した父のもつ天皇霊を呼び起こし、その霊が生命的な活動へとなる状態で後継者に摂受されるとなることから、もっともその摂受ができる日に、霊幽の世界に働きかけ、それを感応する。その為の冬狩りであった。白川静」こう白川静/漢字の世界観・松岡正剛で紹介されています。
「この冬狩の日は東に太陽が輝きはじめ、そのとき西に月がかたぶく光景がなければならないし、生命が復活へと活動はじめる、冬の冬至でなければならない。実はその日が確定されているのです。ずばり持統天皇6年。西暦692年12月31日の午前5時50分ごろ、すくなくてもその一週間前後。この計算は東京天文台がおこなっています。白川静」

この白川静の解説から692年ごろには、冬至の日、その日の日の出、そして同じ時間の西に月が沈むことの天文時間が理解されて、かつ旅を予定されていたことになる。その旅先の安騎野には人麻呂像と万葉公園が作られていた。
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そばには美しい阿紀神社がある。
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東西に開けた空、神社そばの流れが手水舎になっていて、手ぬぐいが風にゆれている。
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この安騎野には神武天皇が熊野から到来したという場所であり、道案内の八咫烏神社は3km東に鎮座する。大海人皇子(のち天武天皇)鵜野讃良(のち持統天皇)夫妻が吉野に隠棲から挙兵したときここを通過している。古代人にとって余程の重視される場所だったのだろう。

白川静は古代人たちには「神隠れるというように、神は常に隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在を知られるようになる」のだと言っている。朝日は御蓋山の山頂から登り、生駒山の山頂に落ちるその日を知ろうとすること、を影向とした。それを指示したのがイクマイリヒコなのだ、いや、したのだ、とこのラインは言っているように思った。生駒と御蓋山という自然の造営物が同じ北緯に並ぶことに合わせて御陵を造っているのだから。北緯は北極星の高度角の観測で知られる。同じ角度なら同じ北緯にある。宇宙を探すこと、が神の存在につながるように、思えるのだが。

春分と秋分の日を確定して正東西の方位を決定してこそ、神を尋ねることができた。明け方は「彼ハ誰・カワタレ」夕暮れは「誰ソ彼・タソカレ」の「彼」は神なのかも。

この日に似た「朔旦冬至」の日がある。冬至の日、それは太陽がもっとも弱体し、翌日から復活しはじめる日。その日が月の朔日・新月に当たり明日からやはり復活する日のことで旧暦11月1日と冬至が重なること。月と太陽が同時に復活する日。20年に一度のことらしい。ただ記録上に見られるのは861年だというから、692年の安騎野にそれを予見され実行された旅の日程は凄い。

冬至に近い今年2021.12/31の阿騎神社で日の出日の入りの方位と月の出月の入りの方位、また時刻を”日の出、日の入り 時刻方位マップ”のアプリで検索したもの。月の出、入りも付けている。方位はうまく合致するのだが、月の入りは昼間になるようだ。柿本人麻呂マジックとしか、言えない。
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正方位東西については、冬の星座だがオリオン座の三ツ星は東の空に現れる。それも縦にならんで登場する。そして最初の出てきた星の位置は真東だ。観測点を固定して、東の空の何処から現れるかを決めれば、正東西方位になる。その位置に日の出がある日は春分・秋分の朝である。
「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 柿本人麻呂」この歌を白川静はどう解説するのだろうか。


# by forumhiroshima | 2021-05-25 12:02

影向線


広島城位置決定には牛田・見立山から宮島弥山山頂に結んだライン、影向線を使っているという。影向・ヨウゴウ?って、なに。

東大寺のお水取り、修二会の法会・修行に僧侶が退出するまで二月堂の堂内で過ごしたことがある。
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僧侶たちの読経の声を聴き、堂内での激しく動く影を、燈明の、また時に堂内で燃やされる松明の光が映しだされるのを障子越しに聞き、見ていた。
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1250年も欠かさずつづけられた修行に、奈良時代から現在に至る間の東大寺や 二月堂に関係した人々、或いは修二会に参籠した僧侶等の名前が記された「東大寺上院修中過去帳」をその人たちの冥福を祈るために特に読み上げられる。「”鎌倉時代、承元年間(1207-1211)に修二会中、集慶(じゅうけい) という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で「青衣(しょうえ)の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。(東大寺HP)”」 青衣の女人は現在も読み上げられている。その声を聞きたくて、夜半まで狭い堂内でうずくまっていた。

僧侶たちの激しい動作の影と燃やされる松明の火とに包まれてるうちに、青衣の女人の読み上げを聞き逃したらしい。その夜の法会が終わると僧侶たちが松明に囲まれて退堂していってハタと気づいた。いつの間に終わってしまった。熱っぽくなった頭を持て余して過ごしているうちに、ブラブラと浮見堂の堤あたりにきていた。春日大社の背後のまだ暗い御蓋山・ミカサヤマが、朝日の中で明るくなってきた春日山連山を背景に影として浮き上がって現れる。
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御蓋山の三笠山とも春日山とも呼ばれる円錐形の山影が神がまさに今降臨するかに見せる景色は神々しい。青衣の女人の読経を聞き逃しの無念さはこの景色に吹き飛ばされた。浮き上がる御蓋山。これが神の「影向」だろうか。そう思えて、お水取りの御蔭です。などとつぶやいた。いや、仏様は影向でなく来迎だろう、などともつぶやいて、明るさが増して御蓋山の影が薄れてゆくのを見ていた。青衣の女人が影向にあらわれること、そして消え失せたことがあったのだろう、と御影山に重ねていた。このような景色にひどく惹かれる。

春日の神の御蓋山への降臨の「鹿島神立影図」絵図を思い出していた。神は白い鹿に乗り、常陸からここに鎮座しているが、すでに地主の榎本の神がおられた。御蓋山に鎮座をもくろんでいた鹿島の武鬢槌神に土地を乗っ取られ、今は本殿の南側の塀の外の祠小さくおられるのだという。
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白鹿にのられた神を常陸から案内したのは神官の中臣時風、秀行と氏名も記録されていて、追い出し占拠する神のとても人間臭い話が由来である。
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平城京遷都が710年。その約50年のち春日大社創建。都城の道はすでに碁盤の目状に区画されており、三条大路の東端から春日大社の位置は少し南に寄っていて、御蓋山山頂の真西N34.40.53の北緯にある。山頂の本宮神社の北緯と同じ。東西に置かれた三条大路の東端にある一の鳥居。ここから東に向かう直線で伸びる参道が南方向に100m曲がって二の鳥居から本殿にはいる。奈良・平城京の道の設計に外れて、わざに本殿の位置が御蓋山の真西に置かれたことが気になる。大社は三条大路と四条大路の間を四分割する小路にも該当していない。この都の設計に御影山は考慮されてなかった。
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このぐらいの誤差は仕方ない、とはいえないのだ。古代の都城、難波の宮、板葺の宮(明日香村)、藤原京、平城京、平安京の市街地道路の設計は南北の子午線を基準とされていて、誤差は約21分から23分西へ振っている(京都学園大学・臼井正)という。1000m北へ進んで右へ7mずれる程度の誤差だという。すさまじく精度がいい。神仏は意味なく配置されることはない。

南北線ばかりか東西線の北緯も、御蓋山山頂、春日大社から、平城京のはずれ西ノ京にある垂仁天皇陵、その西の生駒山山頂、そして大阪の前期難波宮址と東西間約30kmは北緯N34.40に立地していて、御蓋山にのぼった春分・秋分の太陽は、おのおのの正午に真上を通過する。東西に違わず並ぶ、御陵、山、春日大社とをこれほどの同じ北緯は、なぜ平城京道路設計とのずれたのだろうか。三条大路はなぜ春日大社の参道にならなかったのだろうか。

平城京誕生の半世紀の後、生駒山と御蓋山とのあたらしいラインが平城京の都城の由来にくりこまれ、神の影向と降臨を現実のものとする作為があったのではないだろうか。宇宙を感じさせる太陽の動きが東の聖山から西の聖山へと説明されれば人は引き込まれるにちがいなかっただろう。その中間点の御陵・垂仁天皇の名はイクメイリヒコ。生駒ににていませんか。このラインに古代の天皇をも引きこむ、そんな計算、だれができたのだろうか。

生駒山山頂のラインは賑やかだ。山頂のほぼ直下の麓の枚岡神社(N34.40.10)から、春日大社の祭神の天児屋命と姫神が春日大社に遷祀されている。山頂ほぼ北の麓、枚岡神社から1.5km北に神武天皇と戦った物部の神・饒速日尊・ニギハヤヒを祀る石切神社(N34.40.56)、その神武天皇上陸地で地元の長髄彦に敗北した戦場、孔舎衛坂・クサカエサカ(N34.41.38)が1.6km北だ。古代神話が重層している。瀬戸内海を東に航行する船の舳先の展望に難波宮と生駒山山頂との見通しが重なると、そこが平清盛の大輪田の泊(N34.40.15)がある。神が指し示す、まさに”神の戸”だろう。(神戸の地名は生田神社の支配地のをいう、となってるが、生田神社は元は新幹線新神戸あたりに鎮座していた。港神戸は海と陸との交流の戸では?が美しい)

古代難波宮の北隣になる織田信長と戦った浄土真宗・蓮如の石山本願寺がのち秀吉の大阪城で、この東西ラインに近世も乗りかかってる。秀吉は正・東西南北で真四角、方丈に大阪船場の町を建設している。
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丹下健三プランの千里が丘万博会場のメイン道路の子午線は秀吉大阪城の豊国神社に重なってある。丹下健三も凄い!。

ラテン語の、Genius loci、ゲニウス・ロキを建築家の鈴木博之は。「姿形なくどこかに漂っている精気のごときもの。ある土地から引き出される霊感とか、土地に結び付いた連想、あるいは土地が持つ可能性といった概念だという。”東京の地霊ゲニウス・ロキ”」影向・ヨウコウ、来迎・ライゴウの起きるってそんな感じがする。それをラテン語でいわれると、なんとなく判った気分になれる。経度緯度という宇宙観は影向という響きを強く感じさせる。それは時の流れに竿さして渦をおこす磐のように響させる。。

夜目、遠目、笠の内、とは女性が誰しも美しい!時がある。アンブレラじゃない笠!。田植えの早乙女、花笠の乙女、阿波踊りの鳥追い笠の乙女、笠を付けることにのより、彼女たちは神の巫女になる。海の厳島神社も海の御笠浜に鎮座地している。
















# by forumhiroshima | 2021-04-20 14:57

広島築城、都市伝説

広島市立図書館の二階の郷土資料室の北向きの窓の正面に広島城天守閣がみえる。書庫の棚に自治体発刊の歴史書だけでなく、市井の郷土史家たちの労作も並んで、それらは興味深い。その一つの最も厚い「新広島城下町 郷土研究会 1974年第7集」を棚から引き出した。その挿絵のページに広島城位置を決定したという二本のラインが簡単な地図上に引かれて、それが交差する場所が眼前の天守閣の位置になった、とある。
広島築城、都市伝説_d0089494_14440631.jpg
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「広島城を築城するさい、毛利輝元(元就の孫)は先ず牛田・新山に登り、厳島の頂上に一線を画き、次に二葉山と己斐松山(旭山神社)に登って一線を引いて、その交差する点を、天守閣の位置を定めた。それで新山を一名「見立山」という。△・・・影向線の訳 厳島神社のご鎮座縁起に「御山を影向地と定めて宮を建つことなり」という。影向線は甲午線とも書き、方位学、家相学でいう表、裏鬼門の意。それで広島城の天守閣を定めるにあたり、安芸国の一宮たる厳島神社を中心に影向線上に建てられたもの。」と説明されている。
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これって、マジ!広島誕生の都市伝説!誕生ではないか。と引き込まれた。とは思ったのだが、影向線とは甲午線とか、郷土史家たちのファンタジーの世界の言語が理解できない。

書庫の棚にある、大正時代に広島市から発刊された廣島市史に、広島城が建設される前の大田川の河口の五箇庄と呼ばれていた砂州の地図が掲載されている。その古地図上に二本線を想像してみた。

1961年刊行の新修広島市史・昭和33年広島市発行に、広島城の1958年再建の際の天守閣の地質調査報告書を見つけた。そこに天守閣の地盤の図が掲載されている。岩礁や小高い場所があったのでなく、人工的に砂州に小石を積み上げ盛土され、石垣が組まれたとある。地盤が強固な場所などの土木条件による選定でなく、特別の何か、ここでなくてはいけない、ないか、があったのではないか、マジカルな選択と決定を思わせる。郷土史家たちのいう「影向線」とやらが、その謎の選択の正体なのだろうか。

築城位置の決定の逆方向で確かめることにした。ラインの実態を地図に落として確認してみようと、己斐松山の旭山神社をマークして天守閣を経由する直線を、東方面へ伸ばしてみた。尾長山の山頂にピッタリと張り付く。宮島の弥山山頂の三角点からやはり天守閣を経由するラインを引くと、牛田の見立山の尾根に到達した。単なる都市伝説ではないようだ。計測され設計されている。広島城域の設計図の存在を確信した。毛利輝元とその一族の築城への決意が都市伝説伝として郷土史家たちに見出されている。
(地図は国土地理院の数値地図で表示しているGISソフトウエアー、カシミール3D山旅を使用。ラインの見通し(プロフィールマップ)、距離、方位も計測できる。)

己斐、旭山神社は毛利元就が1555年厳島合戦の際に必勝祈願をした由来がある。そして勝利した。神社ホームページに元就が祈願した朝をもって、旭山神社とそれまでの己斐八幡神社から改名されたという。築城主の毛利輝元は父毛利降元を11歳で亡くし、家督を継承するが、祖父元就が彼を後見している。毛利家由来の場所で、小高い丘のある見通しの良さで選ばれたのであろうか。二葉山は江戸時代に浅野藩により改名された呼び名で、矢賀山と呼ばれたと矢賀郷土史にある(矢賀郷土史・山田隆夫)。山の名は見る麓の名で呼ばれることが多いようで複数の名があることもある。矢賀の西側地域が尾長である。この山頂には広島空港の無線電波灯台が残っていえ、さきの戦争に高射砲も置かれたといわれる展望の良い場所だ。円錐形の山頂は麓の聖光寺の山門をくぐると正面に仰ぎ見れ、この寺に輝元一行が城地選定に(1589.2.20)最初に集まった場所で、築城設計ライン一端がここと、この景観で納得でした。この寺で城域を広島と命名し由来があって、山門に広島山と額が掲げてある。

宮島の弥山山頂から天守閣を通過するラインは、牛田、見立山の尾根の東端を通過する。グーグルマップにある見立山のマーク位置には広島市が設置した展望掲示板があるが、そことは40m程東へよってラインは通過している。尾根にはちがいないが見立山といえるピークは尾根にhみあたらない。が、尾根の麓に日本陸軍の設置した見立山の記念塔があったりして見立山の地名は結構周知されている様子だ。尾根の掲示板から広島城天守閣は建物にかくれて見えない。ただ天守閣南に隣接する県立総合体育館の丸い大屋根を宮島からのラインが地図では通過しており、その北側の天守閣への想像で弥山へのラインの展望が確認できる。見立山から宮島・弥山間21kmは天守閣の設置点には遠すぎると思うのだが。元就が宮島合戦での上陸地点と言われる包ケ浦をラインは通っている。マジカルと言えばマジカル、かな?

地図上でかなりの精度で、確かに2つのラインは交差している。これが一番マジカルなんだ。



















# by forumhiroshima | 2021-04-10 14:45


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