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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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飛鳥の瓦蘇我氏の玉造

奈良の町へ入る機会には、元興寺に立ち寄る。飛鳥から718年、平城京に移築されてる。後に衰退の一途で広い境内に住居が侵入し、今の奈良町になった。奈良町に住む友人に古代の不法占拠?とはなしたら、町の住人はみな寺の信者なのだと、話していた。境内の本堂・禅室 の屋根瓦は飛鳥時代創建当時のものだといい、青いグレーや鈍色のオレンジのモザイク模様は、596年以来のものになる。鵤の里・法隆寺の再建が670年だから、80年も古い。古代飛鳥がここにあると思うとなにやら感慨深い。まるで不思議の国へとアリスが入り込んだウサギの穴を気分は滑っている。奈良っていいな。
飛鳥の瓦蘇我氏の玉造_d0089494_09554906.jpg
もっとウサギの穴に潜り込んでみよう。
御影から笠に囚われて、その影をつくる太陽の方位、正位東西を追っかけると、暗がりの峠に行き着いた。摂津の笠縫の稲荷神社も古代の時間へと引っ込んくる。さらに西へ、次に現れたのが摂津玉造の玉造稲荷神社だ。輝く「珠」に御影の影が揺らめいている。それもこれも古代の天皇イクメイリヒコ由来の時代とされ、そして道が生まれてくる。

元興寺は古代豪族の蘇我氏の菩提寺として建立とされているが、その時代に僧侶はいなかった。まったく新しく寺院と僧侶が用意されることになった。
日本書紀に(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」ウイクペディア。(法興寺は元興寺の前の名。)寺は596年に完成。寺院と僧侶全てが渡来してきている。
蘇我馬子は自宅に仏を安置していたといわれるが、僧侶なき、いきなり仏教なんです。いきなり五重塔なんです。本尊の丈六仏像が鞍作鳥(止利)のよりできたのが609年だろうといわれている。それにしても寺院完成後18年後なんです。

1956-57年に行われた飛鳥の法興寺発掘調査で「刹柱(塔の心柱)」が掘り出された。「出土品は、挂甲(上古のよろいの一種)、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。金銅(銅に金メッキ)製品 - 耳環23点以上、歩揺146点以上、鍔付半球形金具2点、円形打出金具14点、杏葉形打出金具28点以上、鈴7点。玉類 - ガラス小玉、ヒスイ製勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀製空玉、銀製山梔玉、赤瑪瑙製丸玉、ガラス製トンボ玉、その他 - 金延板7点、金粒1点、銀延板5点、銀粒7点、雲母片、琥珀片、蓋石片(凝灰岩製)。後日、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることが奈良文化財研究所の調査で判明し、同研究所の2017年版紀要で調査結果が公表された。これらの小玉は直径1.5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。ウイクペディア。」
飛鳥の瓦蘇我氏の玉造_d0089494_09564989.jpg
これほどの宝物を造っただろう場所が蘇我氏の本拠地に発掘調査されている。
飛鳥の瓦蘇我氏の玉造_d0089494_09562948.jpg
「曽我町の歴史より」
曽我町の西北にある宗我都比古神社は古く、弥生中期の遺跡群の中にあり、半世紀前頃までは田畑に土器片や石器が見られました。曽我の地名は8代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(タケウチノスクネ)の第三子・石川宿禰が“蘇我(そが)“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。宗我坐宗我都比古神社(ソガニマスソガツヒコジンジャ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子(~626年)の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。

曽我遺跡(そがいせき)ウイクペディア
宗我都比古神社そばの曽我遺跡(そがいせき)は5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの集落であったことが判明しています。滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方から持ち込まれ、玉類が生産されていました。玉類の完成品・未製品、さらには玉を研ぐための砥石、玉に穴をあけるための舞錐状(まいきりじょう)木製品などといった、玉造りに関わる多量の遺物が出土しています。ここで作られた玉類は勾玉、管玉、丸玉、切子玉、小玉など多くの種類が確認されています。
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この遺跡についてこんな話をブログでみつけた。
「朝鮮半島では、鉄が非常によく利用されています。日本では、鉄が必要で、その鉄を直接輸入するためにに勾玉をなどどんどん作って、ある種の支払い手段として、バーター貿易で取引が行われた。今で言えばドルとか円の代わりに通貨の支払い手段として、掘り出したものを大量生産して、それを朝鮮半島に支払って鉄の武器とかを輸入していたようだと言うことが分かっております。それから非常に興味を持ったのは、蘇我一族と言うのは、天皇家に楯突した大変な連中だったのか、よく調べましたら、そうではなく、むしろ蘇我一族は、天皇家の忠実な保護者であったと思われます。曽我遺跡に埋蔵されている勾玉管玉類はトラックに20台分世界的な量です。石の数は億です。それで、勾玉管玉完成品は、1300万個、気狂いじみた数です。それが末だに眠っている訳です。」曽我遺跡の勾玉~貴石の話いろいろ~民谷 晴亮

司馬遼太郎の「竹ノ内街道こそ・街道をゆく夜話」
・・・飛鳥期は蘇我氏の時代と言ってよく、その蘇我氏はこの山麓(二上山、葛城山)に盤踞し、この赤土の官道をにぎっていた。この官道ははるかに難波ノ津に通じ、難波ノ津には韓カラとも唐とも知れぬ蕃船が入津し、異国の神はきらきらしといわれた仏像その他の文物を運んできては、揚陸した。・・・この景色に、きわめて奇妙なことながら、異国がかぶさるようになった。たとえば長安というだけで、胸がときめくのは、強引な言葉をつかうとすれば、日本人の史的遺伝といっていい。・・・

奈良、元興寺の瓦に、蕃船の入港する飛鳥時代の景色がかぶさっている。



















# by forumhiroshima | 2021-07-09 09:58

暗越奈良街道 クラゴエナラ街道

伊勢神宮へ関西の人々は「御蔭参り」を江戸時代に盛んに始めた。イクメイリヒコの娘のヤマトヒメが大和・笠縫村から放浪のごとき旅の末に伊勢に鎮座、伊勢神宮創建の伝承。そこへの大阪からの参拝の旅n出発地がイクメイリヒコ創建の玉造稲荷神社とされ、同じくイクメイリヒコ創建の大和笠縫村からの移住由来の摂津笠縫村の深江稲荷神社で参拝者は笠を求めた。大阪から奈良・猿沢池までの伊勢参りのルートが暗越奈良街道とよばれる。

暗峠・クラガリと聞いたときには奇妙な地名におどろいた。そうして、峠はとても狭いが今も国道308であることに引き込まれた。その道が、イクメイリヒコとヤマトイメの伝承、そして御蓋山・生駒山・上町台地の東西正方位ラインをなぞっている暗越奈良街道は生駒山をこの峠で奈良へと抜ける。玉造稲荷神社で伊勢参りの地図が有料で頒布されている。いまも伊勢参りはここをスタートに盛んに行われている。
(ネットにいくつかの伊勢参りのコースガイドがあり、そのうちの「暗越から伊勢本街道をくhttp://kaz.my.coocan.jp/isemap-kouraibashi-1.htm]は実に子細に案内されている。)

玉造稲荷神社のHPに「当神社は垂仁天皇・イクメイリヒコ18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ」は、邪馬台国の卑弥呼活躍の300年も前の神話になる。イクメイリヒコの宮殿は纏向珠城宮・マキムクノタマキの宮で奈良盆地の南東の三輪山の北、山の辺の道に近く、跡碑がある。玉造と珠城と連想ゲームに誘われる場所だ。この宮殿と玉造のお宮とを生駒山越えで結ぶ道が上代にあったのだろうか、と。神話と思っていてもですが、ね。大阪の古代の地形を工事現場を尋ね地層をしらべ古代地理を想定した「大阪平野のおいたち 1986年発行」に5世紀の古地形図がある。
暗越奈良街道  クラゴエナラ街道_d0089494_14011124.jpg
想定された地形図をのぞき込むと妄想が膨らんでくる。瀬戸内海を西から淡路島と本土との海峡・明石海峡を抜けると、海の水はしょっぱくなくなる。川が流れ込んでいる。定住の希の味がする。主面には小高い岬が南の山地から伸びており、岬の向の東の空に高い尾根の山影が重なって現れる。岬を回り川にさかのぼると、葦原に縁どられた広い干潟に入る。魚が飛び跳ねる。水はとても澄んでいて、ここに「イル」人々は、静かな湖面と取り巻く森との美しさに包み込まれただろう。後にここを「ナニワ」とよばれた。お酒のアテをサカナ、酒菜という。酒の「ナ」がいくらでもあるから、魚の庭と、つまり「ナニワ」になった?。大和の大和川上流、山城の桂、賀茂川、河内の大和川下流、和泉の石川、摂津の安威、猪名川の水は近江、琵琶湖の水を含めてすべてがナニワに流れ込む、すべて、がです。水が良ければ魚が集まる。アテがよければ美味い清酒も、と、清酒は摂津・伊丹で誕生した。「イリ」して、到達した人々の上陸の歓喜の歌が聞こえてくるようだ。

この地理図に古代暗越街道の想定図が加えられた図(大阪アースダイバー・中沢新一)に平安時代に作られた「延喜式」の神社でリストアップされた神社を記入してみると、河内瑚はすでに陸地化していたとみられ、生駒山から上町台地への連絡は5世紀ごろにはできたとある(古代日本の空間・足利健亮)。日本書紀に「猪甘津に為橋す。即ち其ところを小橋という」とある小橋がJR玉造の周辺にのこる小橋地名にかかわっているとすれば、暗越街道は橋も渡れる古くからの存在なんだろう。小橋の南にも鶴橋の地名も古い。ここには古く橋も架けられていたと、されていいのだろう。「イリ」して河内瑚の渚を生駒山ピークをランドマークに大和へと進んだちがいなかろう。
暗越奈良街道  クラゴエナラ街道_d0089494_14013290.jpg
5~6世紀には人々の営みが集まってくると、神の鎮座を願い神社を創建される。渡来しここに「イリ」した人々は祖先を同じくする人たちごとに集住しその祖先を祀る。玉造稲荷神社創建にある紀元前12年は「滅後の真筆」なんだろうが、「イリ」した伝承を自分たちのアイデンティティを、イクメイリヒコとヤマトヒメの日本書紀記載を根拠に、「やはり、祖先はイリしたのだ」と確信したのだろう。「滅後の真筆」は日本書紀の神々を人々によって、今によみがえり正当化される。加えて御蓋山と生駒山と上町台地が東西正方位にあるという地形の持つ神威はイクメイリヒコ御陵位置をそこに置くことで一層の「イリ」の人々に与えられた神威の根拠になる。「滅後の真筆」は「紀元前12年」が真実である!と筆を今に走らせる。春分・秋分の朝、そのラインの正当性を太陽が必ず示してくれるのだから。
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広島市市街地に東西正方位は見つけられない。それは広島の都市設計の街並み方丈の区分で道は置かれているが、東北に約18°に傾いだ天守閣と大手町通りのラインが基本線になっていると言われる。ゆえ東西の春分・秋分の朝日が差し込む道はない。が、シツコクさがすと、道・ルートではないが発見があった、カナ?。毛利元就の厳島合戦戦勝祈願の己斐、旭山神社の真東の府中甲越峠の中腹、人家もない車道そばに出雲大社広島祠祖霊社がたしか1980年代にきなり出現した。。毛利家は出雲大社の宮司家千家の祖先天穂日命・アメノホヒの14世・野見宿祢・ノミノクスネを祖先とする。だから?などと、おもうことは「滅後の真筆」に囚われている自覚はある。野見宿祢はイクメイリヒコの命により大和・当摩の蹴速と角力をして勝利している。角力の元祖だ。ここも、イクメイリヒコ!!!!!もう「滅後の真筆」病ですね。

暗越奈良街道はGooglmapに路面表示されている区間もある。Google mapを追うと街道の案内になる。Google mapで街道の出発点の高麗橋は秀吉の大阪城大手道。こっから秀吉大阪城天守が正面に現れる場所で、この道は周囲の方丈の街並みから外れて南に傾いでいる。明治んはここに大阪道路元標がおかれてて、最初に国道308起点とされた。ここからいったん北浜、八軒屋浜と北上し、八軒家浜スタートの「くまのかいどう」の石碑前を南に入る熊野街道に重なる。大阪市街の中心で榎木の大木に小さな祠手前を左折で奈良方面に東進し暗峠に向かう。著名な熊野街道・熊野古道のGooglmapの記載はないようだ。大阪人のこの街道重視をGooglは見切ったのかも?だって「イリ」の末裔たちが今も健在かもしれないから。

暗峠へ大阪市内から向かうなら、Googleの暗越奈良街道を追わずに玉造稲荷神社の北の阪神高速13号東大阪線の高架下を東進し、大阪外環状線の高架を見つけるとけいはんな線石切駅で高架を南に潜り、すぐに東へ。目前の生駒山に向かい近鉄奈良線の踏切をぬけ線路に沿って南下すれば峠入口が見つかる。このルートが今の国道308になっている。兎に角、生駒山へ走ればいい。体力温存してさあ、峠に。
旅先の町でランドマークを早く見つける!とその町での自分の位置が見つかる。

もっとも急坂、いや激坂な暗峠が今も国道308に指定されており、大阪や周辺のロードバイク乗りには周知されている。
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道がコンクリート舗装になったころの1984年ロスアンゼルスオリンピックの自転車4km団抜きの選手たちの練習コースでこの登りを教えてもらった。平気にトラックで上り下りしてた。下りのブレーキングでリヤタイヤの摩耗がはげしすぎるのが、過激な斜度よりもご不満な様子がおかしかった。関西の実業団の選手でチームは構成されていた。オリンピックの結果はたしか10位だったかな。
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NHKチャリダー出演の猪野学さんが最強激坂と「坂バカ奮闘記https://cyclist.sanspo.com/317157」で紹介している。コースを詳しく紹介してくれているHPは、「最大斜度41%、暗峠へロードバイクでhttps://jitensha-hoken.jp/blog/2018/03/kuragaritouge/」がほのぼのっとした紹介記事で、わかりやすさで行ってみようか?と身近に感じさせてくれる。チャレンジは、ヤメるのがお勧めですが。往路の登坂も半端ないが、復路下りは、もう行けません、が三十数年前の自分の昔々の感想。だから峠から東へ下る奈良市街地までの田舎道は凄い住宅造成地もありだが、田舎道が続いていて走りやすい。下りなのに目線が上がる。奈良の空は、すっごく広い!。低山に囲まれた奈良盆地へ綺麗な雲を見ながらのラクチン下りを満喫できる。

「ヤマトは国のまほろば たたなづく青垣山隠れる ヤマトうるわし」って思い出したりしましたね。
暗越奈良街道  クラゴエナラ街道_d0089494_14035374.jpg

# by forumhiroshima | 2021-06-20 14:04

笠で隠されるレガリア

玉造稲荷神社から東に約4kmにある深江にもイクメイリヒコの痕跡が残っていた。そこにある深江稲荷神社に大和から笠縫という笠造りの人々を大和からイクメイリヒコが移住させた伝承があって、境内にある深江郷土資料館に今も菅細工保存会が菅笠造りを伝承する活動が続けてられている。館内に菅が育成されている。伝承の熱気がある。

「古代2000年前より連綿と伝わる菅細工】菅細工保存会HP(http://www.fukae-suge-zaiku.jp/)には。
大阪の上町台地の東側に位置する大阪市東成区の深江周辺は低湿地帯で、古代から良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でした。その菅を求めて第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(かさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした笠縫一族が深江の地に移住し、菅笠を作り出したのが深江の菅細工の始まりだと伝えられています。そのため、当時の深江は、笠縫島といわれるようになりました。この一族は代々菅笠を作ることを生業とし、社殿を造り替える20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇が即位する際の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」には、深江の菅笠が献納されてきました。菅笠のことは、万葉集などの歌集にも記されています。押し照る浪速菅笠置き古し 後は誰が着ん 笠ならなくに (万葉集巻十一・二八一九)奈良時代の927年に完成した法令全般の施行細目の延喜式に「菅蓋一具・骨の材料は摂津国より笠縫氏参りてつくれり」とあります。」
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今昔マップ(https://ktgis.net/kjmapw/index.html)は国土地理院発行の年代が違う地図が比較できるアプリです。深江の明治41年の地図を見ると、河内国と摂津国の分岐にあり摂津国に所属して見える。Googleマップで大阪市という検索をすると、明治の国境線がいまの行政区分と同じに細い破線で示されてる。国境を示す破線は深江の集落が摂津領内で、国境が海岸線になることから、島だったと思える。淀川、大和川などの氾濫原の摂津と開拓されていた河内国の境は満潮線を境とされた。境とされた場所には守り神や遮る神が招来される。
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「笠の下に神いますという思想はオリエントの発して東方にひろまった。仏として釈迦を描くことははじめタブーとされた。絵には菩提樹の枝に笠が吊るされ、その下の空白に釈迦がいますものとされた。のち仏像が作られ始めると、上につるされる天蓋・テンガイが笠を示すものになった。仏塔の先端や後の五重塔などは笠を重ねたもので、その真下に仏陀の骨が収められた。仏教伝来以前の弥生時代にも、古代日本でもみられ、奈良・佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡には、神殿と現人神である王の高屋には竿に付けた笠が立てられ、そこに神がいますことの標識とされた。また天皇即位の大嘗祭で、現人神となった新天皇には侍従が笠をさしかける。女王卑弥呼の国・鳥越憲三郎」
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イクメイリヒコのお父さんのミマキイリヒコの時、それまで宮殿で奉斎されていた天照大神の鏡とスサノオから献上された天叢雲剣がミマキイリヒコの娘のトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に移動し祀られた。その場所は三輪山山麓の檜原神社だといわれる。(大阪・深江にはここから移住したのか、と思われる。)天皇のレガリア・神器を笠に入れ隠すかのようだ。宮殿にはレガリアの代わりに「鏡を鋳、剣を造らしめて、以て護りの御シルシとす。故事拾遺」とレプリカができた。では本物はというと、トヨスキイリヒメはその安置場所を探して、京都・宮津の籠神社、奈良・桜井の予喜天満宮、和歌山・日前国懸神社、岡山・伊勢神社と旅され、「吾、日足りぬ」とイクメイリヒコの娘、姪のヤマトヒメに「事依サシ奉り」された。イリ一族の宮殿内宗教改革は激しいものに感じる。ヤマトヒメは、のち90年94か所かけてレガリアを奉斎する場を探し最終に伊勢神宮を創建し奉斎されたという(ウイクペディア・元伊勢)。のちに東征にでる甥のヤマトタケルにヤマトヒメが天叢雲剣を渡されている。いまも熱田神宮にあり伊勢神宮には帰っていない。レプリカは源平合戦で安徳天皇と海の藻屑となったのだが、鏡は回収された。失った天叢雲剣の探索は厳島神社の神官たちに命令されたが、発見されなく、新しいレプリカが伊勢神宮から献上された。

日本書紀に、スサノオが高天原を追放される姿は蓑と笠をまとってであったとある。この姿で屋内に入ってはならないともある。男性が屋内で外套や帽子をつけているのに違和感があるのだが、脱いで入るエチケットである時代に生きた証かもしれない。どこかに笠に霊的なものを感じるとこが帽子にかぶさっているのだろうか。笠が隠すもので、身構える姿勢に思える。兵隊さんも警察官も帽子をとらない。
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# by forumhiroshima | 2021-06-15 15:51

イクメイリヒコの痕跡-2

奈良三条大路の西端のイクメイリヒコ御陵から生駒山の山頂のテレビ塔が見える。
イクメイリヒコの痕跡-2_d0089494_15015609.jpg
ここからの展望は正方向西にあるのか、と方位が気になったりした。東大寺のお水取り行の二月堂からは生駒山が奈良盆地の大半のエリアから見えるだろうな、ってことがわかる。
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平たく長い山稜に盛り上がった、そう目立たないピークだが、他に競う頂もなく、間違いなく見つけられる優れたランドマーク、振り返ればそこにいつも生駒山!。ランドマークはこうでなきゃ、な。そしてその向こう、その先への興味がひきだされてくる。「山の彼方」へ「知らない町」へ旅したくなる。ランドマークは引き込ませる力をもっている。まして生駒山地は河内の国と大和の国との国境でもある。その尾根上にまるで万里の長城のような信貴生駒スカイライン(自動車専用道)が通っている。向こうに「知らない国」が広がっている。国境を進入する敵はここで越えることで、判別されるのもこの尾根だ。

「イコマ」は邪馬台国の卑弥呼(242から248年ごろ死去)を支えた官職の中に見られる「伊支馬・イキマ」ではと、魏志倭人伝の記載から明治時代の京都大学の歴史学者、内藤湖南が提唱した。”コナン”の推理なんでス。2世紀のはなしなんだ。生駒山地はイクメイリヒコの領地とされて、住吉大社に寄進されたことでもこの地名由来になるという。イクメイリヒコ・垂仁天皇と、お父さんのミマキイリヒコイクメ・崇神天皇とに「イリ」がついていて、大和に西から進出したことで「イリ」が呼ばれるという。このこと。古事記ではミマキイリヒコは168才、イコマイリヒコは153才の長寿だとある。凄いです。この長寿から架空とされても、架空じゃない。人の業績には死後におこなわれたものがある。それを「滅後の真筆」というそうだ。「イリ」は八重山列島の西表島・イリオモテシマのイリを連想させる。お日様が海に沈むから「いり」なのか、西からやってきた人たちがいたから「イリ」ってことか。

九州・日向を出立した神武天皇は東征して生駒山の西の孔舎衙・クサカエに上陸「イリ」の伝承だが、その地は今の生駒山頂の北のふもとの、日下・クサカだとされる。生駒山頂の少し北になる。が、上町台地北端に上陸を想定されてもいる。明治時代の神武天皇上陸地点推定図があって、そこに古代難波の宮になるあたりが上陸地となっている(明治時代の東京帝国大学の学術論文)。
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ここに、ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が上町台地北端に生国魂神社(地元ではいくだまさん。日本書紀に掲載)を建立の伝承ある。この地に「イリ」している。生国魂神社の祭神は生島神足島神とされ、いまも宮中のお祭りされているという。(大和巌男・生国魂神社)

生国魂神社には「難波の宮でナニワの海岸に生まれ出る砂州の島そのものにむかって、儀式が生島御巫・イクシマカンナギという巫女がいた。新しい天皇が誕生すると、用意した箱に新しい御衣を入れ、渚で箱を開き誕生しようとする島々の霊力を呼び込み、その霊力を衣に付着させる。眼前に波立つ広々とした海に次々と生まれる八十島に生成する宇宙を巫女たちは見てた。(大阪アースダイバー・中沢新一)」

ハツクニシラススメラミコト・神武天皇が新しく国造りに生国魂神社の神を鎮座させた伝承は生き生きとして感じさせる。地名から上陸地点とされる日下は厳しい斜度の尾根の下で、とても上陸地点には選べない、と思った。上町台地の北端には先住の生国魂の神そばに古代前期後期の難波宮が建設、のち浄土真宗の蓮如が石山本願寺を、そして秀吉、家康と大阪城建設の地の歴史が重ねられる。まさに地霊・ゲニウスロキの地、最強のパワースポットに違いない。なのだが、日下にはそれらしき神社も見当たらないのだが、5世紀の蒙古系12才(どうしてわかったの?)が発掘された日下遺跡がある。「江上波夫の騎馬民族国家」がチラチラします。

生国魂神社の古来の鎮座地てもある秀吉の大阪城の三の丸があった場所に玉造稲荷神社が鎮座(北緯34.40.41・ほぼ同じ北緯)している。神社HPでは神武天皇到来から約600年のちのBC12年垂仁天皇・イクメイリヒコ創建の伝承とあり、下照姫命奉斎。神社HPの由来では「当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。」とあるのだ。ここから約2kmの南東に深江稲荷神社がある。神社HPには「深江稲荷神社は垂仁天皇・イクメイリヒコの御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請した」とここにもイクメイリヒコがあらわれる。

# by forumhiroshima | 2021-06-05 15:04

垂仁天皇・イクメイリヒコの痕跡-1

垂仁天皇・イクメイリヒコなどと、ずっと昔のことですが、今も、なんです。


春日大社(768年造営)と御蓋山(春日山)と生駒の峰がほぼ同じ北緯N34.40.50にPCのアプリでは並んでいる(国土地理院のデジタル地図)。春日大社の位置に、それも東西正方向の決定の時代にはデジタル地図による北緯を使えるはずはないのだから、ただ、ただ同じ北緯位置だと驚いている。
さらに、この三地点のライン中央あたりの奈良市西部、平城京西端に垂仁天皇・イクメイリヒコ御陵がある。古墳の中心点がどこなのかは、指定しているウイクペディアの表示N34.40.48を見ると、やはりほぼライン上にある。ここの緯度の2秒の差は約50mほどの距離だ。イクメと生駒によく似ている。大阪、住吉大社のに残る胆駒神南備山本記・平安時代に垂仁天皇・イクメイリヒコが生駒山地と山麓一帯を寄進したとあり、住吉神は天皇の天下泰平を約したとある。(日本の神々4)生駒山山頂のほぼ東の山麓に生駒大社が北緯N34.40.41に鎮座している。
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東西の正方位N34.40.50に並ぶということの正確さはPC上で知りえたことで、春日大社造営時の平安時代に認識されていたか?は予想もつかない。この東西ラインは偶然でしかない、と思っていた。楽しい妄想でよかった。それを一変させる話に出会ったのは松岡正剛の[白川静・漢字の世界観]の柿本朝臣人麻呂の作れる歌」だった。

「東の野/ヒムカシノノ に、炎/カギロイ の立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」柿本人麻呂。阿騎野にて歌う。阿騎野冬狩歌。
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「阿騎野にやどった翌朝、日の出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪に降った野にも写っている。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている。斉藤茂吉の解説」であるといわれてましたそうです。が、「この阿騎野へは、孫である軽皇子をつれて祖母、持統天皇が冬狩りを計画した。その訳は軽皇子の父で天皇を後継するこであった草壁皇子の死去により、幼年であった軽皇子を天皇の後継にすることであった。急逝した父のもつ天皇霊を呼び起こし、その霊が生命的な活動へとなる状態で後継者に摂受されるとなることから、もっともその摂受ができる日に、霊幽の世界に働きかけ、それを感応する。その為の冬狩りであった。白川静」こう白川静/漢字の世界観・松岡正剛で紹介されています。
「この冬狩の日は東に太陽が輝きはじめ、そのとき西に月がかたぶく光景がなければならないし、生命が復活へと活動はじめる、冬の冬至でなければならない。実はその日が確定されているのです。ずばり持統天皇6年。西暦692年12月31日の午前5時50分ごろ、すくなくてもその一週間前後。この計算は東京天文台がおこなっています。白川静」

この白川静の解説から692年ごろには、冬至の日、その日の日の出、そして同じ時間の西に月が沈むことの天文時間が理解されて、かつ旅を予定されていたことになる。その旅先の安騎野には人麻呂像と万葉公園が作られていた。
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そばには美しい阿紀神社がある。
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東西に開けた空、神社そばの流れが手水舎になっていて、手ぬぐいが風にゆれている。
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この安騎野には神武天皇が熊野から到来したという場所であり、道案内の八咫烏神社は3km東に鎮座する。大海人皇子(のち天武天皇)鵜野讃良(のち持統天皇)夫妻が吉野に隠棲から挙兵したときここを通過している。古代人にとって余程の重視される場所だったのだろう。

白川静は古代人たちには「神隠れるというように、神は常に隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在を知られるようになる」のだと言っている。朝日は御蓋山の山頂から登り、生駒山の山頂に落ちるその日を知ろうとすること、を影向とした。それを指示したのがイクマイリヒコなのだ、いや、したのだ、とこのラインは言っているように思った。生駒と御蓋山という自然の造営物が同じ北緯に並ぶことに合わせて御陵を造っているのだから。北緯は北極星の高度角の観測で知られる。同じ角度なら同じ北緯にある。宇宙を探すこと、が神の存在につながるように、思えるのだが。

春分と秋分の日を確定して正東西の方位を決定してこそ、神を尋ねることができた。明け方は「彼ハ誰・カワタレ」夕暮れは「誰ソ彼・タソカレ」の「彼」は神なのかも。

この日に似た「朔旦冬至」の日がある。冬至の日、それは太陽がもっとも弱体し、翌日から復活しはじめる日。その日が月の朔日・新月に当たり明日からやはり復活する日のことで旧暦11月1日と冬至が重なること。月と太陽が同時に復活する日。20年に一度のことらしい。ただ記録上に見られるのは861年だというから、692年の安騎野にそれを予見され実行された旅の日程は凄い。

冬至に近い今年2021.12/31の阿騎神社で日の出日の入りの方位と月の出月の入りの方位、また時刻を”日の出、日の入り 時刻方位マップ”のアプリで検索したもの。月の出、入りも付けている。方位はうまく合致するのだが、月の入りは昼間になるようだ。柿本人麻呂マジックとしか、言えない。
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正方位東西については、冬の星座だがオリオン座の三ツ星は東の空に現れる。それも縦にならんで登場する。そして最初の出てきた星の位置は真東だ。観測点を固定して、東の空の何処から現れるかを決めれば、正東西方位になる。その位置に日の出がある日は春分・秋分の朝である。
「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 柿本人麻呂」この歌を白川静はどう解説するのだろうか。


# by forumhiroshima | 2021-05-25 12:02


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