こひちろうの独り言 |
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広島城位置決定には牛田・見立山から宮島弥山山頂に結んだライン、影向線を使っているという。影向・ヨウゴウ?って、なに。 東大寺のお水取り、修二会の法会・修行に僧侶が退出するまで二月堂の堂内で過ごしたことがある。 1250年も欠かさずつづけられた修行に、奈良時代から現在に至る間の東大寺や 二月堂に関係した人々、或いは修二会に参籠した僧侶等の名前が記された「東大寺上院修中過去帳」をその人たちの冥福を祈るために特に読み上げられる。「”鎌倉時代、承元年間(1207-1211)に修二会中、集慶(じゅうけい) という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で「青衣(しょうえ)の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。(東大寺HP)”」 青衣の女人は現在も読み上げられている。その声を聞きたくて、夜半まで狭い堂内でうずくまっていた。 僧侶たちの激しい動作の影と燃やされる松明の火とに包まれてるうちに、青衣の女人の読み上げを聞き逃したらしい。その夜の法会が終わると僧侶たちが松明に囲まれて退堂していってハタと気づいた。いつの間に終わってしまった。熱っぽくなった頭を持て余して過ごしているうちに、ブラブラと浮見堂の堤あたりにきていた。春日大社の背後のまだ暗い御蓋山・ミカサヤマが、朝日の中で明るくなってきた春日山連山を背景に影として浮き上がって現れる。 春日の神の御蓋山への降臨の「鹿島神立影図」絵図を思い出していた。神は白い鹿に乗り、常陸からここに鎮座しているが、すでに地主の榎本の神がおられた。御蓋山に鎮座をもくろんでいた鹿島の武鬢槌神に土地を乗っ取られ、今は本殿の南側の塀の外の祠小さくおられるのだという。 平城京遷都が710年。その約50年のち春日大社創建。都城の道はすでに碁盤の目状に区画されており、三条大路の東端から春日大社の位置は少し南に寄っていて、御蓋山山頂の真西N34.40.53の北緯にある。山頂の本宮神社の北緯と同じ。東西に置かれた三条大路の東端にある一の鳥居。ここから東に向かう直線で伸びる参道が南方向に100m曲がって二の鳥居から本殿にはいる。奈良・平城京の道の設計に外れて、わざに本殿の位置が御蓋山の真西に置かれたことが気になる。大社は三条大路と四条大路の間を四分割する小路にも該当していない。この都の設計に御影山は考慮されてなかった。 このぐらいの誤差は仕方ない、とはいえないのだ。古代の都城、難波の宮、板葺の宮(明日香村)、藤原京、平城京、平安京の市街地道路の設計は南北の子午線を基準とされていて、誤差は約21分から23分西へ振っている(京都学園大学・臼井正)という。1000m北へ進んで右へ7mずれる程度の誤差だという。すさまじく精度がいい。神仏は意味なく配置されることはない。 南北線ばかりか東西線の北緯も、御蓋山山頂、春日大社から、平城京のはずれ西ノ京にある垂仁天皇陵、その西の生駒山山頂、そして大阪の前期難波宮址と東西間約30kmは北緯N34.40に立地していて、御蓋山にのぼった春分・秋分の太陽は、おのおのの正午に真上を通過する。東西に違わず並ぶ、御陵、山、春日大社とをこれほどの同じ北緯は、なぜ平城京道路設計とのずれたのだろうか。三条大路はなぜ春日大社の参道にならなかったのだろうか。 平城京誕生の半世紀の後、生駒山と御蓋山とのあたらしいラインが平城京の都城の由来にくりこまれ、神の影向と降臨を現実のものとする作為があったのではないだろうか。宇宙を感じさせる太陽の動きが東の聖山から西の聖山へと説明されれば人は引き込まれるにちがいなかっただろう。その中間点の御陵・垂仁天皇の名はイクメイリヒコ。生駒ににていませんか。このラインに古代の天皇をも引きこむ、そんな計算、だれができたのだろうか。 生駒山山頂のラインは賑やかだ。山頂のほぼ直下の麓の枚岡神社(N34.40.10)から、春日大社の祭神の天児屋命と姫神が春日大社に遷祀されている。山頂ほぼ北の麓、枚岡神社から1.5km北に神武天皇と戦った物部の神・饒速日尊・ニギハヤヒを祀る石切神社(N34.40.56)、その神武天皇上陸地で地元の長髄彦に敗北した戦場、孔舎衛坂・クサカエサカ(N34.41.38)が1.6km北だ。古代神話が重層している。瀬戸内海を東に航行する船の舳先の展望に難波宮と生駒山山頂との見通しが重なると、そこが平清盛の大輪田の泊(N34.40.15)がある。神が指し示す、まさに”神の戸”だろう。(神戸の地名は生田神社の支配地のをいう、となってるが、生田神社は元は新幹線新神戸あたりに鎮座していた。港神戸は海と陸との交流の戸では?が美しい) 古代難波宮の北隣になる織田信長と戦った浄土真宗・蓮如の石山本願寺がのち秀吉の大阪城で、この東西ラインに近世も乗りかかってる。秀吉は正・東西南北で真四角、方丈に大阪船場の町を建設している。 ラテン語の、Genius loci、ゲニウス・ロキを建築家の鈴木博之は。「姿形なくどこかに漂っている精気のごときもの。ある土地から引き出される霊感とか、土地に結び付いた連想、あるいは土地が持つ可能性といった概念だという。”東京の地霊ゲニウス・ロキ”」影向・ヨウコウ、来迎・ライゴウの起きるってそんな感じがする。それをラテン語でいわれると、なんとなく判った気分になれる。経度緯度という宇宙観は影向という響きを強く感じさせる。それは時の流れに竿さして渦をおこす磐のように響させる。。 夜目、遠目、笠の内、とは女性が誰しも美しい!時がある。アンブレラじゃない笠!。田植えの早乙女、花笠の乙女、阿波踊りの鳥追い笠の乙女、笠を付けることにのより、彼女たちは神の巫女になる。海の厳島神社も海の御笠浜に鎮座地している。 #
by forumhiroshima
| 2021-04-20 14:57
広島市立図書館の二階の郷土資料室の北向きの窓の正面に広島城天守閣がみえる。書庫の棚に自治体発刊の歴史書だけでなく、市井の郷土史家たちの労作も並んで、それらは興味深い。その一つの最も厚い「新広島城下町 郷土研究会 1974年第7集」を棚から引き出した。その挿絵のページに広島城位置を決定したという二本のラインが簡単な地図上に引かれて、それが交差する場所が眼前の天守閣の位置になった、とある。 「広島城を築城するさい、毛利輝元(元就の孫)は先ず牛田・新山に登り、厳島の頂上に一線を画き、次に二葉山と己斐松山(旭山神社)に登って一線を引いて、その交差する点を、天守閣の位置を定めた。それで新山を一名「見立山」という。△・・・影向線の訳 厳島神社のご鎮座縁起に「御山を影向地と定めて宮を建つことなり」という。影向線は甲午線とも書き、方位学、家相学でいう表、裏鬼門の意。それで広島城の天守閣を定めるにあたり、安芸国の一宮たる厳島神社を中心に影向線上に建てられたもの。」と説明されている。 書庫の棚にある、大正時代に広島市から発刊された廣島市史に、広島城が建設される前の大田川の河口の五箇庄と呼ばれていた砂州の地図が掲載されている。その古地図上に二本線を想像してみた。 1961年刊行の新修広島市史・昭和33年広島市発行に、広島城の1958年再建の際の天守閣の地質調査報告書を見つけた。そこに天守閣の地盤の図が掲載されている。岩礁や小高い場所があったのでなく、人工的に砂州に小石を積み上げ盛土され、石垣が組まれたとある。地盤が強固な場所などの土木条件による選定でなく、特別の何か、ここでなくてはいけない、ないか、があったのではないか、マジカルな選択と決定を思わせる。郷土史家たちのいう「影向線」とやらが、その謎の選択の正体なのだろうか。 築城位置の決定の逆方向で確かめることにした。ラインの実態を地図に落として確認してみようと、己斐松山の旭山神社をマークして天守閣を経由する直線を、東方面へ伸ばしてみた。尾長山の山頂にピッタリと張り付く。宮島の弥山山頂の三角点からやはり天守閣を経由するラインを引くと、牛田の見立山の尾根に到達した。単なる都市伝説ではないようだ。計測され設計されている。広島城域の設計図の存在を確信した。毛利輝元とその一族の築城への決意が都市伝説伝として郷土史家たちに見出されている。 (地図は国土地理院の数値地図で表示しているGISソフトウエアー、カシミール3D山旅を使用。ラインの見通し(プロフィールマップ)、距離、方位も計測できる。) 己斐、旭山神社は毛利元就が1555年厳島合戦の際に必勝祈願をした由来がある。そして勝利した。神社ホームページに元就が祈願した朝をもって、旭山神社とそれまでの己斐八幡神社から改名されたという。築城主の毛利輝元は父毛利降元を11歳で亡くし、家督を継承するが、祖父元就が彼を後見している。毛利家由来の場所で、小高い丘のある見通しの良さで選ばれたのであろうか。二葉山は江戸時代に浅野藩により改名された呼び名で、矢賀山と呼ばれたと矢賀郷土史にある(矢賀郷土史・山田隆夫)。山の名は見る麓の名で呼ばれることが多いようで複数の名があることもある。矢賀の西側地域が尾長である。この山頂には広島空港の無線電波灯台が残っていえ、さきの戦争に高射砲も置かれたといわれる展望の良い場所だ。円錐形の山頂は麓の聖光寺の山門をくぐると正面に仰ぎ見れ、この寺に輝元一行が城地選定に(1589.2.20)最初に集まった場所で、築城設計ライン一端がここと、この景観で納得でした。この寺で城域を広島と命名し由来があって、山門に広島山と額が掲げてある。 宮島の弥山山頂から天守閣を通過するラインは、牛田、見立山の尾根の東端を通過する。グーグルマップにある見立山のマーク位置には広島市が設置した展望掲示板があるが、そことは40m程東へよってラインは通過している。尾根にはちがいないが見立山といえるピークは尾根にhみあたらない。が、尾根の麓に日本陸軍の設置した見立山の記念塔があったりして見立山の地名は結構周知されている様子だ。尾根の掲示板から広島城天守閣は建物にかくれて見えない。ただ天守閣南に隣接する県立総合体育館の丸い大屋根を宮島からのラインが地図では通過しており、その北側の天守閣への想像で弥山へのラインの展望が確認できる。見立山から宮島・弥山間21kmは天守閣の設置点には遠すぎると思うのだが。元就が宮島合戦での上陸地点と言われる包ケ浦をラインは通っている。マジカルと言えばマジカル、かな? 地図上でかなりの精度で、確かに2つのラインは交差している。これが一番マジカルなんだ。 #
by forumhiroshima
| 2021-04-10 14:45
13世紀初頭に記録に残る栗栖氏はなぜ戸河内に定着できたのだろう。彼らの祈願社の大歳神社の神紋は厳島神社の神紋が使用される。栗栖氏は厳島神社神領衆といわれ深い関係がいわれる。栗栖氏と関わり深いここの大歳神社は厳島神社の摂社となるのだろうか。 大田川下流の口田の弘住神社の神主家が栗栖さんだと発見。川上に中世繁栄した栗栖氏が今と中世をつなぐものあるか、に引かれた。弘住神社のそばの小山に大歳神社も鎮座している。川上―川下の関係、チョットロマンチック、とおもったのです。 厳島神主家の廿日市・桜尾城と同じ名の城が加計の町の西の滝山川右岸の上調子にある。ここにも大歳神社が鎮座している。加計から太田川をすこしさかのぼると、右岸にあるのが西調子。ここにも大歳神社が鎮座している。 この「調子」の地名が下流にある。 広島市安佐南区川内の胡神社のすぐ南のバス停に「中調子」がある。「下調子」は明月寺前のバス停にある。安佐南区川内6丁目に上温井集会所がある。温井は加計・上調子の滝山川にある温井がある。いま温井ダムの名に残っている。水はけのよい、抜ける井・水の場所が“温井”だという。 太田川の川下の川内に温井、調子の地名が残り、川上、川下に同じ温井、調子の地名があらわれる。古代の河内郷にあった温井・調子が今に残っている。 「“調子”は三々九度の杯に巫女さんがお酒を注ぐ容器で左右に注げる。川上から流れ込んでそこで膨らんで川下は細くなる流れ。それがお銚子に似ている。だが、そんな地形はどこでもある。奈良県の宇陀に調子の地があるが、もと鳥飼で音読みでチョウシになり鳥子から調子へ変わった(池田末則 地名の話)」。 地名の漢字にフリガナがつかないと、かってに自分が読める発音になる。調子は川沿いにあることから、鵜飼いの浜のことだったら、おもしろい、と。太田川の鵜飼いのポイントが“調子”なのだ、とは、いかないか、妄想にすぎないカ?。 大田川の左岸の口田、右岸の川内・東野・中筋、そして古市の河内郷が川を越えて一括の区分にあり、1603年川の流域が変わって、口田と東原の間には新しく太田川が流れ、古川(それまでは佐東川)も残り、その領域は“北の庄”と名前が変わり、明治に高宮郡とまた変わり、そして今安佐北区に変わった。高宮郡は古代には八千代、吉田、美土里(安芸高田市)、と高宮あたりとされている。それは鎌倉時代には高田郡に吸収されて消えている。江戸時代の“北の庄”の北の指す場所、明治の“高宮”の復活になにかがありそうで、気になるのです。 1245年、鎌倉時代、厳島神社が自社の荘園の年貢徴収の記録が残っている。その領地の内、山県郡三角野の荘園が、(場所不明だが、中国新聞社・鉄学の道では北広島町・豊平にあてている。)年貢を鉄、百三十四斤余(約80kg)で課せられている。宮島へ鉄が送られていた。 この辺りは1171年地元の豪族凡氏から厳島神主家佐伯景弘が仲介して平清盛に寄進し厳島社領となった。三角野は北広島市西宗あたりらしい。 火と砂から鉄を取りだす、古代の最先端の鉄生産技術者たちが住まう場所が高宮と呼ばれても不思議ない。とおもうのは、九州の宗像大社の奥宮を高宮祭場とよぶ。そこは森の中の宗像三姫神の降臨の地だというしめ縄で結界されたただの空間なのだけど。神の降臨なくして(化学反応)、砂は鉄にならないだろう。いまは、すっかり圃場整備と直線車道で昔匂いは消し去ってしまっている。 栗栖氏の拠点の加計から丁川・ヨウロ川畔を北上し豊平へ向かうと出会う、溝口・千代田の分岐のカンバンを右で、民家が坂に点在する鶉木・ウズラキの集落の十文字峠(鶉木峠)にかかる。とても広い空へ登る。ここの登坂は中国山地には珍しい九十九の道を気に入っている。曲がり角に厳島神社が谷を望む姿で鎮座している。来るものを拒んでいるのかと威圧を感じる。中世厳島神社神領の入口を守護している、かの様子。峠のとりつき口に神原、才ノ平の地名がある。神原の神は厳島の三女神だろうか。才ノ平の才はサエギる場所でヒラは坂をさすことがある。「切り立った地下へ通じる道の境界・柳田国男」の意味であの世をしめすという。神なる土地へのヒラ。峠登り口に安芸太田町と北広島町の境界線がある。“才”がある。 峠を越え右へとり、豊平の都志見の町へ。採鉄のかんな流しで砂鉄を採取しできた田んぼが広がっている。このあたりに、鉙原・カンナハラの地名もある。とても清潔な街並みが整備された車道に並ぶ。たたら製鉄址が保存される公園も駐車場かとおもったほど、昔が消えている。鉄の匂いも消えている。けれども、砂鉄採取のカンナ流しの土砂を階段状に石垣を組んでそこに流し込んででできた景色は山尾根でなく田んぼの中に森と神社を置いているのが多い。神社周囲の土砂もながしてしまったからかと、その特異さが中国山地でどこかで又であったりすると、なぜか懐かしい。 たたら製鉄址公園から東へ15kmほどに千代田の古保利薬師がある。境内に大歳神社が鎮座している。ここに古墳があり、古代豪族・凡氏に関係しているといわれる。凡氏はオオクニヌシの末裔を自称している。彼らが鉄の職人たちなのだろうか。宗像女神長女の御主人大国主鎮座の出雲を連想する。(戸河内インター・上殿の大歳神社の石柱の文字の揮毫が出雲大社の千家だった)凡氏はのち山県氏として毛利家に属し今にいたっている。 平安時代10世紀中旬の”和名抄“に安芸国山県郡に賀茂郷がみられ、すこし離れるが大朝のもっとも古い神社とされる枝宮八幡神社は三輪庄大麻三荘鎮守と古称され、三輪は奈良の三輪山に通じて、大国主の国ってことになる。境内に摂社として賀茂社が鎮座する。凡氏は出雲に関係あり、枝宮の摂社に大国主社もあった。出雲の賀茂神はオオクニヌシの長男・アジスキタカヒコネ(よくできている鍬)で、鉄そのものの神にといえる。 凡・オオは梵・ソヨギとも同じ字になる。元カープの梵選手は三次出身。この珍しい名は県北にであったことがある。古代がポツリと顔をのぞけた感じがした。 太田川下流の口田の月野瀬神社の祭神は賀茂神。古代高宮と明治の高宮が賀茂神つながったと、妄想完成。が、明治に官営製鉄産業が勃興したのは豊平ではなく備北だった。 戸河内、上殿の栗栖氏の実力の一端が彼らの館跡の宗玄寺にある石碑が言っている。上殿は石工自慢であり、今に残っている石組みは福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉城と同じだとその石碑にあった。ここらあたりにはない!と自慢している。
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by forumhiroshima
| 2018-04-15 16:14
中国道・戸河内インター近くの、ひな壇状に点在する赤瓦の民家の町が「上殿」。高速道からは譜面にみえる。 三段峡へ向かうと潜るトンネルの尾根に栗栖氏が最初につくった土居の発坂城址があり14世紀初頭とされている。東隣尾根に連続して栗栖氏の岩田城址がある。その城址の尾根裾が流れ落ちる「上殿」集落に箕角八幡神社が鎮座し、すぐそばに宗玄寺がある。この八幡神社は大歳神社であったと角川地名辞典にある。 「われわれの祖先の多くが、農耕に従事し、生活を楽しんだ平野には、中世の遺物・遺跡は豊富である。“立ノ内”“辰ノ越”などは武士の居館であり、近くに菩提寺の跡があろう。背後の城山は戦時にたてこもる要害である。居館(タテ)よりさがったところに「屋敷」の地名があるが、ここは名主・ミョウシュのいたところで、・・・・戦国末期の兵農分離の過程で、大名の家臣団に編入され、村を去った。その残された屋敷神が村の鎮守となってくる。そのまま農村にとどまれば、庄屋として村落共同体の首長になる。 石井進」 “山城址”の教育委員会の標識近くに神社があり、集落に寺院、のトイラアングルが田園の集落に残されていることに中世の時間があること、驚いた。すこし景色を見る目が変わった。戦国の時代が頭を駆け巡る、そんな集落が「上殿」だった。いまも中世の精霊のただよう時間に町が見え始める。 山城址は全国に三万とも四万ともあるといわれ、それは14世紀からの300年間に築かれた、という。山に見張場をつくることが、支配者の気分があったのだろうか。文化庁宗教年鑑で神社が88600社、摂社・末社含めて30万とも。寺は77350寺とある。どうりで、そこかしこで、マジ、どこでも、中世トライアングルか?と、妄想してしまう。 たとえば?土居の大歳神社は栗栖氏の祈願所なのか、また彼らの館の跡なのか。土居は館にめぐらした空堀をいう。だから、・・・?と。 岩田城址、箕角八幡神社に宗玄寺のトライアングルが中世を残しているといわれる。寺が栗栖氏の館跡なのだという。宗玄寺に石碑がある。 「今は、この辺りを「考哉河内」と呼ぶが、昔は「高野河内」であったことを示す貴重な碑である。栗栖氏と高野山とは丹(朱)の産地を通して関係が深い。昔、太田地方は丹を多く産出して、栗栖氏の豊かな財源になっていた。栗栖氏が高野山へ献じ物をするための土地であったと考えられる。」 「広島に住んでいます。田舎は戸河内で、そこら一帯、栗栖ばかりなんですけど。その辺りに昔、栗栖の殿様がおって、栗栖の城もあったらしい・・」ネット「全国栗栖会コミュの栗栖族って」を見つけた。ホント!安芸太田は栗栖さんでいっぱい。栗栖が多くて、栗栖のカンバンや表札を数えながら走ったことも。そのHPに各地の栗栖さんが書き込んでいる。戸河内の栗栖氏はどこからやって来たのだろうか。 栗栖氏は関東・下野国岩田からの説、京都・山科の栗栖野からの説、和歌山市栗栖からの説、等々。和歌山に自分は特別な思いいれがある。 紀氏・栗栖氏とある戸河内・栗栖氏の記録がある。和歌山県田辺市から東征に向かう、熊野古道・中辺路途上、ここから山岳ルートの起点にある中辺路町栗栖川を思い出す。栗栖と書かれたカンバンは気にしてなかった。熊野古道は地味な古風がある道で錆びたシャーターが目に付く。栗栖とあるカンバンは印象にのこっていない。それは、きっとここからの登坂が怖かったから、景色を見る余裕なかったのかも。 熊野古道・辺路道の王子と呼ばれる点々と置かれた祠をたどる道に初めて「辺」・あの世の境、清濁の境をここと決めた人々がいたこと、を発見した道だった。最初に神の所在を感じた人が、そこを石や木によってマークする。そのマークは伝えられ、そこにまた神の所在を見つかられると、そこが人々に認知され、ある機会に祠にする人があらわれ、そこが王子と伝承される。そして境界が辺路になり遍路になる。やはり、遍路には、その名だけで、なにかを生まれさすなにか、があるのかな。長い人々の思いの時間の蓄積が、走る気分を熱くする。 中辺路が登り連続になって「こんなバカなこと、どうして、?」と思ったとき、非日常のサイドに入った。日常の向こうに渡った。境を越えたと「王子」が教えてくれた感覚があった。が、息は切れ、足は止まり、腹が減っていた。夢みていたようだった。今、あの時を思い出した。 栗栖氏が最初にこの地に現れたそのルートはきっと船だろう、と妄想する。 5世紀雄略天皇の時代に半島の新羅に征新羅将軍として紀小弓が派遣されたが現地で病死。その子、小鹿火は帰国し朝廷に角国にとどまり住むと願い出て許されている。そののち、名を角臣とした(日本書紀14巻)。この角国・ツヌコクは山口県都濃郡に古代あったという紀村とされる(岸俊男)。この角臣の一族に紀・坂本臣があり、8世紀に半島の製鉄技術者集団の韓鉄師たちが坂本臣の氏姓を賜った。近世に大朝、可部、そして岩国は鋳物の中心地となった。 紀・栗栖氏は丹だけでなく、鉄などの鉱山経営に関わってゆく一族のバックボーンがあった。と妄想する。箕角八幡神社の「角」がツノでは、と思ったりしている。 紀氏・栗栖氏2代目帰源は、僧・栗栖帰源禅門になり、京都・東福寺住職・雪舟喜猷を開基として招聘し、戸河内・土居・実際寺を創建(1366年ごろか)の記録がある。豊臣秀頼寄進の3つの橋廊と紅葉の東福寺は鎌倉幕府の唐船つまり貿易船を運営した巨大寺院。戸河内に貿易の専門家の坊さんがやってきていたことはすごい。14世紀ここに中国大陸との接点・境があった。ここに世界に向かうエネルギーがあった、と思った。 #
by forumhiroshima
| 2018-04-08 15:21
太田川の名は戸河内・本郷の町並みが途切れる橋の上流の天神さんが鎮座する合流点から太田川放水路河口までだという。上流からみての左右で左岸右岸になる。上から目線にこの表現にはとまどう。太田川橋上流の細野神社から右岸(この表現では左岸が自然)に筒賀まであるルートが電源管理道路と整備され関連施設は右岸に設置されている。この道を見つけ走った40年以上前に初めて、サイクリングの何!を見つけた、ことは忘れられない。車は見られなく、道独り占めだった。解放感にあふれて走った。 古代の安芸郡も今の安佐北区も、川上への境界線は津都見(堤?)の八幡神社あたりにあるようだ。ここから川上が安芸太田町になる。川でも道でもない、この境界はどうして決まったのか、県・市・町などの境界の表示に出会うと何故か緊張感がわいてくるのはなぜか。 すこし下流の戻っての宇賀ダムに入る道を詰めると空の広い山村・高山で行き止まる。ここの安佐北区安佐町、境界が交錯する。そこ石段を登ると大歳神社の小祠がある。安佐北区は太田川を越えてここに境界がある。境界の印が社だろうか。 自転車で走っていて神社の名を見るための止まることはまずない。神社は地図で位置を特定するには多すぎて使いにくい。それでも、この電源道を幾度か行き交っているうちに、大歳神社の連続に不思議を感じていた。その始まりが川下からは、口田の大歳神社、そしてすこし距離をとっているが高山の小祠、その上流へ安芸太田町、戸河内・本郷にかけて、まさに乱立連続する。 「地図をひろげてみていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名がでてくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名になって、ひとびとに周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者(法印さま)が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であった為にほかならない。 これらの点と線をたどってゆくと、崇拝対象となっている丸山・星峠などに達する。その山腹・山麓には本地である阿弥陀・観音・大日・蔵王などの諸仏菩薩・権現をまつる仏堂があり、八幡・熊野・十二神などの社祠がある。また山頂にいたるまでには、荒行をした法印滝・不動滝、精進落としの温泉(湯沢・湯の谷)がある。さらに仏は大地の精である金と考えられたから、山の名は金峯山・金山と呼ばれ、現実に砂金採取のあとがみられることも珍しくない。 山の民・川の民 井上鋭夫」作者は中世史の専門家。新潟大学でフィールドワークをかさねて、この記述がある。境界の在り様に近づける。 自転車ではあるとき、古道の勾配に痛めつけられる。何故にこのルートができたのか?知りたくなる。こんな道つくるか?。その道で山中に孤立する集落にでくわす。いま、なぜ、ここで生活を営むのか。法印様が道をつくり、開拓した人?どんな人?。 「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の依代の森をあちこちにのこして神の場・ニワとした。そのうち、紀国ぜんたいの神の場として、日前・国懸(ヒノクマクニカカス)神社の森をのこし、木綿・ゆうや幣・ヌサなどをかけて斎祀ったのである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」 和歌山市の古墳で覆いつくされた山際に鎮座する森の神々は住宅や学校に囲まれて窮屈そうだけど、負けてはいない存在感を示している。 「宮司は紀氏である。“紀”という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。 司馬遼太郎・街道をゆく32」 安芸太田氏に大歳神社を建立した栗栖氏はこの「紀氏」の流れにあるという。大歳神社を実際寺側に1311年に鎮座させたのが栗栖氏初代の高基でその系図に「紀氏」とある。(東皓傳・修道商学41-2)。紀氏は愛媛の河野氏の祖先越智氏と婚姻関係があり、周防国玖珂に古代住民リストに名が残る。 和歌山市の日前神社そばを走るわかやま電鉄貴志川線の路線に出雲の神々が点在して鎮座している。出雲の神々を背負って移動した人々の痕跡の路線は神社に導かれていて至る終点の貴志川駅はネコ駅長で人気。ネコ様に人々が集まる景色がここから始まった場所では、なかろうか、と思うほど人々があつまっている。 「街道をゆく32」にある根来寺へ向かった。貴志川にそって低い瓦屋根が軒先に顔をのぞかせる集落の中を北上していると、屋根の向こうに小高い木々の森が見えた。司馬さん流では、日前社に集められた残りの森?と、向かった。森を背負って「大歳神社」があった。長屋門の境内の森の中の小山に鎮座している。大歳神社はスサノオがお父さんで、そこかしこに鎮座しているお稲荷さんと兄弟で、親しみやすい神様だと思っていたが、ここは威厳がある。創建の由来に推古11年(603年)と古い。 大歳神を貴志川側の森に鎮座させたのは紀男麻呂宿禰という人で欽明23年(574年)に新羅遠征の記録があり、また崇峻4年(596年)の九州遠征にも記録がある実在の人。和歌山から瀬戸内海を航行して半島へ九州へ活動した「紀氏」の痕跡が安芸太田町に残っていることは、不思議ではないと思える。 史実のある神様の由来の前に、上古(司馬さんによれば、記録がない時代、らしい)のモヤモヤとした古代妄想感に目いっぱいに浸るって時間はできそうもない、かと、思いきや、そうでもない記述があった。 伊勢神宮の摂社・伊雑宮・イザワノミヤに“天真名鶴・アマノマナズルが稲の穂をくわえて湿地に植えているのを見つけた倭姫が驚き伊左波登美に命じて収穫し、その地に伊雑宮を建立した。天真名鶴を毎年到来する大歳神として佐美長神社を建立し祀った。その大歳神、天真名鶴を招来して紀国の調月・ツカツキに大歳神社を建立し祀った。 戸河内インターからR186で左へ向かうと巨木の銀杏を見る。筒賀神社は角川地名辞典で大歳神社とされる。旧筒賀村は天上山の北山麓に広がって、中央部に棚田の井仁の集落がある。そのすべてに大歳神社が鎮座する。 井仁の棚田の谷、北斜面の独立峰の姿がすっくと空を切る。どうしても聖なる山に思える、が。修験者たちの時間、中世の景色が、ここにありはしないか。
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by forumhiroshima
| 2018-03-22 12:31
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