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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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川が運んだもの

13世紀初頭に記録に残る栗栖氏はなぜ戸河内に定着できたのだろう。彼らの祈願社の大歳神社の神紋は厳島神社の神紋が使用される。栗栖氏は厳島神社神領衆といわれ深い関係がいわれる。栗栖氏と関わり深いここの大歳神社は厳島神社の摂社となるのだろうか。
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大田川下流の口田の弘住神社の神主家が栗栖さんだと発見。川上に中世繁栄した栗栖氏が今と中世をつなぐものあるか、に引かれた。弘住神社のそばの小山に大歳神社も鎮座している。川上―川下の関係、チョットロマンチック、とおもったのです。
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厳島神主家の廿日市・桜尾城と同じ名の城が加計の町の西の滝山川右岸の上調子にある。ここにも大歳神社が鎮座している。加計から太田川をすこしさかのぼると、右岸にあるのが西調子。ここにも大歳神社が鎮座している。
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この「調子」の地名が下流にある。
広島市安佐南区川内の胡神社のすぐ南のバス停に「中調子」がある。「下調子」は明月寺前のバス停にある。安佐南区川内6丁目に上温井集会所がある。温井は加計・上調子の滝山川にある温井がある。いま温井ダムの名に残っている。水はけのよい、抜ける井・水の場所が“温井”だという。
太田川の川下の川内に温井、調子の地名が残り、川上、川下に同じ温井、調子の地名があらわれる。古代の河内郷にあった温井・調子が今に残っている。
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「“調子”は三々九度の杯に巫女さんがお酒を注ぐ容器で左右に注げる。川上から流れ込んでそこで膨らんで川下は細くなる流れ。それがお銚子に似ている。だが、そんな地形はどこでもある。奈良県の宇陀に調子の地があるが、もと鳥飼で音読みでチョウシになり鳥子から調子へ変わった(池田末則 地名の話)」。
地名の漢字にフリガナがつかないと、かってに自分が読める発音になる。調子は川沿いにあることから、鵜飼いの浜のことだったら、おもしろい、と。太田川の鵜飼いのポイントが“調子”なのだ、とは、いかないか、妄想にすぎないカ?。
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大田川の左岸の口田、右岸の川内・東野・中筋、そして古市の河内郷が川を越えて一括の区分にあり、1603年川の流域が変わって、口田と東原の間には新しく太田川が流れ、古川(それまでは佐東川)も残り、その領域は“北の庄”と名前が変わり、明治に高宮郡とまた変わり、そして今安佐北区に変わった。高宮郡は古代には八千代、吉田、美土里(安芸高田市)、と高宮あたりとされている。それは鎌倉時代には高田郡に吸収されて消えている。江戸時代の“北の庄”の北の指す場所、明治の“高宮”の復活になにかがありそうで、気になるのです。

1245年、鎌倉時代、厳島神社が自社の荘園の年貢徴収の記録が残っている。その領地の内、山県郡三角野の荘園が、(場所不明だが、中国新聞社・鉄学の道では北広島町・豊平にあてている。)年貢を鉄、百三十四斤余(約80kg)で課せられている。宮島へ鉄が送られていた。
この辺りは1171年地元の豪族凡氏から厳島神主家佐伯景弘が仲介して平清盛に寄進し厳島社領となった。三角野は北広島市西宗あたりらしい。

火と砂から鉄を取りだす、古代の最先端の鉄生産技術者たちが住まう場所が高宮と呼ばれても不思議ない。とおもうのは、九州の宗像大社の奥宮を高宮祭場とよぶ。そこは森の中の宗像三姫神の降臨の地だというしめ縄で結界されたただの空間なのだけど。神の降臨なくして(化学反応)、砂は鉄にならないだろう。いまは、すっかり圃場整備と直線車道で昔匂いは消し去ってしまっている。

栗栖氏の拠点の加計から丁川・ヨウロ川畔を北上し豊平へ向かうと出会う、溝口・千代田の分岐のカンバンを右で、民家が坂に点在する鶉木・ウズラキの集落の十文字峠(鶉木峠)にかかる。とても広い空へ登る。ここの登坂は中国山地には珍しい九十九の道を気に入っている。曲がり角に厳島神社が谷を望む姿で鎮座している。来るものを拒んでいるのかと威圧を感じる。中世厳島神社神領の入口を守護している、かの様子。峠のとりつき口に神原、才ノ平の地名がある。神原の神は厳島の三女神だろうか。才ノ平の才はサエギる場所でヒラは坂をさすことがある。「切り立った地下へ通じる道の境界・柳田国男」の意味であの世をしめすという。神なる土地へのヒラ。峠登り口に安芸太田町と北広島町の境界線がある。“才”がある。
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峠を越え右へとり、豊平の都志見の町へ。採鉄のかんな流しで砂鉄を採取しできた田んぼが広がっている。このあたりに、鉙原・カンナハラの地名もある。とても清潔な街並みが整備された車道に並ぶ。たたら製鉄址が保存される公園も駐車場かとおもったほど、昔が消えている。鉄の匂いも消えている。けれども、砂鉄採取のカンナ流しの土砂を階段状に石垣を組んでそこに流し込んででできた景色は山尾根でなく田んぼの中に森と神社を置いているのが多い。神社周囲の土砂もながしてしまったからかと、その特異さが中国山地でどこかで又であったりすると、なぜか懐かしい。

たたら製鉄址公園から東へ15kmほどに千代田の古保利薬師がある。境内に大歳神社が鎮座している。ここに古墳があり、古代豪族・凡氏に関係しているといわれる。凡氏はオオクニヌシの末裔を自称している。彼らが鉄の職人たちなのだろうか。宗像女神長女の御主人大国主鎮座の出雲を連想する。(戸河内インター・上殿の大歳神社の石柱の文字の揮毫が出雲大社の千家だった)凡氏はのち山県氏として毛利家に属し今にいたっている。
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平安時代10世紀中旬の”和名抄“に安芸国山県郡に賀茂郷がみられ、すこし離れるが大朝のもっとも古い神社とされる枝宮八幡神社は三輪庄大麻三荘鎮守と古称され、三輪は奈良の三輪山に通じて、大国主の国ってことになる。境内に摂社として賀茂社が鎮座する。凡氏は出雲に関係あり、枝宮の摂社に大国主社もあった。出雲の賀茂神はオオクニヌシの長男・アジスキタカヒコネ(よくできている鍬)で、鉄そのものの神にといえる。
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凡・オオは梵・ソヨギとも同じ字になる。元カープの梵選手は三次出身。この珍しい名は県北にであったことがある。古代がポツリと顔をのぞけた感じがした。
太田川下流の口田の月野瀬神社の祭神は賀茂神。古代高宮と明治の高宮が賀茂神つながったと、妄想完成。が、明治に官営製鉄産業が勃興したのは豊平ではなく備北だった。
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戸河内、上殿の栗栖氏の実力の一端が彼らの館跡の宗玄寺にある石碑が言っている。上殿は石工自慢であり、今に残っている石組みは福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉城と同じだとその石碑にあった。ここらあたりにはない!と自慢している。
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車道を越えて北の山へ伸びている。その先に佐々木家の立派な墓所。そこの西に箕角(大歳)神社、裏尾根の上に箕角城址と中世トライアングル。この三角関係をつなぐ水は神社奥の谷から出ている。館(今は寺)側が最良の田で前田と呼ばれたりする。ここでは土居とあるから堀があったのだろう、などと痕跡を探してウロウロがいい。
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# by forumhiroshima | 2018-04-15 16:14

安芸太田町 中世の豪族・栗栖氏

中国道・戸河内インター近くの、ひな壇状に点在する赤瓦の民家の町が「上殿」。高速道からは譜面にみえる。
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三段峡へ向かうと潜るトンネルの尾根に栗栖氏が最初につくった土居の発坂城址があり14世紀初頭とされている。東隣尾根に連続して栗栖氏の岩田城址がある。その城址の尾根裾が流れ落ちる「上殿」集落に箕角八幡神社が鎮座し、すぐそばに宗玄寺がある。この八幡神社は大歳神社であったと角川地名辞典にある。
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「われわれの祖先の多くが、農耕に従事し、生活を楽しんだ平野には、中世の遺物・遺跡は豊富である。“立ノ内”“辰ノ越”などは武士の居館であり、近くに菩提寺の跡があろう。背後の城山は戦時にたてこもる要害である。居館(タテ)よりさがったところに「屋敷」の地名があるが、ここは名主・ミョウシュのいたところで、・・・・戦国末期の兵農分離の過程で、大名の家臣団に編入され、村を去った。その残された屋敷神が村の鎮守となってくる。そのまま農村にとどまれば、庄屋として村落共同体の首長になる。 石井進」
“山城址”の教育委員会の標識近くに神社があり、集落に寺院、のトイラアングルが田園の集落に残されていることに中世の時間があること、驚いた。すこし景色を見る目が変わった。戦国の時代が頭を駆け巡る、そんな集落が「上殿」だった。いまも中世の精霊のただよう時間に町が見え始める。
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山城址は全国に三万とも四万ともあるといわれ、それは14世紀からの300年間に築かれた、という。山に見張場をつくることが、支配者の気分があったのだろうか。文化庁宗教年鑑で神社が88600社、摂社・末社含めて30万とも。寺は77350寺とある。どうりで、そこかしこで、マジ、どこでも、中世トライアングルか?と、妄想してしまう。

たとえば?土居の大歳神社は栗栖氏の祈願所なのか、また彼らの館の跡なのか。土居は館にめぐらした空堀をいう。だから、・・・?と。
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岩田城址、箕角八幡神社に宗玄寺のトライアングルが中世を残しているといわれる。寺が栗栖氏の館跡なのだという。宗玄寺に石碑がある。
「今は、この辺りを「考哉河内」と呼ぶが、昔は「高野河内」であったことを示す貴重な碑である。栗栖氏と高野山とは丹(朱)の産地を通して関係が深い。昔、太田地方は丹を多く産出して、栗栖氏の豊かな財源になっていた。栗栖氏が高野山へ献じ物をするための土地であったと考えられる。」
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「広島に住んでいます。田舎は戸河内で、そこら一帯、栗栖ばかりなんですけど。その辺りに昔、栗栖の殿様がおって、栗栖の城もあったらしい・・」ネット「全国栗栖会コミュの栗栖族って」を見つけた。ホント!安芸太田は栗栖さんでいっぱい。栗栖が多くて、栗栖のカンバンや表札を数えながら走ったことも。そのHPに各地の栗栖さんが書き込んでいる。戸河内の栗栖氏はどこからやって来たのだろうか。

栗栖氏は関東・下野国岩田からの説、京都・山科の栗栖野からの説、和歌山市栗栖からの説、等々。和歌山に自分は特別な思いいれがある。

紀氏・栗栖氏とある戸河内・栗栖氏の記録がある。和歌山県田辺市から東征に向かう、熊野古道・中辺路途上、ここから山岳ルートの起点にある中辺路町栗栖川を思い出す。栗栖と書かれたカンバンは気にしてなかった。熊野古道は地味な古風がある道で錆びたシャーターが目に付く。栗栖とあるカンバンは印象にのこっていない。それは、きっとここからの登坂が怖かったから、景色を見る余裕なかったのかも。
熊野古道・辺路道の王子と呼ばれる点々と置かれた祠をたどる道に初めて「辺」・あの世の境、清濁の境をここと決めた人々がいたこと、を発見した道だった。最初に神の所在を感じた人が、そこを石や木によってマークする。そのマークは伝えられ、そこにまた神の所在を見つかられると、そこが人々に認知され、ある機会に祠にする人があらわれ、そこが王子と伝承される。そして境界が辺路になり遍路になる。やはり、遍路には、その名だけで、なにかを生まれさすなにか、があるのかな。長い人々の思いの時間の蓄積が、走る気分を熱くする。
中辺路が登り連続になって「こんなバカなこと、どうして、?」と思ったとき、非日常のサイドに入った。日常の向こうに渡った。境を越えたと「王子」が教えてくれた感覚があった。が、息は切れ、足は止まり、腹が減っていた。夢みていたようだった。今、あの時を思い出した。

栗栖氏が最初にこの地に現れたそのルートはきっと船だろう、と妄想する。
5世紀雄略天皇の時代に半島の新羅に征新羅将軍として紀小弓が派遣されたが現地で病死。その子、小鹿火は帰国し朝廷に角国にとどまり住むと願い出て許されている。そののち、名を角臣とした(日本書紀14巻)。この角国・ツヌコクは山口県都濃郡に古代あったという紀村とされる(岸俊男)。この角臣の一族に紀・坂本臣があり、8世紀に半島の製鉄技術者集団の韓鉄師たちが坂本臣の氏姓を賜った。近世に大朝、可部、そして岩国は鋳物の中心地となった。
紀・栗栖氏は丹だけでなく、鉄などの鉱山経営に関わってゆく一族のバックボーンがあった。と妄想する。箕角八幡神社の「角」がツノでは、と思ったりしている。

紀氏・栗栖氏2代目帰源は、僧・栗栖帰源禅門になり、京都・東福寺住職・雪舟喜猷を開基として招聘し、戸河内・土居・実際寺を創建(1366年ごろか)の記録がある。豊臣秀頼寄進の3つの橋廊と紅葉の東福寺は鎌倉幕府の唐船つまり貿易船を運営した巨大寺院。戸河内に貿易の専門家の坊さんがやってきていたことはすごい。14世紀ここに中国大陸との接点・境があった。ここに世界に向かうエネルギーがあった、と思った。


# by forumhiroshima | 2018-04-08 15:21

中世は生きている

太田川の名は戸河内・本郷の町並みが途切れる橋の上流の天神さんが鎮座する合流点から太田川放水路河口までだという。上流からみての左右で左岸右岸になる。上から目線にこの表現にはとまどう。太田川橋上流の細野神社から右岸(この表現では左岸が自然)に筒賀まであるルートが電源管理道路と整備され関連施設は右岸に設置されている。この道を見つけ走った40年以上前に初めて、サイクリングの何!を見つけた、ことは忘れられない。車は見られなく、道独り占めだった。解放感にあふれて走った。
古代の安芸郡も今の安佐北区も、川上への境界線は津都見(堤?)の八幡神社あたりにあるようだ。ここから川上が安芸太田町になる。川でも道でもない、この境界はどうして決まったのか、県・市・町などの境界の表示に出会うと何故か緊張感がわいてくるのはなぜか。
すこし下流の戻っての宇賀ダムに入る道を詰めると空の広い山村・高山で行き止まる。ここの安佐北区安佐町、境界が交錯する。そこ石段を登ると大歳神社の小祠がある。安佐北区は太田川を越えてここに境界がある。境界の印が社だろうか。

自転車で走っていて神社の名を見るための止まることはまずない。神社は地図で位置を特定するには多すぎて使いにくい。それでも、この電源道を幾度か行き交っているうちに、大歳神社の連続に不思議を感じていた。その始まりが川下からは、口田の大歳神社、そしてすこし距離をとっているが高山の小祠、その上流へ安芸太田町、戸河内・本郷にかけて、まさに乱立連続する。
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「地図をひろげてみていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名がでてくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名になって、ひとびとに周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者(法印さま)が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であった為にほかならない。
これらの点と線をたどってゆくと、崇拝対象となっている丸山・星峠などに達する。その山腹・山麓には本地である阿弥陀・観音・大日・蔵王などの諸仏菩薩・権現をまつる仏堂があり、八幡・熊野・十二神などの社祠がある。また山頂にいたるまでには、荒行をした法印滝・不動滝、精進落としの温泉(湯沢・湯の谷)がある。さらに仏は大地の精である金と考えられたから、山の名は金峯山・金山と呼ばれ、現実に砂金採取のあとがみられることも珍しくない。 山の民・川の民 井上鋭夫」作者は中世史の専門家。新潟大学でフィールドワークをかさねて、この記述がある。境界の在り様に近づける。

自転車ではあるとき、古道の勾配に痛めつけられる。何故にこのルートができたのか?知りたくなる。こんな道つくるか?。その道で山中に孤立する集落にでくわす。いま、なぜ、ここで生活を営むのか。法印様が道をつくり、開拓した人?どんな人?。

「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の依代の森をあちこちにのこして神の場・ニワとした。そのうち、紀国ぜんたいの神の場として、日前・国懸(ヒノクマクニカカス)神社の森をのこし、木綿・ゆうや幣・ヌサなどをかけて斎祀ったのである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」
和歌山市の古墳で覆いつくされた山際に鎮座する森の神々は住宅や学校に囲まれて窮屈そうだけど、負けてはいない存在感を示している。
「宮司は紀氏である。“紀”という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。 司馬遼太郎・街道をゆく32」

安芸太田氏に大歳神社を建立した栗栖氏はこの「紀氏」の流れにあるという。大歳神社を実際寺側に1311年に鎮座させたのが栗栖氏初代の高基でその系図に「紀氏」とある。(東皓傳・修道商学41-2)。紀氏は愛媛の河野氏の祖先越智氏と婚姻関係があり、周防国玖珂に古代住民リストに名が残る。

和歌山市の日前神社そばを走るわかやま電鉄貴志川線の路線に出雲の神々が点在して鎮座している。出雲の神々を背負って移動した人々の痕跡の路線は神社に導かれていて至る終点の貴志川駅はネコ駅長で人気。ネコ様に人々が集まる景色がここから始まった場所では、なかろうか、と思うほど人々があつまっている。
「街道をゆく32」にある根来寺へ向かった。貴志川にそって低い瓦屋根が軒先に顔をのぞかせる集落の中を北上していると、屋根の向こうに小高い木々の森が見えた。司馬さん流では、日前社に集められた残りの森?と、向かった。森を背負って「大歳神社」があった。長屋門の境内の森の中の小山に鎮座している。大歳神社はスサノオがお父さんで、そこかしこに鎮座しているお稲荷さんと兄弟で、親しみやすい神様だと思っていたが、ここは威厳がある。創建の由来に推古11年(603年)と古い。
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大歳神を貴志川側の森に鎮座させたのは紀男麻呂宿禰という人で欽明23年(574年)に新羅遠征の記録があり、また崇峻4年(596年)の九州遠征にも記録がある実在の人。和歌山から瀬戸内海を航行して半島へ九州へ活動した「紀氏」の痕跡が安芸太田町に残っていることは、不思議ではないと思える。

史実のある神様の由来の前に、上古(司馬さんによれば、記録がない時代、らしい)のモヤモヤとした古代妄想感に目いっぱいに浸るって時間はできそうもない、かと、思いきや、そうでもない記述があった。
伊勢神宮の摂社・伊雑宮・イザワノミヤに“天真名鶴・アマノマナズルが稲の穂をくわえて湿地に植えているのを見つけた倭姫が驚き伊左波登美に命じて収穫し、その地に伊雑宮を建立した。天真名鶴を毎年到来する大歳神として佐美長神社を建立し祀った。その大歳神、天真名鶴を招来して紀国の調月・ツカツキに大歳神社を建立し祀った。
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戸河内インターからR186で左へ向かうと巨木の銀杏を見る。筒賀神社は角川地名辞典で大歳神社とされる。旧筒賀村は天上山の北山麓に広がって、中央部に棚田の井仁の集落がある。そのすべてに大歳神社が鎮座する。
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大歳神社祭神・天真名鶴から「ツルガ---ツツガ」との説がある。井仁の森を“引き明けの森”とはロマンチックだ。太田川を越えると大箒山、月の子原、その地名群に法印様がチラチラする。
井仁の棚田の谷、北斜面の独立峰の姿がすっくと空を切る。どうしても聖なる山に思える、が。修験者たちの時間、中世の景色が、ここにありはしないか。
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天真名鶴の飛ぶつるがの里。モヤモヤとした古代妄想感なのか。
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# by forumhiroshima | 2018-03-22 12:31

流れ星と月

矢口、月野瀬神社は弥生の集落にあって、平安末期にその記録があるという、その長い時間重なる境内の子供たちの遊び声がひびく。その神社の前にきっと、さかのぼった時間には湖があって、川湊があった、と妄想している。その湊にやってきた人々が出発した湊は加計の太田川と丁川との合流する所の元JR三段峡線(本郷線)の加計駅そばの月ヶ瀬ではないか!と名前繋がりで、重ねて妄想する。

今は廃線になった鉄道と船便との接点という重要な場所だ。そこは陸と川との接点を示している。加計の町並みに入るR433のトンネルを抜けてすぐの三叉路に大きな屋敷がある。鎌倉時代の隠岐国守護佐々木氏の末裔という加計の庄屋、鉄山師・隅屋の居宅。1661年からここにあるという。鎌倉幕府崩壊時、隠岐を離れてからの放浪の末の定着という。その屋敷南に旧JR加計駅、その川岸に月ヶ瀬の川湊とならんでいる。

加計の北部・温井ダムの西に大箒山という流れ星の名の山がある。その南山麓に月の子原があって、そこに宇宙人到来の泉岩という伝承地がある。もう宇宙がいっぱい。
ここに加計から走ったことがある。R191が消えR186と変わるループな不思議なポイントの加計山崎の信号交差点(R191は戸河内インターでまた現れる。不思議な訳は?)。ここは東西南北の交差点だと、加計はそういう場所だと、信号が点滅する。
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ここから西の滝山川の渓谷をたどる3.5kmの登坂ルートののち広々とした明るい盆地にでる。そこが月之子原だ。この坂、辛いような、そうでも無かったような印象。芸北の松原の虫木トンネルの上の残る東へ入る林道が大箒山を巻いてここに下り、加計の鉄山師・隅屋・佐々木家に向かう牛馬が行きかった道で、たたら鉄の運搬、たたら工夫たちの食料運搬の道だった。森の中の道は下草もなく、しっかりと踏み固められた感触が靴から伝わってきた。もちろん連れて入った相棒のMTBは荷物だったが、歴史を踏んでいる感慨がうれしかった。加計から牛馬の踏み跡を広げた滝山渓谷の道を登って月の子原に入る。そこには3.5km標高差300mのデーターで平均化することのできない「道」の色々がある。ここだけの「歌」があるのです。
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月の子原から南の戸河内へ向かって約6km、ストレートな、走ってはいるが、だた自転車に乗っかっている、ユルイ下り。誰も車もこないのびやかさで、暇でキョロキョロしていると、川向うの小高い丘の上にひょろりと散りかかったしだれ桜が見えた。橋を見つけて、花見にゆく。桜は1940年に「栗栖さん」が植樹した「与一野のしだれ桜」と説明版があった。
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HPで「与一野しだれ桜」を探して、HP..rogukameraで写真を見つけた。きれいな桜なのだと、おもった。が、散りかかったさくらの木を見上げて、発見!の感動は薄くならなかった。
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桜から戻って車道に入ってすぐに与一野大歳神社がある。平家物語の那須与一はこの地に到来し、ここで亡くなったから“与一野”との伝承もここにある。「エー色々そうなの」と景色を見まわすような伝承が、まるで遠野物語(遠い時間のある野の物語)。この野が古戦場であったことで、夜討野・ヨウチウノと無粋な説明もあるようだが、与一の墓まで用意されたロマンの前にはかすんでしまう。

加計・隅屋は、「たたら場2カ所,鍛冶屋11軒のほかに,酒造場4カ所を操業し,大坂通船2 艘,川船18艘,牛48匹,馬87匹を有し,土蔵数は36カ所,借家は489 にも江戸期にある大庄屋だった(芸藩通史)」。今も県内屈指の山林主だという。庭園・吉水園はこの家の別邸になる。 1814年に浅野藩から苗字帯刀を許され祖先の氏名・佐々木を名乗り、明治に“加計”に改名している。戦後加計学園を創建し、広島加計学園・英数学館、岡山理科大学を経営し、獣医学部を愛媛県今治に設置する。

与一野の道がストレートから川沿いに蛇行しだすとすぐに小さな分岐にでる。古道の雰囲気の右へ。すぐにトンネル、暗いね。出口にトンネルの上に古城・発坂城のあったとある。
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下りの左に奇妙といえるだろう、コンクリートで造られた藁屋根に卍マークの寺を見る。
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実際寺という。この寺の景色が広島から太田川を遡上して約60kmのポイント。与一野は寺領と呼ばれる地域の一部にある地名でこの寺の領地であった地名という。その重要さが感じられる。14世紀中葉創建とその歴史は古い。
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寺を過ぎてR191の合流地点から右へ少し走ると、右奥に大歳神社が見える。なぜかGoogle Mapには掲載されてないが、1311年創建のこの地域で最初の大歳神社。この神社を建立したのが、トンネル上の発坂城の主の栗栖氏初代。
「栗栖」が口田の弘住神社そばの小山へ長い石段の先にあった大歳神社と弘住神社の神主の栗栖正臣さんとが、クロスする。


# by forumhiroshima | 2018-03-19 10:44

川内町(河内郷)の迷路の道

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589年2月毛利輝元は吉田をたって20日に築城の場所の見立てに二葉山、牛田・新山、己斐・松山を視察、いまの場所に決定している。視察前に、案内人の安佐南区川内にあった福島大和守元長の屋敷に立ち寄っている。そののちに、福島家に敷物が不足しているようだと、調達し渡すよう申し送っている。(新修広島市史2)。福島家の質素な生活が思える。
一説として毛利家祖先の大江広元(胡町の胡子神社祭神)の「広」と“鍬はじめ・鍬入れ”の神事にも加わった福島元長の「島」を合わせて「広島」としたと紹介している。(新修広島市史2)

広島城築城から330年のち、浅野藩が作成した“芸藩通史”の添付された中筋・古市村地図に“福島宅址”と位置が記載されている。
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そして大正7年1909年の国土地理院地図に同じく“福島宅址”があった。
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この400年を超えて公式に記録される福島元長・宅址は普通じゃないな、いたく感じた。“広島の地名”に残された家名も伝承とはいえ、凄い。
「福島大和守元長は古代からの官人の家の人で“守”の位の称号をもつ、国人領主といわれ地元の豪族だという。安芸国守護に任命されていた武田氏(1300年ごろ銀山城建設)に被官し、1340年ころに守護代(現地知事ほどか)にも任命されている(東晧傅 修道大)。」銀山城落城・武田氏滅亡1541年には戦勝者大内氏から銀山城代に任命されている。そののち1555年厳島合戦の後に毛利元就の銀山城入城にも立ち会っていた。この時に毛利氏に所属している。元就はこの城を隠居所と考えていたといわれる(新修広島市史2)。その彼の太田川河口の情報は築城に欠かせない。
守護という行政長官に仕えた役人で官職名・大和守と代々名乗る彼の一族の太田川中流での長い戦乱を潜り抜け持続した時間は、これもすごい。

その領地に古代官道が通っていた。福島氏宅と地図に残っている場所の才ノ木神社が祈願所だといわれる。神社はその官道面していた。そばの堤に車道のすぐそばにわざわざ石段が残されているのは、古市の町中へと古川を渡る官道の痕跡ではないか。対岸の古市の小路を西へ入ると住宅に囲まれた江戸期の地図の山王社とある久保山神社前にでる。このあたりの迷路のような古道が氾濫原にのこった古代官道の痕跡だろうという(広島市文化財団)。福島宅址が才の木神社に隣接してあるように思う。古代安芸国佐伯郡と安芸郡の郡境界線がこの辺りにあった。才ノ木のサエは遮るのサエだ。福島氏は大内氏が武田氏を滅亡させたとき河内の領地を安堵されている。

1607年の太田川の氾濫で東の口田町と分離した。口田と中筋とは一帯だったことを知らなかった、おどろきだった。
口田の町をだから走ってみた。口田の弘住神社のHPに、兼務神社、のページがある。兼務とあるのは、ほかの神社の神主をされている、ということだろう。口田・月野瀬神社・新宮神社から、川内・温井八幡神社、東野・平堤神社、中筋・才ノ木神社、古市・久保山神社を兼務とあった。口田の町に大田川氾濫により新しい流路がうまれる前、までの古代からの行政区分にこの神社が全て含まれている。福島氏との関係を考えてしまう。弘住神社境内に廃止された小田の川渡しの石灯籠がモルタルで丁寧に修復されて、移設されていた。川により分かたれた向こう岸辺へのレクイエムか。
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月野瀬神社からJRのちいさな踏切をぬけて車が飛んでくる土手の車道にで安佐大橋を渡る。西橋つめの信号の交差点から右の土手の車道から分岐する小道へ。すぐ正面に中調子の胡神社の神額の鳥居。拝殿は恵比寿神社の神額、そんなことどうでもいいのだけど、気になる。
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「船乗りたちは太田庄の加計から一日で下ることができる。広島で夜を過ごせば加計まで次の日に帰れない。広島での荷下ろしを早く片付けて中調子までかえっておれば、次の日に加計まで帰れる。ということで中調子は帰路の宿泊地として栄えた。 (川内の生活1955.7広島大)」
そこの行きの荷、帰りの荷を求める人ができ胡子神社に市場が生まれる。市場に神様が鎮座する。品物をまずお供えし神様に預ける。神様のお供えになる品物なら間違えない、と求める人がいる。そこで御下がりにして頂く。ちょっと皇居への御用達の品物と似ている。御用達になるものなら、まちがいない。市場の信用の基準に自分ではない他者にあたる神様が勧請される。市場には必ず神社が鎮座する。それは品物から自分の所有権を抜いて、無縁にする。それも求める人とも無縁であって、交換することがシンプルになり、無限に拡大してゆける。気遣いは必要がない。品物に魂があった時代のことだが。

堤防の車道の下に平行してある小道を進むと、道に面してに民家が現れる。堤の車道より低い場所にある。「中調子の堤防の上には非農家が家並みをそろえているが、船乗りの帰航の宿泊地として栄えた(川内の生活1955.7広島大)」その古い堤防の痕跡だという
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。こういった場所は対岸の矢口はすが丘団地西のJR路線、堤防車道との狭い間の民家にも同じ痕跡を感じる。ここにも胡子神社があったが、それは今、新宮神社に移設されている。
すこし変わっている、ヘンだ、と思うこの場所には必ず訳があるものだ。(川内の生活1955.7広島大)の記述を読んでここに宿泊の集落があって、新設された堤防の下の横に残されたと理解で来た。川船の船頭さんが浮かんできた。ここで一服・・・。すぐそばに観音堂と鐘楼が古びて、用水路をまたぐようにある。昔の時が固定されてあった。
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堤防から川内へ入った。地図では結構方形に区分され道路網なのだが、(条理に区分された時代を感じた)。
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その区分の中は車道、路地、あぜ道、水路と交錯している。畑とビニールハウスと小さなプレハブの家、アパートも交錯している。
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とまどったが、すぐに、何処へすすんでも堤防にぶつかることに気づいた。迷ってもいい、余裕がでてきて、その分景色の細部が飛び込んでくる。農地に働く人影が多いのにビックリ。
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人のいる景色の中で一番が子供たち、次が農作業のひとたちを見るのがすきだ。景色に角がない。素直に心にとどいてきて、記憶にかわりやすい。その景色にこの町で出会った。

安佐南区区役所のまちめぐりのパンフレットを取り出して、福島大和守の墓所へ。
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HPに写真にあった住宅の中へ。驚いた、です、大きな墓標と五輪塔がない。まさに墓荒らしの行状。気分がわるくなった。
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思い直して、「中調子の明円寺は1506年行空の開基というが、1604年福島大和守の次男京進が行空に改変して開基したという」に直行した。もしやパンフにあったおおきな墓標がうつされていないか、と思った。そこで、見当たらなかった。
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とても、辛い気持ちが広がって、そこから急いで離れた。角のない景色が消えてゆく。
福島大和守元長は広島城完成前年の1597年亡くなっている。

# by forumhiroshima | 2018-03-10 10:33


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