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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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流れ星と月

矢口、月野瀬神社は弥生の集落にあって、平安末期にその記録があるという、その長い時間重なる境内の子供たちの遊び声がひびく。その神社の前にきっと、さかのぼった時間には湖があって、川湊があった、と妄想している。その湊にやってきた人々が出発した湊は加計の太田川と丁川との合流する所の元JR三段峡線(本郷線)の加計駅そばの月ヶ瀬ではないか!と名前繋がりで、重ねて妄想する。

今は廃線になった鉄道と船便との接点という重要な場所だ。そこは陸と川との接点を示している。加計の町並みに入るR433のトンネルを抜けてすぐの三叉路に大きな屋敷がある。鎌倉時代の隠岐国守護佐々木氏の末裔という加計の庄屋、鉄山師・隅屋の居宅。1661年からここにあるという。鎌倉幕府崩壊時、隠岐を離れてからの放浪の末の定着という。その屋敷南に旧JR加計駅、その川岸に月ヶ瀬の川湊とならんでいる。

加計の北部・温井ダムの西に大箒山という流れ星の名の山がある。その南山麓に月の子原があって、そこに宇宙人到来の泉岩という伝承地がある。もう宇宙がいっぱい。
ここに加計から走ったことがある。R191が消えR186と変わるループな不思議なポイントの加計山崎の信号交差点(R191は戸河内インターでまた現れる。不思議な訳は?)。ここは東西南北の交差点だと、加計はそういう場所だと、信号が点滅する。
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ここから西の滝山川の渓谷をたどる3.5kmの登坂ルートののち広々とした明るい盆地にでる。そこが月之子原だ。この坂、辛いような、そうでも無かったような印象。芸北の松原の虫木トンネルの上の残る東へ入る林道が大箒山を巻いてここに下り、加計の鉄山師・隅屋・佐々木家に向かう牛馬が行きかった道で、たたら鉄の運搬、たたら工夫たちの食料運搬の道だった。森の中の道は下草もなく、しっかりと踏み固められた感触が靴から伝わってきた。もちろん連れて入った相棒のMTBは荷物だったが、歴史を踏んでいる感慨がうれしかった。加計から牛馬の踏み跡を広げた滝山渓谷の道を登って月の子原に入る。そこには3.5km標高差300mのデーターで平均化することのできない「道」の色々がある。ここだけの「歌」があるのです。
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月の子原から南の戸河内へ向かって約6km、ストレートな、走ってはいるが、だた自転車に乗っかっている、ユルイ下り。誰も車もこないのびやかさで、暇でキョロキョロしていると、川向うの小高い丘の上にひょろりと散りかかったしだれ桜が見えた。橋を見つけて、花見にゆく。桜は1940年に「栗栖さん」が植樹した「与一野のしだれ桜」と説明版があった。
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HPで「与一野しだれ桜」を探して、HP..rogukameraで写真を見つけた。きれいな桜なのだと、おもった。が、散りかかったさくらの木を見上げて、発見!の感動は薄くならなかった。
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桜から戻って車道に入ってすぐに与一野大歳神社がある。平家物語の那須与一はこの地に到来し、ここで亡くなったから“与一野”との伝承もここにある。「エー色々そうなの」と景色を見まわすような伝承が、まるで遠野物語(遠い時間のある野の物語)。この野が古戦場であったことで、夜討野・ヨウチウノと無粋な説明もあるようだが、与一の墓まで用意されたロマンの前にはかすんでしまう。

加計・隅屋は、「たたら場2カ所,鍛冶屋11軒のほかに,酒造場4カ所を操業し,大坂通船2 艘,川船18艘,牛48匹,馬87匹を有し,土蔵数は36カ所,借家は489 にも江戸期にある大庄屋だった(芸藩通史)」。今も県内屈指の山林主だという。庭園・吉水園はこの家の別邸になる。 1814年に浅野藩から苗字帯刀を許され祖先の氏名・佐々木を名乗り、明治に“加計”に改名している。戦後加計学園を創建し、広島加計学園・英数学館、岡山理科大学を経営し、獣医学部を愛媛県今治に設置する。

与一野の道がストレートから川沿いに蛇行しだすとすぐに小さな分岐にでる。古道の雰囲気の右へ。すぐにトンネル、暗いね。出口にトンネルの上に古城・発坂城のあったとある。
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下りの左に奇妙といえるだろう、コンクリートで造られた藁屋根に卍マークの寺を見る。
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実際寺という。この寺の景色が広島から太田川を遡上して約60kmのポイント。与一野は寺領と呼ばれる地域の一部にある地名でこの寺の領地であった地名という。その重要さが感じられる。14世紀中葉創建とその歴史は古い。
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寺を過ぎてR191の合流地点から右へ少し走ると、右奥に大歳神社が見える。なぜかGoogle Mapには掲載されてないが、1311年創建のこの地域で最初の大歳神社。この神社を建立したのが、トンネル上の発坂城の主の栗栖氏初代。
「栗栖」が口田の弘住神社そばの小山へ長い石段の先にあった大歳神社と弘住神社の神主の栗栖正臣さんとが、クロスする。


# by forumhiroshima | 2018-03-19 10:44

川内町(河内郷)の迷路の道

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589年2月毛利輝元は吉田をたって20日に築城の場所の見立てに二葉山、牛田・新山、己斐・松山を視察、いまの場所に決定している。視察前に、案内人の安佐南区川内にあった福島大和守元長の屋敷に立ち寄っている。そののちに、福島家に敷物が不足しているようだと、調達し渡すよう申し送っている。(新修広島市史2)。福島家の質素な生活が思える。
一説として毛利家祖先の大江広元(胡町の胡子神社祭神)の「広」と“鍬はじめ・鍬入れ”の神事にも加わった福島元長の「島」を合わせて「広島」としたと紹介している。(新修広島市史2)

広島城築城から330年のち、浅野藩が作成した“芸藩通史”の添付された中筋・古市村地図に“福島宅址”と位置が記載されている。
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そして大正7年1909年の国土地理院地図に同じく“福島宅址”があった。
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この400年を超えて公式に記録される福島元長・宅址は普通じゃないな、いたく感じた。“広島の地名”に残された家名も伝承とはいえ、凄い。
「福島大和守元長は古代からの官人の家の人で“守”の位の称号をもつ、国人領主といわれ地元の豪族だという。安芸国守護に任命されていた武田氏(1300年ごろ銀山城建設)に被官し、1340年ころに守護代(現地知事ほどか)にも任命されている(東晧傅 修道大)。」銀山城落城・武田氏滅亡1541年には戦勝者大内氏から銀山城代に任命されている。そののち1555年厳島合戦の後に毛利元就の銀山城入城にも立ち会っていた。この時に毛利氏に所属している。元就はこの城を隠居所と考えていたといわれる(新修広島市史2)。その彼の太田川河口の情報は築城に欠かせない。
守護という行政長官に仕えた役人で官職名・大和守と代々名乗る彼の一族の太田川中流での長い戦乱を潜り抜け持続した時間は、これもすごい。

その領地に古代官道が通っていた。福島氏宅と地図に残っている場所の才ノ木神社が祈願所だといわれる。神社はその官道面していた。そばの堤に車道のすぐそばにわざわざ石段が残されているのは、古市の町中へと古川を渡る官道の痕跡ではないか。対岸の古市の小路を西へ入ると住宅に囲まれた江戸期の地図の山王社とある久保山神社前にでる。このあたりの迷路のような古道が氾濫原にのこった古代官道の痕跡だろうという(広島市文化財団)。福島宅址が才の木神社に隣接してあるように思う。古代安芸国佐伯郡と安芸郡の郡境界線がこの辺りにあった。才ノ木のサエは遮るのサエだ。福島氏は大内氏が武田氏を滅亡させたとき河内の領地を安堵されている。

1607年の太田川の氾濫で東の口田町と分離した。口田と中筋とは一帯だったことを知らなかった、おどろきだった。
口田の町をだから走ってみた。口田の弘住神社のHPに、兼務神社、のページがある。兼務とあるのは、ほかの神社の神主をされている、ということだろう。口田・月野瀬神社・新宮神社から、川内・温井八幡神社、東野・平堤神社、中筋・才ノ木神社、古市・久保山神社を兼務とあった。口田の町に大田川氾濫により新しい流路がうまれる前、までの古代からの行政区分にこの神社が全て含まれている。福島氏との関係を考えてしまう。弘住神社境内に廃止された小田の川渡しの石灯籠がモルタルで丁寧に修復されて、移設されていた。川により分かたれた向こう岸辺へのレクイエムか。
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月野瀬神社からJRのちいさな踏切をぬけて車が飛んでくる土手の車道にで安佐大橋を渡る。西橋つめの信号の交差点から右の土手の車道から分岐する小道へ。すぐ正面に中調子の胡神社の神額の鳥居。拝殿は恵比寿神社の神額、そんなことどうでもいいのだけど、気になる。
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「船乗りたちは太田庄の加計から一日で下ることができる。広島で夜を過ごせば加計まで次の日に帰れない。広島での荷下ろしを早く片付けて中調子までかえっておれば、次の日に加計まで帰れる。ということで中調子は帰路の宿泊地として栄えた。 (川内の生活1955.7広島大)」
そこの行きの荷、帰りの荷を求める人ができ胡子神社に市場が生まれる。市場に神様が鎮座する。品物をまずお供えし神様に預ける。神様のお供えになる品物なら間違えない、と求める人がいる。そこで御下がりにして頂く。ちょっと皇居への御用達の品物と似ている。御用達になるものなら、まちがいない。市場の信用の基準に自分ではない他者にあたる神様が勧請される。市場には必ず神社が鎮座する。それは品物から自分の所有権を抜いて、無縁にする。それも求める人とも無縁であって、交換することがシンプルになり、無限に拡大してゆける。気遣いは必要がない。品物に魂があった時代のことだが。

堤防の車道の下に平行してある小道を進むと、道に面してに民家が現れる。堤の車道より低い場所にある。「中調子の堤防の上には非農家が家並みをそろえているが、船乗りの帰航の宿泊地として栄えた(川内の生活1955.7広島大)」その古い堤防の痕跡だという
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。こういった場所は対岸の矢口はすが丘団地西のJR路線、堤防車道との狭い間の民家にも同じ痕跡を感じる。ここにも胡子神社があったが、それは今、新宮神社に移設されている。
すこし変わっている、ヘンだ、と思うこの場所には必ず訳があるものだ。(川内の生活1955.7広島大)の記述を読んでここに宿泊の集落があって、新設された堤防の下の横に残されたと理解で来た。川船の船頭さんが浮かんできた。ここで一服・・・。すぐそばに観音堂と鐘楼が古びて、用水路をまたぐようにある。昔の時が固定されてあった。
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堤防から川内へ入った。地図では結構方形に区分され道路網なのだが、(条理に区分された時代を感じた)。
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その区分の中は車道、路地、あぜ道、水路と交錯している。畑とビニールハウスと小さなプレハブの家、アパートも交錯している。
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とまどったが、すぐに、何処へすすんでも堤防にぶつかることに気づいた。迷ってもいい、余裕がでてきて、その分景色の細部が飛び込んでくる。農地に働く人影が多いのにビックリ。
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人のいる景色の中で一番が子供たち、次が農作業のひとたちを見るのがすきだ。景色に角がない。素直に心にとどいてきて、記憶にかわりやすい。その景色にこの町で出会った。

安佐南区区役所のまちめぐりのパンフレットを取り出して、福島大和守の墓所へ。
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HPに写真にあった住宅の中へ。驚いた、です、大きな墓標と五輪塔がない。まさに墓荒らしの行状。気分がわるくなった。
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思い直して、「中調子の明円寺は1506年行空の開基というが、1604年福島大和守の次男京進が行空に改変して開基したという」に直行した。もしやパンフにあったおおきな墓標がうつされていないか、と思った。そこで、見当たらなかった。
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とても、辛い気持ちが広がって、そこから急いで離れた。角のない景色が消えてゆく。
福島大和守元長は広島城完成前年の1597年亡くなっている。

# by forumhiroshima | 2018-03-10 10:33

古墳の間・一間道

口田町にある道しるべとポストの分岐の東の尾根の古墳から卑弥呼の三角縁神獣鏡と、リストバンド古代版の緑色凝灰岩の車輪石が発掘され、4世紀の歴史が現れている。卑弥呼、車輪石の車輪に過剰反応してしまう。(中小田1号古墳・国指定遺跡)

車輪石  「古墳に葬られた死者の副葬品として発見される。そして大型の古墳には数多く副葬された事例をみる。身を飾る装身具というだけでなく、死者の生前の地位を象徴していた。しかし、腕を通すにはあまりにも孔が小さいものもあるので実用でなく、権威を象徴する宝器であったとみる考えもある。昔、京都にお住まいのお公家さんの末裔の中にはこんな小さな孔でも通す細い手首の方もいたと、ある先生から教わった。仮に手首に通せたとしても、腕飾りとして持ち上げ続ける力がそのお公家さんにあったか疑問だから、やはり腕飾りとしては非実用の場合もあったのであろう。古い頃には碧玉(へきぎょく)主流の材質であったが、新しい時期になるとほとんどが緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)に替わった。(国立歴史民俗博物館)」
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古墳のある町、豊かさから生まれたにちがいないその痕跡を抱く景色を示すいささか自慢げな掲示板。その指す方向に姿をさがしても、多くは尾根の森の中に隠されている。なのに、その森を忘れていないことが多いようだ。
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山陰・石見、益田の山陰の海が遠望できる久城の町がある。季節の海と空をだけが見える水仙が咲く崖っぷちの道そばのスクモ古墳から車輪石が発掘されている。その「外形が環状のものは石釧(いしくしろ)」とよばれる。発掘品・クシロが町の名になっている。古墳埋葬品が地名?になっている。とても価値があったのだろう。胸張って“クシロの町”です。
車輪石はここ口田の町から大田川を50km遡上した河畔の筒賀の横路小谷古墳でも発掘された。四世紀が川でつながっている。「車輪石は、初期の近畿政権の手によって一元的につくられ、各地の首長に配布されたものと考えられる。ニッポニカ」

小田用水とJR路線に沿う道を北上する。右手2ツ目の踏切を渡って車道を横切り路地を道なりに緩やかな登りで中小田公園がみつかる。その西隣に祠を包み込む椎の木の中に古墳の入口が正面に開いている。そこにしめ縄が張られて、平野神社と大穴牟遅神とある神額がある。大国主の別名とされる神名だが、シンプルに古墳の穴の奥の祖先が神、それでいい、とおもった。いや、大穴牟遅神・オオナムチは祖先が眠る古墳なのだ。とても可愛らしい。子供たちはきっと、もぐりこみたくなるだろう。
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古墳のすぐ下の教円寺の墓所の石垣(古墳と今の墓地のセットは何処にもある)をまわって、車道を横切り小田用水の流れそばの道にもどって北上する口田小学校教材の「ふるさと口田」に、学校西にある杉崎山に大歳神社があって、そこに5世紀中葉の円墳に枕石を置いていて、多数の鉄製品が検出と記載がある。「枕石」?なに。北枕って言葉もあるな!。大分宇佐神宮は枕がご神体のひとつになっている。「枕石」になにかありそう。
そのお宮がなかなか見つからない。Google Mapにも記載がない。探して通ったはずの路地の民家の奥にはさまれた結構急坂の石段とその上の鳥居をやっと見つけた。
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神社は新しく拝殿が再建されたようだ。その後ろの石垣が丸い川原石で一部に造られている。
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どこか特別ななにかが雰囲気がただよう。「安佐南区まちめぐり」のパンフレットに“とんこ石組”とあった。大田川流域だけの石組みらしい。この情報が気になっている。古い鳥居に大歳神社との神額がかかっていた。(後日訪れた矢口の西願寺古墳の石組みが“とんこ組石”になっていた。モルタルもないころ、楕円の枕に似てる石で壁を組んでいた。)
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,もどって小田用水の道を北上する。農業用水には片側だけに道がつくことが多いようだ。田が掘りこんであるのは水面を用水の水面より下げるため。出た土砂は畑の土盛りや家の建設用地用に使用された。川は排水用、落とし水にと、設計されている。

用水道を進むと正面の森に鳥居、それも二種類の神社が現れる。
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祭神がきっと複数だったのだ。すぐそばにJR線路。上に高架で車道、騒音が降ってくる。「ふるさと口田」に背後の森には縄文、弥生の土器が見つかった太田川流域最大規模の前方後円墳だとあった。新しい高架の車道で削られたとある。本殿右後ろに巨木の杉に注連縄。そばをぬけて登ってみた。踏み跡のような木々の間の痕跡をたどって、尾根になる場所でビックリ、古墳のモニュメントが場違いに鎮座している。この古墳が神社のご神体だろう。ここからガラス玉が1731個もみつかっている。ここは縄文土器、弥生土器も見つかっている。数千年の時、ここは、きっといつも聖地だった。
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JR芸備線の路線を渡って車の高架くぐり進むと矢口川の河畔のお地蔵さんも座っている古びた小道にでる。この道が好きで幅1.8mほどで「一間道」と命名している。江戸期の村道のサイズが一間ほどだ。
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農協前の信号で車道を横切る。矢口川の集まっている三つの橋のそばの登りの小道へ。矢口川の左岸をたどる道は手すりが設置されて、小学校の通学路に整備されているのかもしれない。走りやすい、静か。
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橋にであってそこでUターンして川沿いに車道に変わった道を下ると新宮神社の御神木の銀杏が見えだす。祭神は大山祇命と「ふるさと口田」にあった。関ケ原戦い前年1599年の建立。
神社を抜けてから直進しカーブミラーの四つ角を右。この道が旧県道、ここに西の幹線車道へ移転した郵便局跡があった。この町の昔のメインストリート北上して広い車道の交差点の正面に見える幅一間の路地へ。また「一間道」が現れる。道に時間がとどまっている古さ。おばあさんの妖精がいます。その古さを証に道なりで幹線車道にでて、横断して三叉路に先ほどの路地の続き「一間道」を見つけられる。

「一間道」の右の石垣の一部が開けてその奥に神社を発見する。
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入口の石垣に神社由来がかかげてある。
「推古天皇は、河辺臣を安芸国に遣わして船を造らせた。舟材として霹靂・ヘキレキの木があったので伐ろうとした。そのときある人が、霹靂の木(雷神の宿る木)です。伐ってはなりません。雷電がおこり大雨になります。といった。河辺臣は、「木こりを害するなら、自分の身を傷つけよ」と祈った。雷鳴が轟いたが河辺臣は無事。雷神は小さな魚になった。この魚を木の枝で挟みとって焼いたところ雷もおさまり無事に船が造られた。そこで別雷神(加茂大明神)を祀り、この地を大明地と称した」
河辺臣が安芸国で造船をしたところを船建築材の場所・古代船木郷にあてている。古代安芸国船木郷は三原市本郷町船木、呉市三津田、安芸高田市高宮町船木が比定される。本郷町船木には霹靂神社が二つ鎮座している。高宮町船木は江川に2kmほどの場所、呉市はいまも造船のまち。本郷町船木は沼田川河畔にある。
ここが造船の場所だっただろうか。
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境内は広くその端にスタジイの木(椎木)が二本そそりたっている。雷のおちた木・霹靂の木には神威がやどるという。ここ月野瀬神社に霹靂の木があったのだ・・・ろうか。境内の椎木の祖先だろうか。そうそう、二葉里の鶴羽神社はその昔、椎木八幡社とよばれたっけ。
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本殿背景の森から弥生時代後期の村がみつかっている。すぐ上の山陽道の高架があるとは思えないくらい静かだ。すこし高い境内に社務所がある、閉鎖された南向き空間で、空が広がり明るい。とても落ち着ける。弥生の時間が感じられるから、なのか。

神社のすぐそばから南へ一間道と交差する道がコンクリートで固められた溝を渡る。そこに流れるのが絵坂川。大阪の江坂の淀川(神崎川)の氾濫原の地名を連想する。月野瀬神社由来にここは大明地とあった。大明池、イケではないのか。
※太田川河川の試錐資料(ボーリング)を検すると新流路・いまの太田川に厚い粘土層があり水流の停滞によるもので、河跡湖の推積層を示す(広島の農村1995)

この町の古墳、古跡は海抜15mほどに点在している。太田川の氾濫のデーターで標高10mまでだという。広島城は標高6mにある。それでは江戸期に氾濫に洗われた。平成22年7月にJR安芸矢口駅標高9mが水没している。
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縄文・弥生の人々の川沿いの氾濫原のあった湖を古墳時代の人々が大明池とよんだのでは。ここに矢口に流れ込む川の流れは西へ東原・中筋の北岸を進み古市で本流に流れ込んだのだろうか。
「一間道」は標高10mほどで、この氾濫原の岸の道ではないだろうか。
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1371年大宰府に赴任する室町幕府の九州探題・今川了俊が三原市船木そばを通過したの紀行文「みちゆきぶり」で残している。
「日が暮れてしまってから、河面に舟をうかべると、夕闇のなかの山の端のかげもおぼつかないのに、ほたるがかすかに飛びちがって、なんとなく心細い。そこへ松明をとぼしてやってくる人々の火かげが川の波にキラキラとうつろって、まるで鵜飼いでもしているようだ」
この矢口の湖が存在したら?の景色昔を妄想させてくれる。

# by forumhiroshima | 2018-03-03 12:34

大田川の流路ストーリー

戸坂から河畔を北上する古道が芸備線にそって走り出すとすぐに幹線への分岐に出会う。そこに郵便ポストと道しるべの石柱が並んで迎えてくれる。チビッコな情報をお仕事ご夫妻に思えた。名前を付けて呼びたい!カワイイ。
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お父さん?の石柱に「左 東野 渡テ 古市ニ通ヅ」と刻まれる。道を進んでJRの高架橋手前で車道を横切ると足元に小田用水にそった道がみつかる。
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用水にそった道がJRの踏切を渡るその先に弘住神社と深い森が現れる。
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この神社は川向うの中筋の福島大和守の祈願所の才ノ木神社の祭司を勤めていた。
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弘住神社の祭祀圏は矢口・小田と対岸の古市・中筋・東野であったという。930年ごろ、このエリアは安芸国・田門郷・タト、よばれていたとの記録がある(倭名類聚鈔・延喜式)。
聞き語りなのだが、胡町の胡神社の祭司は広瀬神社が担当されているという。
市内の広瀬神社は毛利元就の菩提寺の洞春寺があった場所で、胡神社の祭神が毛利家祖先の大江広元であることにかかわりがあるのかもしれない。神社の祭祀圏・氏子のエリアは何かしら昔の当たり前が埋もれているようで、覗き込みたく、知りたくなる。
この田門郷と呼ばれた場所に条里制の土地開発の痕跡は現在残っていない。氾濫頻発の所だから消滅した、のだろうか。

「古代に条里制の開発が進められたのは収穫への税金賦課の計算に便利であったことにもよるが、大きな理由は牛馬農耕が人力の2.5倍の効率があり、耕地を方形に、尚且つ一辺60間ほどに整備すると30間の耕地とでは前者の効率が後者の1.2倍になることによる。(開拓の歴史・宮本常一)平安時代に拓かれた水田の大半が条理制の設計であったことは、圧政による押付けからではない」、という。「増産する生産機構を斉一化したことで国民意識が生まれ、国力の伸張するときの国全体にみなぎる気風を万葉集の数々の歌にうかがえる。宮本常一」
そのための農耕馬の生産は、東に向けた峠越えで馬木、12世紀の記録にある豊平、また佐伯も牧がある良馬の産地だった(広島県農業発達史)。

古代の“田門郷”矢口・小田・東野・古市・中筋を今の町行政区分で大正7年国土地理院地図に記載してみた。
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地図では区分は古市・中筋・東野を合わせて三川村となっている。東から太田川、古川、安川の三川か。一つの町に三つの流域が入っている。この区分は明治22年古市・中筋と東野の合併によっている。町の区分は太田川を渡って右岸の高宮郡(1664年浅野藩により安北郡から改名)に含まれている。すぐそばの大町・祇園の太田川左岸は沼田郡(佐東郡からの改名1664年)になっている。川を境界としない不自然さがある。とても気になっている。
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明治31年(1898)に安佐郡となり昭和55年(1980)に広島政令指定都市指定時に安佐南区が成立し、太田川の右岸に所属し、区役所が古市に設置され区の中心になった。大田川左岸の矢口・小田が合わさった口田は安佐北区にふくまれた。1607年の洪水で生まれた太田川から373年後となっている。
三川町の南の古代幡良郷は古川に分断され東原・西原に代わっているがここも三川村とおなじ変遷をたどった。

古代に安佐郡と佐伯郡の境界は古川だった。1607年の新しく流域を変えた太田川を行政区分では安佐と佐伯をミックスして安佐郡としたのが明治31年(1891)。氾濫するたび現れる流路にもてあそばれている様子だ。
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いきなりですが、自転車は道を走る。その道に駐車や障害物があると、えらく腹がたつ。個人的な道路使用は許せない!。ここは公共なエリアである、と。が、自分も走りながら道を個人所有しているのである。
ふと思う。土地の境界区分に打つ杭は、はたしてどちらの所有なのか?。
境界が線で描かれても、その線はどちらの領域に所属しない。線でなく面で不確実な領域を境界と認められると、その面はだれの所有でもない。支配するものが居なくなる空間がうまれる。

この河の流路の変遷が行政区分の不確定さをつくってきたのだろう。そこは河原で水に沈む氾濫原だった。
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この流路の変遷を歴史の中の追った論文が広島文教女子大のHPに見つけた。「中世地域経済の発展と広島湾頭 角重始」(図1 古代~中世の太田川流路図)
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① 太田川は可部で北から根の谷川、東から三篠川と合流し南下する。流路に砂州ができており、いまの高瀬堰あたりで東西に分流していた。東の流れは矢口から西へ急角度に流れ、田門郷の北の境界となった。
② 西の流れはいまの古川の流路をとり古市で西の旧安川を含んだ流路で南下する。田門郷の北辺を流れてきた東からの流路は古市あたりで合流する。
③ 古市から旧安川に流路で南下する。いま公園になっている旧古川よりも広い流域をもっており、東原と西原に地域を分割した流路は遅く戦国時代になる。
論文の図1には流路は①②③と流れ④の流路で大芝水門あたりで海へでたと説明される。④から⑤に分流したのは中州別符(いまの中須)古河村(いまの古市)と氾濫原の地名を残すことから、このあたりが安川・古川が合流しまた分流した場所で今の古市橋あたりだろうという。ここに1955年に安川が古川へ流す放水路が過去の流路跡につくられている。中筋は流れが集中した場所、いわゆる「筋目」からの地名ではないかともいう。

安川の「安」はもしや「野洲」では?。琵琶湖東の野洲市は野洲川が山地から出てそこにつくった扇状地の氾濫原上にできた町だ。などと妄想がふくらむ。
古代の田門荘の北の境界線が、古太田川の東の流路と関係あるのか、はわからない。ただ道路や水路の方向を想像するしかない。

大田川の流路の変遷について地理学からの論文が広島修道大学のHP掲載されている。東晧傳「前近代における広島湾頭地域の開発とその進行」。地形から読み取れば、矢口から西へ洪水時には流れができる、とある。掲載された図で矢印を赤くしている。
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広島築城に関わった福島大和守の痕跡をさがしていて、いつの間に古代からの安佐、佐伯両郡の境界線を不明にした流路を探すことになった。そこに生まれた無縁所ともいう氾濫原に立ち上がった人々の生活の痕跡の道がそこにあること、に興味がうまれた。

ただ氾濫原が頭の中で暴れて、しまっている。

# by forumhiroshima | 2018-02-24 10:15

ストリート、ストーリィ・条理制の道・福島大和守を訪ねる

430年程前の天正17年(1589)2月20日。 吉田町を出発した毛利輝元が北庄(広島市安佐南区川内あたり)の福島大和守元長の屋敷を宿舎にして己斐・松山、明星院・二葉山、比治山に登り、広島城の場所を定めた。(広島市新史)。福島元長の屋敷が浅野藩・芸通藩史(1825年完成)にある絵地図に書き込まれている。どんな所にすんでいたのか?
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江戸期の芸通藩史の地図にある福島氏屋敷跡の八幡神社が地名だろう才ノ木に記載されている。いま才ノ木神社として古川(旧太田川)の面してあり、福島氏の祈願所であったという。「才ノ木」は「塞」、さえぎる神で境界を示している。キは城ではないだろうか。ここに福島氏の邸宅という城塞があったと、妄想すると、何だかどこかでみた戦国の映像がうかんでくる。

この場所は古川を渡って古市という昔の市場に賑わいを思わせる場所に渡る地点で、ここに屋敷、城塞があるってことは、川を渡る人から通行税をいただくtoolgateなのでは。福島大和守は渡し人・船頭さんの親方のだろうか。

「どこへ行くのよ、知らぬ土地だよ・・・」渡し場って心地よい響きがある。千葉・松戸の矢切は谷・ヤのオワリ・切、谷を出てきたところ。ここの矢口は谷・ヤの入口、これから谷を登る。追分は山へ分け入る。落合は下ってきて出会う。旅の言葉に憧れる。

古代山陽道・大宰府官道がこの才ノ木神社そばを抜けている。福島氏の神とともにいた官人としての姿が浮かんできた。古代の行政は神に寄り添っているように感じている。大和守という朝廷が下賜する官職の位が輝く。官道は府中町を経由して戸坂から古市、大町へ、とむかったという。

古代山陽道・大宰府官道が府中から戸坂へ入る場所に7,8世紀、条里制といわれる長方形が並ぶ田が拓かれた。そこに中山峠の谷から南へ流れる中山川を条里制の地割に直角に曲げ合わせる古代の川の付け替え工事の痕跡がある。JR芸備線の中山踏切を府中町へ向かう土手道がそれだ。

そう知ってここに立つと、なぜか時間の重層なんだと、感慨がある。今は広島駅への高速道路の工事で、美しかった土手桜並木もさっぱりとバッサリ伐採されてしまった。2018年の春が一つ失われた。
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踏切を越え川が屈折する所を右へ土手をくだる道が、古代山陽道でいまはJRの車両基地の新幹線車両がズラリ見えるのフェンスにぶつかる。道は基地のフェンスにそって南下し、バイク・自転車・人、通行可の長い長い陸橋を登り車両基地を東へ越える。ワクワクする長さ、眼下に新幹線車両、チビッコがいれば大喜びだろう。陸橋を下ると、幹線道路にのみこまれるが、府中本町の古代山陽道・大宰府官道になる古道へつづく。
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桜が伐採の土手は条里制時代の設計でその南北の角度が安芸郡系条理角度といわれ(祇園あたりの条里制の痕跡は佐伯系といい安芸系とは角度が異なる)。安芸系は中山峠を越えて、戸坂の条理制のラインに現れる。条里制は神社を基点に設計されている。その一つの基点が西の狐爪木神社・クルメギ、また一つが東の三宅神社の位置とされる。戸坂に安芸系の条理制の区分が残されている。
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中山峠の登り約1.6km標高差45mほぼ直線の古代官道仕様と、JR路線が平行してシートで覆われた路線の無機的な景色が、つらい。下った戸坂の町並みに入ると、道や水路が直角に交差している。それに引き換え西の狐爪木神社のあたりから道が交錯しはじめる。この対比は条里制の名残の景観となることを残しているのだろうか。古代の課税単位は「束・ツカ」で、戸坂にある“千束”地名はそんな遠い時間の豊かな収穫の景色を思わせる。農地の広がる景色があっただろう。
戸坂の西の町・くるめ木の並みの道は曲線に交錯している。鎮守の狐爪木神社のクルメギはクルメク、川が大きく蛇行する場所に付く地名との説明は納得させる。川が残した不規則な砂州にそって人々が寄り添って交錯する道になり、広がった町なのだろう。クルメについた「キ」は「城」でここの小山に中世の城があったと妄想したくなる。尾根の先っぽを切り落とし、城にする瀬戸内海の海賊たちを感じる。そばに八坂神社・祇園さんがあって、古い賑わいがあっただろう。路地の郵便局の景色も古風がある。

安芸大橋にもどる。ここに吊り橋があった記憶があって、昭和27年に架けられたとHPで見つけた。それまでここに渡船があったそうだ。条里制の安芸系角度も太田川を渡り、東原にその直角な道筋で痕跡を残している。
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安芸大橋のすこし川上で川を渡ったといわれる官道の直線の道の痕跡は600mもすると行き場を失う。条里制の痕跡もそこから北では失われる。
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1607年、洪水で東原と戸坂の間にあたらしい川が現れた。それまであった安芸角度の条里制は途切れることなく両岸に残った。土地が分断されたことの証が安芸系条里制が担っている。

# by forumhiroshima | 2018-02-20 13:17


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