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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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ストリート・ストーリィ 俺は権現

福島正則の広島は1601年から1619年広島在住とされているが、彼は留守がちだった。「1607年江戸城修築、1611年丹波篠山築城、1612年から名古屋城築城の直接参着、工事督励を勤め、1612年から1616年江戸参勤滞在を余儀なく」と 図説広島市史にはある。

名古屋築城では海からの導入線の堀を開設し、その堀は福島左衛門太夫正則の名から“太夫堀”とよばれている。

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先般のNHKブラタモリ・名古屋で正則さん、見直され来年銅像ができるという。

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その正則は広島では東西に横断する西国街道を導入し、北への雲石(出雲・石見)街道を整備した(広島県史)。広島でも忙しい。浅野藩となっての江戸期1633年に幕府から国々へ巡見使という観察役が派遣され、それによって道が整備。

雲石街道の道幅は7尺の2.12mほど。道は馬と牛と人とが使えればよかった。ちなみに古代飛鳥の西国街道の幅は二十数mという。奈良・平城京の中央の朱雀大路は70m、道じゃない、まるで天安門広場や金日成広場とイメージです。

古代西国街道の痕跡は一番近くて西条町の東・土与丸交差点辺りにその痕跡があるときいて、その気配を嗅ぎに走ったことがある。十数メートルの道幅の痕跡ぐらい匂うだろうと。そこは古西国街道でもあって山中に一里塚の痕跡が残っている。古代街道は直線に建設されたというのだが。交差点東の広い谷間と直線の道路はそれなのだろうか。大変な工事だろう。でも巨大古墳造った時代なのだ。古今、為政者にとって道の建設は最重要事項なのだ。

広島築城の毛利輝元の元城下・吉田―広島のルートは「慶長以後往還土橋通り五竜山南麓下小原往還筋広島より三次へ本海道に相成 高田郡村々由来記」に書かれたのが最初とされている。関ケ原の合戦のころの記録とされている。往還と呼ばれるのはいまの国道とか県道とかのように役所に指定された公用道だという。たしかに江戸期の街道とされたコースがそう呼ばれる。また、各地の御坂とよばれる峠は京へのルート上にあること、とも言われる。古代に税は個人で運んだころがあったという。故郷へ帰れなくなった、イヤ帰りたくなくなった人々が奈良一体に国別に町をつくり、古里の名で今も呼ばれる。故郷へのルートはのちのちまでも記憶されただろう。

正則によって整備されたとされる雲石街道は可部の町で分岐して石見へは西へ南原ダムを登る。登り口に一里塚遺跡が整備されている。出雲へは北の上根峠へむかう。

「村々由来記」にある五竜山はJR甲立駅前からR54へ向かった道路が江の川を渡ったところで、小原の地名がこのあたりにある。JR芸備線とR54が広島をでて初めて出会いそこに江の川がある、という交通の要所だ。東へ世羅台地、西へ高宮との交差点でもある。安芸高田市の古代からの郡名の高田はこのあたり高田原をいう。中世の領主・宍戸氏の名が五竜山ふもとの宍戸神社とのこされていて、領主の屋敷をいう「館・ヤカタ、タチ・タテ」が甲立の地名の由来か、と妄想している。

戦国の道のスタートが土橋とある。安芸府中の町から尾長へ府中大川を渡る橋は少し前まで府中土橋と呼ばれていた。「村々由来記」のルートはR54でなく旧高田郡の交通の要所-甲立へのJR芸備線ルートではないか?との疑問があった。可部の奥の崖を登る上根峠、吉田の入口になる土師ダムからの流れの可愛川と南からの斐川が合流する地点の入江・石原・久保などの氾濫原の地名が思わせる湿原の通行困難さ(ここはR54ほか通過ルートがない。明治政府の木戸孝行充・またの名・桂小五郎の祖先はここに城を築き通行監視と通行料徴収)などが疑問だった。

だが福島正則の雲石街道整備伝承ルートと「村々由来記」ルートとの関係は浅野藩広島入城時の地図を見ていて、「これか!」と気付いた。西国街道から分岐する地点は堺町になるがそばに土橋町がある。そのあたりに地図に堀がみえた。そこを渡る土橋が地名で今にのこっている。

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堺町から街道は寺町をぬけ、天満川は渡し舟での渡りだったという。分岐から渡し場まで直線に延びている。いかにも計画されたルートに見える。道に連なるお寺は正則が武田氏城下の祇園にあった寺や牛田からも移設さしている。直線のルートを地図で伸ばし、北上すると、阿武山の南の双耳峰の権現山山頂へぶつかった。権現の地名はそこら中にころがっている。神も仏も習合して権現と呼ぶ。どこにもある名だが、ここでは道先の案内で道の鎮守の権現さま。ではと、南へと直線を伸ばすと、残念にも舟入南で本川へ落ちた。

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この直線ルートを見ていて、平安京の西の風水といわれる、都の西にわざにおかれたという木嶋大路(現・周山街道)を思い出した。この大路の北の基点の双ケ岡と権現山・阿武山のありようが似ている。

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この権現山に毘沙門天を鎮座させた武田氏の一派、甲斐武田氏が支配していた長野・飯田市の飯田城が広島城築城のころの豊臣時代に、あたらしく城下の都市計画がすすめられた。飯田市美術館の発刊した飯田と京都の風水・四神相応概念図に、飯田城下の中央主軸に権現山がおかれている。この設計者の京都の儒学者・光増右衛門は飯田を「京都にならいて之を正す」といい木嶋大路が西の白虎だといっている。
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そして小京都が誕生している。「小京都」が各地に増産された訳に“風水”があるのかも。福島正則にとっても、無視できなかったし、採用したのがこの雲石街道ではないか。

正則が「直接参着」したという名古屋城はその中心軸を磁石の極北線を採用していて、西に街道が北上している。都市設計に風水は戦国大名のトレンドなのか、などと、おもってしまう。

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正則が整備した西国街道の東は尾長の才蔵寺の才蔵峠からだろう。その道も愛宕明神前から猿猴橋までの直線をもっている。

「芸州福島左衛門太夫正則の家中で、七百石可児才蔵吉良・カジサイゾウヨシナガといえば、太閤存生のころから世に知られた豪族だったが、奇癖があった。この男はしんぞこから自分は人間ではない、と思いこんでいるようであった。山城愛宕の勝軍地蔵が、かりに人間の姿に現じてこの世にあらわれているのが、とりもなおさず可児才蔵である、と信じているらしい。勝軍地蔵とは、愛宕権現ともいい、軍神として諸国の武士から尊崇をうけている仏霊である。「うそではない」と才蔵はいうのだ。「わしは愛宕の勝軍地蔵の縁日である二十四日にしぬるぞ」その予言が証拠だという。愚にもつかない。 司馬遼太郎 “おれは権現”」

「元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。日本伝承大監」

日本伝承大監は解説で、才蔵は1613年に死去、福島正則の改易は1619年と史実と違うとある。この道も権現を守護神としている。

※司馬さんは才蔵が広島城南の猿楽町に屋敷を持っていたと書く。その町で自分は生まれた。コバイイ。

福島の名の川は埋め立てられたが、町名で残っている。「明治39年、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年323日ついに福島町となった。 新広島市史」

「八助は正則の夭折した嫡男の正友か、養子の正之か、ともいわれる。家康の養女が妻の正之は正則から「乱行だ」とされて幽閉、餓死」ウイキペディア。

幽閉・餓死の記述に驚いた。

1619年改易となり信州・川中島へ498千石から45千石まで減転封となったが、ここにも堀をつくり太夫堀の名をのこしている。

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# by forumhiroshima | 2017-10-31 09:54

ストリートストーリィ W・アーケイド

毛利の広島城下町は京橋川、流川、平田屋川、西搭川、と縦断する川や掘割の運河で南北に区分され、それらを東西に連結する道は設置されていない。築城に材料置き場だったといわれるいまの平和公園あたりの中島から城への元安橋が猿猴橋・京橋とならんで築城当時の橋だといわれる。戦国末期に活発化した船の運輸をとりこむ基地としての機能以外に毛利のお殿様は必要としていなかったようで、「縦(立)町」都市ともいわれる。いまならメイン滑走路の二本の掘割を完備した飛行場のようだ。

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この飛行場を横断する道を福島正則が設置した。これが、市内のいまの「江戸期西国街道」にあたるルートは江戸時代に幕府による指図で整備されこの時期に一里塚があらわれてくる。

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猿猴橋から西国街道はホテルのビルの敷地に消えて、南へ次の交差点を西に渡ると京橋商店街の道で現れる。西の京橋を渡って、「西国街道」のルートは幟町交番で左折し南下、電車道を渡って二つ目の交差点を右、三越デパートの南の胡通りから金座街に入るルートが多くのガイダンスにある。幟町交番の道が薬研堀という運河だったから、これに道が遮られて南下したのかなどと、想像する。

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胡神社はこの街道設置の際に十日市交差点の西の榎町にある恵比寿神を、この界隈の賑わいの核として街道に面した胡神を拝むには都合よい場所に勧請した。と思えるが、浅野藩広島入城の後1644年の城下地図には赤いラインがひかれて、さもこれが街道です、とある。ルートでは、京橋を渡って交番まで行かずに、二つ目の信号で左折。電車道を越え弥生通りを南下し徳栄寺角を右折し中央通りを渡って広島パルコ横から金座街に入る。

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本通りそばの袋町小学校の2年生だった昭和29年(1954)に通学路に天井ができた。アーケイドといって、びっくりしたし、見物客が通学時間にもたくさんおられた。金座街のアーケイドは遅れて1961年だそうだ。

本通りと金座街とのL字の連結部にはアーケイドな設置されてない。軒先の雨よけほどの構造物がある。思えば奇妙な空間が空に開いている。空間から東へ、パルコの北側にアーケイドが設置されて、天井に「KINZAGAI」と透かし文字が見える。

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福屋デパート南のアーケイドは金座街のデザインとは違っている。ここは胡通りで金座街ではないのだ。天井のアーケイドのデザインを比べて見なきゃ区分できない。中央道りを越えて神社まえに同じデザインのアーケイドが設置されてこの道が胡通りなんだと分る。

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「地霊」という言葉がある。ゲートのファウストの冒頭にあるという。もちろん読んでいないのだが。都市の変貌、都市の変化の話などといわれても、あのあたりのことだとイメージ出来るときと、できない時がある。できると、その変貌・変化がああ、あの土地辺りのことだとイメージでき、その話が理解できる。それが「地霊」の存在が現れるときだという。

その「地霊」が自分に現れるのがここだ。三つの商店街が巴に重なり合うなかで、ポッカリと空に突き抜けた空間は、ここにキリンビールのビアレストタンがあり、府中のイオンはキリンビールの工場跡で、西国街道に面していた、などイネージすると直ちにカンビールに手が行くのも、ここに「ビールの地霊」がいるから。

だから、アサヒビール館の信号を渡って入る金座街アーケイドが16440年城下地図の西国街道だろう、と決めた。アーケイドがこの商店街の境界の空間の地霊が現れた。

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もう一つ・奇妙な、と感じる場所がある。京橋の西から2ツ目の信号から弥生通りへ入るあたりにそれを感じる。京橋川河畔の厳島神社の土手の石垣の内側につけられた道への小さな坂道と、えらく明るいが雑多な空気が漂う橋本公園がある。河畔のレストランも雑多さに風を送り込む。この辺りは京橋川雁木群と呼ばれる雁木の集合地帯で厳島神社ばかりか、金毘羅さんも鎮座して海の神様も集合する船の港だった。

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「橋本」と橋のたもとにつくここらの地名は橋の存が大きかったことなのだろう。川岸の土手内側につけられた道のある場所は岸が川へせり出した痕跡で、その工事でできた干拓地の特徴を残す。景色に段差が横たわって、これが、妙な明るさを感じさせるのだろうか。「地霊」といえよう。

埋立地にはこの土手内の道はつくられない。その区分が景色で見分け出来る。堤を造り中の水を抜くのが干拓で、土を運んで埋めるのが埋立地。干拓は後で作る水路から水が取れ農地が生まれるが、埋めると高くなって、水路は地表より深くなって灌漑出来にくい。客土と呼ばれる土砂運搬作業には多人数が必要になる。コストパフォーマンスは干拓にあるのだろう。古くからの土地づくりの伝統が見える。

空鞘神社の前も公園と土手内道路がある。もとは船溜まりの川湊だろうか。公園は船溜まりの痕跡か。遥か昔の賑わいが漂っている。「サヤ」は溝の意味もある。サヤマメには溝があって筋を抜くと、豆がでてくる、そのサヤだ。「空」は「上」ほどの意味と考えれば、上流の掘割となろうか。

弥生通りから金座街へ右折する交差点の徳栄寺は戦国の石山寺合戦で毛利方水軍の水先案内人・休信のいた光明坊が前身だという。広島城下に引き込まれた海の匂いがしてくる。


# by forumhiroshima | 2017-10-15 15:19

ストリート ストーリー 福島正則の西国街道

平和公園の慰霊碑と原爆ドームを結ぶ聖ラインを横切る道を公園の設計図には記載されてなかったといわれ、西国街道という歴史が考慮され残されたと聞いている。元安橋から公園に入ると道が屈折する。

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公園ができる前の町の図を中国新聞が掲載していた。これにはかぎ型に道が作られていた道が、いまの公園では緩やかな曲線にかえられているが、痕跡としてのこったことがわかる。西から侵入する敵を待ち構える「遠見遮断」という。「道」は武力の舞台。

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この街道を毛利氏退去の城下に設置したのは福島正則で、東の府中町にあった古代西国街道から城下に引き込こんでいる。

福島正則の痕跡は白島から牛田へ渡る神田橋のそばに小さな祠の八剣神社がそうだといわれる。

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「福島正則公のこの地に残る唯一の治世の史跡である」と掲示されているが、この祠だけとは、ちょっと正則公がかわいそう、だ。この神社は正則公の故郷尾張の荒神さんを勧請したのだろう。
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ここは天守閣と牛田山を結ぶラインにあり、城下の平田屋川ラインの最北部基部にもなる。神田山は広島築城の基線・阿武山の真南に位置している。祠は結構マジカルなポイントに鎮座されている。天守閣はキリスト教の天守からの名だというから、マジカルな気分があふれ出すのも仕方ない。正則公所属の信長・秀吉系列の施策はいまでも新さを感じる。

「愛知の神社」(愛知県郷土資料刊行会)という本を図書館で読んだのですが、その本によれば、
八剣社の御本宮は熱田神宮の別宮、八剣宮(草薙剣の模剣を祀ったのが起源)であり
そのことから、八剣社とは草薙剣と草薙剣にまつわる神々をお祭りする神社→日本武尊を祭神とする神社が多い
…ということになるようです。
八剣社は尾張に60社(そのうち40社は日本武尊を祀る)三河に21社もあるそうで、
尾張地域では実に、分社数が上から5番目…通りで多いわけです。  http://yutu.blog43.fc2.com/blog-entry-335.htmlより引用

毛利輝元の築城の際に行った吉田からの引越しのルートは吉田町の東の峠を越え向原へ出て三篠川沿いに下り、狩留家から馬木の峠越で温品に降りるといわれる。府中の南には海が迫っていた。西に横たわる尾長の尾根の先端は岩鼻と呼ばれる岩礁が海に洗われていた。温品からの毛利の引越便のルートと思われる大内越の峠道は大正のころまでただの小道だったと、矢賀郷土誌・山田隆夫にある。引越荷物はどう運ばれたのだろうか。

大内越に入らず南下する矢賀の尾根の麓の道周辺は毛利時代に直轄領となり、城の東の守護の目代が置かれていたという。引越のルートは大内越ではないようだ。では、尾根をどこで越えたのだろう。

福島正則の広島での末期の地図がある。

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府中から三つの橋を渡り矢賀で尾根を越え、今の光町にある我羅我羅橋跡、二葉の里に流れ込んでいた古川が地図では片河橋と記載されて、ガラガラはカタカワの読みが変わったのかと思われるが、そこを渡り、猿猴橋へのルートが記載されている。正則公設置の西国街道かと、思われる。

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となると福島正則の西国街道のルートは西から進むと猿猴橋から直線に尾根に登り、家臣であった可児才蔵の伝承がある才蔵寺・味噌地蔵が名高い前寺をすぎ、トップから急坂を下ると矢賀の古道に恵比寿の祠よこにでる。これが正則の西国街道なのだろうか。この峠を矢賀峠とも才蔵峠ともいうのだそうだ。

恵比寿からの急坂は旧市内屈指だろう。ヒルクライムでは、とても達成感のあるルートだけど、岩鼻の岩礁も細粉・撤去されマンションが林立してから、車が走ってることが多くて、車に尻に付かれると、こちらは遅すぎて申し訳なくなって、やめてしまうことになった。久しくいってない。市内屈指なのに、なぁ。

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正則公時代の地図から40年のち、浅野藩の時代になっていた1653年に洪水の災害が尾長、矢賀などで発生し、そのときの堤を修復した地図がある。

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古川(片河)は埋め立てられ、海に一斉に新開という干拓地が生まれている。岩鼻はまだ海で、岬の先端に岩礁が書かれる。まだ岩鼻、いま矢賀のJR芸備線をアンダーパスで道がぬける場所に堤の記載がみえる。

尾長の尾根を回ることができるようになっている。この堤が峠下の恵比寿の祠へと結ぶ。矢賀土手道と呼ばれた。

修復された矢賀土手道は1663年に作成された浅野藩の地誌・芸藩通史の矢賀村の地図に記載され、岩鼻から府中の土橋(いまの府中大橋のすこし上流にあった)へ直線の道が記載されている。1633年に幕府が各藩に幹線道の整備が命じられ検分使が派遣されている。この整備で作られたといわれるが、街道松が見える。コウノトリがこの街道の松に営巣したとの記事が残っている。兵庫・豊岡のコウノトリたちは三次市三良坂のダムに現われている。広島に現われるのを待っている。早よ、こいヨ!。

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江戸期1825年改訂版の芸藩通史にある城北の図は広島駅周辺地図。そこに古川村が書き込まれている。今の天神川は古川と大須新開の干拓の排水路をいっているのかもしれない。府中大川への排水口の水たまりあたりに南蛮樋門の記載がある。

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これらの堤防道を推定でだが、たどってみた。「オタク、だなー」が感想でした。


# by forumhiroshima | 2017-10-03 10:20

ストリートストーリィ 二葉山・牛田山あたり

ストリート・ストーリー  二葉山・牛田山あたり

「関ヶ原の敗北で一朝にして没落した。幕府によってわずか防長ニ州に閉じ込められ、・・・“城も山陽道は好ましくない”といわれ日本海岸へ追いやられた。・・・持ち高を四分の一に減らされたため、家臣の員数を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についてゆくと泣き叫び・・・広島から萩へとつづく街道は、家財道具を運ぶも人のむれで混雑し、・・・どの家臣も、食えぬほどにまで家禄をへらされた。 歴史を紀行する・司馬遼太郎」

広島へ入城してきた福島正則は尾張・清州の20万石、毛利輝元は120万石、その家臣の数の違いもその石高ほどちがっていただろう。福島家家臣数は14766人と詳しく広島市史にあったが、毛利家の家臣数は分からない。毛利が去った城下はひどく殺風景なまばらな街並みではなかったのではないだろうか。寺院や屋敷は解体され運び去られていただろう。

宮本常一が古里・周防大島の実家付近の庄屋で毛利家元家臣で帯刀を許されていた家の老人が、竹光の刀を腰にさして畑で鍬をふっていたと書き残している。広島退城から400年の景色があった。

「江戸時代の武士たちは拝領屋敷というのに住み、諸国の江戸詰めの藩士たちはそれぞれ各藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷などに住んでいた。こうした屋敷は幕府によって与えられたものだからいわば官舎のようなものである。 東京の地霊 鈴木博之

幕府の滅亡とともに、武士たちはその屋敷を出て国元へ帰されたのであり、旗本たちの多くも、将軍が新しく一大名となって住むことになった静岡へと下っていった。

こうして主を失った武家屋敷は明治政府によって没収されてゆく。これが“上地・ジョウチ”である。これらの土地が新しく再配分されてゆくことになるが、それまでそこら中が“原っぱ”であった。 鈴木博之 東京の地霊」

関ケ原ののち、広島城下そこら中が“原っぱ”の地に福島正則は「家中侍町を縮小させ、町人町の占める割合を拡大する方向をとり、二葉山・牛田山の山麓を通っていたルートを城下町に引き入れ東西に貫通させた。図説広島市史」

福島正則は尾張・清州から船で入城している。ここでは軍を陸路で動かせない!とでも先ずおもったのだろうか。毛利氏の水軍たちは防府へ集結して、福島正則の海の制覇の手段はなかった。

「二葉山・牛田山の山麓を通っていたルート」とは?

古代官道は都から長い道のりで西条町、府中町と安芸の国に入る。古代平安以降の国府があったといわれる古代の安芸国の首都・府中町から中山峠越えで戸坂へ抜け、沼田川河畔を上り五日市へ抜けていた。府中町でその官道から分岐して二葉山や牛田へ、つながる道があり毛利築城以前にこの海岸線を支配していた武田氏へ山口から大内氏がこの道で東から侵入している。府中町の武田氏家臣の白井氏支配のための進軍ルートに尾長の尾根を越える大内越と大内の名を残した峠がある。「戦い」「越え」の地名に源義経のヒヨドリ越を連想していた。厳しい登りか?と。

大内越の西側からの登りは 瀬戸内高校を右にすぎて、左にフェンスでかこまれた山根町第二公園の北の三叉路を左にはいる。どこか古道の趣に引き込まれる。進むと三叉路の分岐に、中央の細い路地へ入る。この道は表道のバスやこの峠にある斎場への車の車列を避けられる。「越え」とは言えない緩やかな登り道だ。斎場のある場所は元の旧陸軍演習場だった。

東からの登り中間でフラットになる。ここに池があった。埋め立てられ住宅が建て込んできている。「ここは沼だったのですよ 虫しぐれ」先日のNHK俳句で聞いた歌。そうそう数年前までは草っぱらで、きっと“虫時雨”が聞こえただろう。

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「道」という漢字は敗者の首を掲げ行進し、邪霊を払う場所のことという。「路」は邪霊が払われ清められた場所だという。古代から幹線道路は軍が移動し、支配するためにあった。大内進軍の馬の蹄鉄の音や明治帝国陸軍の軍靴の足音が響いた「ころ」を思う。が、ここの路地には狭い、がかくれんぼの遊びのような興奮があって、うれしい。

大正14年版の地図に大内越の西に東練兵場が広がり、その中央に尾長天満宮の長い参道がみえる。練兵場を別けるような立派なその参道に驚く。二葉山に参道がかかるとそばに谷沿いに破線で示されたルートがある。ルートが尾根を越えると九十九に下る。

今、破線が車道になった道で尾根を越える住宅地をぬけて市民農園の畑にでる。ここに掲げられた標識でこの道が「天神通」と呼ぶことをしった。この市民菜園は菅原道真宿舎地伝承の清水屋敷跡でここの石清水井戸から川向うの縮景園にパイプで水を送ったと説明板がある。小さなポンプがその井戸だとある。ここに古山陽道で通ったと掲示されている。 菅原道真と弘法大師の伝承は古道とどこも結びつく。都の風、新しい文化も道を流れくる。

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この天神通は天神さまには申し訳ないが、走るにはあまり面白くない!。細い急坂の車道を住宅が覆い被る暗さと湿気が体を固くする。尾長から牛田と古集落を結び、府中と祇園という古い中心地に延びる古道が二葉山を割って超えるのは、二葉山の西端の饒津神社の先は猿猴川に洗われて通るには安定していなかったからだろうか。今も饒津神社の東の小道を登るとグラウンドのフェンス横から下りに入り桜土手にでる。川沿いを避ける小さな地元の抜け道の様子だ。

猿猴川はここ饒津神社で分流し、二葉山南山麓に古川という分流をつくっていたといわれる。明治には古川村という集落もあった。広島駅になったあたりになる。二葉山の南山麓の古風景は砂州を示す大須賀、大洲、その上に生える松原などの地名でしか知り得ないのだが、これら川原に関わる地名たちが、その地が埋め立てられ今フラットな地面に変貌したのだと自転車は教えてくる。

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「信長の苦心などは、こんにちの交通条件の上を走っているかぎりは、まことに実感をうしなう。 街道をゆく9」とは播州攻略に苦心した信長に贈られた司馬遼太郎の言葉だが、今の道々にも、どこかに自転車のハンドルから伝わってくる、昔の苦心を見つけることがある。

砂州が広がり芦原であったろう東西3kmは、元寇以来のロシアのアジア進出、外来勢力の襲来の恐怖の時に、海と山に守られ北方から首都から遠くなる穏やかな土地に兵士が集められ、大急ぎで首都からの鉄道が引き込まれ仮の首都となった。

今、高速道路の連結道路トンネルが掘られ、高速鉄道、列車、市電、バスを集結させようとしている。交通の要所とは、大阪梅田がそうであるように、埋立(ウメタ)された場所にうまれるのだろう、と二葉山山麓の歴史の道をながしてみた。大内越の西の取りつきから瀬戸内高校を左にみて江戸期西国街道・大内越通りで愛宕の踏切へむかった。

福島正則の西国街道は、尾長の尾根の西端から砂州に土盛して畷とよばれる直線道としてつくられている。それを府中と牛田とをつなぐ天神道に連結させて城下へ引きこまれた。その直線の人工さが、信号や踏切や新しい幹線道路に分断されていても、ハンドルから伝わってくる。

司馬さんに自転車乗らせたかった、なぁ。福島正則の苦心が路面から伝わってきます。


# by forumhiroshima | 2017-09-22 09:39

8.6 2017

原爆ドームと慰霊碑のラインを地図に落としてみた。広島城築城のおける町割りのライン、天守閣と阿武山の連結線に平行に北へ延びると、阿武山に至ることに気づいた。天守閣からのラインは国土地理院1/25000の示す山頂よりわずかに北東へずれている。ドームからのラインは正に山頂に到達する。阿武山のピークの400年前は違っているかもしれない。だからこの二つのラインはパラレルにある。と決める。つまり、天守閣の建築の南北-東西の設計線は平和記念公園の慰霊碑、資料館及び東館、会議場とまったくパラレルだということになる。

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この結果にはすこし引いてしまった。そして笑った。参った。ありえん。いや、まさに広島を背負っているラインだ!(極北をいだかない基本ラインがあっても、いいか!。と妥協したくなる)丹下健三が認定した基軸ラインなのだから、と。

丹下神が降臨する。すると公園の道路が気になりだす。

ドームのラインの基点の資料館ピロティから、左右へ二本のラインが中心線に対象に北上する。ラインは慰霊碑よこから道となって現れ、左は相生橋の連結部に届かず手前の道路に。右は元安橋の西端に届かず、手前の川岸道に合流する。道路としては、すこしおかしいと思う。設計としては、道は橋へ直接連結する、その合理性が見られない。何か?ある。この設計では人々は必ず直接に連結する踏み跡をつくろうとする。

左のラインは南北に設計されていて、東経132.4522の子午線となっている。右のラインが広島城の陸軍大本営跡へ向かっている。

ドーム中心軸ラインに左右対称に引かれたラインが一つは南北の子午線で、一つは明治の広島の中核へと通る。その起点は資料館の中心にある。

設計に子午線、ドーム、広島城を左右対称にした意図ではできない。基点を通る子午線と原爆ドームラインはたやすく決められる。が、原爆ドームのライン中心に子午線と左右対称に引かれるラインが広島城の中心点に通るのは偶然でしかない。三つの要素は公園の設計以前にある要素だからだ。なのに一つの秩序で完成させられている。宇宙の調和を形成している。無理なのにできてしまう。奇跡とよぼうか。

資料館のピロティから慰霊碑に向かって狭まる台形に彫り込まれた芝生が美しい広場は小さな傾斜をもって慰霊碑へのまるで瀬戸内のガンギのような石段にむかって沈んでゆく。まるで海で沐浴潔斎しているようだ。その思いを慰霊碑を囲む水が強調する。

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慰霊碑の向こうのドームとの間に、厳島の弥山の消えず火をうつした炎が立ち上がりドームを陽炎のなかに揺らす。鈴木博之のいう厳島が再現される。


今資料館は工事の白いフェンスにかこまれて、そのピロティの眺望は遮られている。

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慰霊碑前の台形の広場の東西の道を地図上で南方向へ伸ばしてみた。

東は広島湾に円錐形に浮かぶ似島へ、西は江波山の元気象台へ到達する。

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1959年江波山の東の皿山のあった火薬庫の爆発事故があった。中学生だった。すぐに相生橋へ走った。まだ木々もまばらな平和公園の向こうに黒煙が上がっていた。そのころ広島の町は見通し良かった。

黒煙の景色を思い出して、丹下健三が公園設計の着想にこの地に立って眺めまわした風景に見通しできる山々へ、それもドーム中心線に左右対称に南下するラインが現れたのだろうか。


1949年(昭和24年)に制定された平和都市建設法による平和記念公園のエリアに原爆ドームは入っていなかった。


そのころ原爆ドームは台風が襲来の度ごとに、特に南のラセン階段あたりが崩れ落ちていた。子供たちの遊び場だったドームを囲んでいた、さびて切れている鉄条網の柵を撤去し鉄製フェンスが設置されたのは1960年代の初頭ではなかったか。それでも子供たちはフェンスをよじ登っていた。そののちの1966年に市議会が決議し原爆ドーム保全の寄付金募集がはじまった。被爆の記憶のドームの保存か否か、広島の人々の思いは揺れていたのだろう。


広島平和記念公園完成式のあった1954年昭和30年から11年目の保全決定。丹下健三の設計基本線のポイントの原爆ドームはすこしずつ崩れながら、それでも爆風に耐えたように被爆から21年を耐えていたことになる。丹下健三もドーム保全決定まで耐えていたのだろうか。イヤ、ドームは“ヒロシマ”を背負って立ち尽くすと予見していたのだろう。あの宇宙秩序を呼び込む北上するVライン、山を走る龍の風水の知恵を思い起こす南下する∧ライン、この奇跡とも思える着想は、のち、宮島とセットされた世界遺産として実現した、と美しく語るほかナイのだろうな。


ふと、丹下健三はドームが失われても、平和記念公園の基軸ラインは原爆ドームを人々にいつでも再現させるだろうと、確信していたのかもしれない、と思いだした。うしなわれたものほど、大きいのだと。


※この基軸ラインを平和道りとの直角になる交差で求めたといわれる。が米軍の原爆投下直前のS45.7の航空写真ではまだ百メートル道路とよばれた軍による強制立退きで計画された平和大道の基本線は現れてはいない。この道は空襲に際の防火帯として考えられたものだという。軍は平和道路などつくらない。防火効果のある広さはいるが、直線として管理するほどではないのだから。帯であって道ではない。いまも幾分曲線をもっていて、広島城下基軸ライン(大手通り)に直角に交差してはいない。自転車で東から西の山を目印に走ってみればわかる。

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この国は、中心の広場から同心円にまた放射線状に道が広がる町はお好きでないようだ。この円心状の道は町を囲み、放射状の道はその囲みの外の異界・周縁に切り込む。町は城壁で内向きに固定される。このような壁の区分は造られてすぐに伏見城へ解体された京都・聚楽第の土手のほかまだ見ていない。

部屋を障子やドアで区分していても開けば一体化する生活のように、いくつもの多様なものがつらなって、それらの一つ一つの障子をあけて尋ねるように、道は開放されて家と道との区別を失い“庭”となってしまう。路地は花壇となる。

この国の旅の一つに三十三か所、八十八か所、百景、と個別だが連なりとして括ってしまう事がある。東海道五十三次のように「次ぎながら」旅は直線状につらなっている。聖地の巡礼が輪になって連結する旅となるのは、そこが辺地・ヘチ・遍路、この世と冥界との境界を回ることのためで、それゆえ無限に連結させる。地の果て“偏、辺”であるから直線は境界を越えられず、戻されるから連結するのだと、認識するからだろう。死をもってしか越えられない。円は空である。

広島と長崎の平和記念公園は平和都市建設法によって、その成立はつながっている、が個別である。この間を走ればそれは平和行進や巡礼とよばれるだろう。その旅は連なる町の障子を一つ一つ開きながら訪ねるものにしたい。その道は車に占有されず、人の道路であった江戸期山陽道や小倉からの長崎街道の古道を走るものになるほかないだろう。そこには、きっとその町の障子があるのだから。その旅の中で広島の基軸と尋ねた町の基軸との違いに広島を自分の中に再現出来るかもしれない。

201786の朝の公園は早朝から人の群れで埋まっていた。皆カジュアルな軽装で集まってくる。いつも、この日に、ここに、平和への一体感が生まれる。だれも平和を守ろうとしている。公園の木陰に置かれたTVのモニターからの黒い正装の声はいつものようにその人々の遥かに上をすべってきえる。ボーイスカウトの少年と、彼が配る片手いっぱいの献花用の束が朝日の中で輝いて、アットの間に人々に渡され、受け取る外国人たちに、仏たちのような微笑が口元にこぼれた。

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広島城天守閣の位置を見立てしたという己斐旭山と尾長山とのラインの中央公園に一つの慰霊碑がある。8.6早朝に訪れた。

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「爆心地から、南に向かってまっすぐ二里の海上にある島にいた挺身隊の少女が、放射能の閃光の一瞬後、ガラスの破片で片方の乳房をえぐり取られたという話を作品の中に描こうとしても、容易には描き得ない。」原爆にかかわる作品を残した大田洋子の碑だ。

悲惨さの繰り返しはもうたくさんだ!との自分の思いに、だからもっと伝えなきゃいけないのよ!との大田の声がかぶってくる。だから、あなたは・・・、ドームは立ちつくしているのよ。

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# by forumhiroshima | 2017-08-06 17:29


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