こひちろうの独り言 |
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平和公園から南下1.5km。吉島のおおきなゴルフ練習場や住宅展示場を囲む弓形の道があって、元安川西河畔からすこし下る弓の弦になる道に入った。直線に西へむかって信号のあるその向こう角に店中が洗われたように瑞々しい、店の戸は十分に風を入れるように畳まれて隅っこに、ステンレスのショウケースが光っている、そんな魚屋さんがある。裏の路地に評判の酒屋、もっと奥の路地にお酒のディスカウント店。そばに銭湯。この町に住むってことは、横文字で、ラッキー!。 店をすぎての向こうの西空に大きく広がる緑が頭を出しているのを見つけた。ドキドキしだした。府中町本町の路地の向こうにそびえるクスの巨木に出会った時もそうだった。あの町の路地に泉が湧き出て、板塀下の疎水が音を立てて流れて、「暮らし」という言葉が浮かんできた。 どこかの町中で出会う巨木からは、ひどく目立つのに、やさしい、何かが降りてくる。おおきな緑で町を包み込んでいるようなハーブな気分が降りてくた。ここ吉島にも、巨木がある。街角を回れば、もう旅(永六輔)。 緑の下の石組みに赤い鳥居がある。緑の正体の大きなクスの木、そのそばにエノ木が並んで冬枯れのエノ木は枝だけの頭が背伸びしている。吉島稲荷神社の神木たちで被爆樹木に指定されている。先日ここにNHKのこころ旅で火野正平さんが現れていた。 この境内で読まれた手紙はこの町に数年赴任した青年の思いでの木々だとあった。彼の心にのこる暮らしが木々の下にあった。 吉島町・西、東吉島町は江戸期から明治までに干拓された(図説広島市史)。海の干拓地は堤防で囲まれて、中に塩抜き用の排水路が造られて後に農地にされる。市街地化すると堤防上に家が建てられ、水路は暗渠か埋められて道路に。 そこに堤防の石組みがその景色に残され、水路は直線に道になっている。干拓事業の区分も道として残されて、ここの弓型の土手道にも街並みの歴史が埋め込まれている。時間の影のスライドショー。なかでも、その景色の変遷を3Dとして稲荷社の木々が、自分をドキドキさせる。 そんなドキドキが干拓されてこの町に生まれた、元の海の呼び名が知りたかった。広島築城まえに広島湾はないだろう。“築城まえの海”などとは、いいたくない。 「もしもし中途などにも、少し逗留も候ては、笑止千万、興あるべからず候。川の内(エノウチ)警護船五六十ほども仕立て候申し越し候、小早川・御方警護、六十艘七十艘も御着候はば、・・・・」毛利元就が小早川隆景に厳島合戦まえにおくった書状だ。 「川の内はまた江の内ともある。江と川とは同意に通用した。江の内は広島湾頭、今の広島を中心とする海浜地帯であろう。神武天皇東征のここでの行在所は埃宮・エノミヤといった。埃宮・エノミヤは江の宮の意で・・・ 長沼賢海・海賊」 どうも、元の海はエノウチと呼ばれたらしい。 安芸国の古代の一の宮(厳島神社はのちの昇格)だったという速谷神社(HPによれば)のそばに流れるのが、可愛川・エノカワ。安芸国国府在所といわれる府中町の埃宮・エノミヤ(ただしこの宮は明治時代建立)そばの川は榎の川・エノカワと「エ」が現れる。こじつけっぽいけどね、矢野町絵山や宮島のそばの絵の島はどうなん!中区の榎町は?。等々。 そうなると「エノ木」は、とても気になる。 民俗学者の柳田国男は、神を勧請する木があったという。それを「タタイの木」という。“タタエ”る木かもしれない。諏訪神社の御柱のモミの木も、京都・上賀茂神社の御神木・椎の木も「タタイの木」だという。またタタイはタタリに通じ、 神をまつり神意を伺う場所に生えている神が降臨してくる木をいう。神が降臨する場所は木だけだなく、岩だとか、立てた竿でも良かったようだ。神は必要に応じて一時それらに鎮座し、神域を巡回している。のちに、この巡回道に岩や巨木の代わりの祠がおかれる。 エノ木が祟ることのエピソードに幕末宮家から徳川家に嫁入り(降嫁という)された和宮の行列が京都からの道中、嫁入りの行列はこの前を横切ると祟りがあるとされる中山道にあったエノ木を避けたという。この木には神威がやどる。 福山市の西の郊外の山手町の西国街道の交差点に一里塚だったという表示があるそんなに大きくないエノ木がある。松じゃない、のが不思議だった。どこか元気なくて、地元の皆さんに避けられているのか!と木にむかってたずねた。県内唯一の一里塚エノ木さまだ!と返事が・・・。 エノ木は巡回する神のルートを示す「タタイの木」であったことが忘れられてしまったが、かろうじて微かに一里塚の木とされて、記憶をのこしたのだろう?と、は、おもえないだろうか。歴史の記録が残されていないころ、人と植物との交流とは今では考えられないほど深いつながりが、植物の生態のあり方をもってあっただろう、と誰も理解している。 柳田国男はエノ木に寄生木(ヤドリギ)が付きやすく落葉した高木を注目したのでは?という。またこの木は枝を落としたり、伐採したりしても、盛んに「ひこばえ・孫生え」する。この萌芽更新の生態は被爆し根本から伐採され、再生した白神神社の前にあるエノ木に見られる。この再生能力も「タタイの木」の要因かもしれない。モミの木は、独立樹木としては一世紀は超えないという。諏訪神社御柱の七年更新はそこらを感じさせる。 エノ木の「榎」の漢字は国字(日本でつくられた漢字)で大陸では「朴・エ」と書かれる(日本人と植物・岩波新書)。この字が木偏に卜(占い)で「エノキ」と読まれるという。古くは占いに使われた信仰に関わる木ではなかったか?とある。なんとか「エ」が現れた。 明治20年の地図に吉島につくられた干拓地の荒野にポツネンと稲荷社が記載されている。社の横に「天明七年(1718) 空鞘稲荷神社の分祠としてこの地に建立す」と由来が建てられている。 以前江戸期の一揆を以前に調べたことを思い出した。天明三年浅間山大爆発以後の関東地方飢饉で米が江戸へ価格高騰をねらって米が集中し、江戸ばかりか地方各地で一揆発生、広島では天明七年五月に発生している。エノ木もここへ嫁にきたのだろうか。丁度300年前の混乱の時、干拓地の荒野の原っぱ中央に祠が海を背景に置かれた景色は夏の青空の白い雲の中に浮かんできた。その景色は神々しい。 神社から西へ細い路地を抜けると変形の四つ角にでる。 元は土手だった道は吉島小学校にでる。ここは大正期にはまだ海だった。学校の北の五角の小さな交差点に小さな祠が二つおかれている。ここを神の所在としたのは人間である。 南へ入る路地だろうか。その神の巡回道がここまで延びて、吉島の鎮守の神のエリアがひろがったということなのだろう。 吉島は葦が生えていた島の地名。今島であった痕跡はない。ただ吉島町というシンプルな地名と、地域の中心地だったことが多い郵便局と、地域にとって共同の場所で人が住み始めてから必ずつくられる墓地を探す。墓地が道奥に見えるお寺そばに、萬象園と浅野藩時代の領主一族の別荘の名のつくマンションがあった。Google Mapで細かいゾーンで標高がわかる。すごい!。マンションエリアが周囲より幾分高い標高に出てくる。きっと、ここなのだろう。
しかし、走ってみて傾斜はないような??MAP計測では2mもの標高差があったのだけど。どうなん! #
by forumhiroshima
| 2018-01-17 11:39
黄金山の周回の古道沿いの民家の塀越しに山茶花が開きだした。
数年前に、もみの木公園のサイクリングコースがトップからワインディング始めたポントの夏の陽だまりに、白い小さな花が密集した手のひら程の扇形になっていて、その扇の塊にヒラヒラと動くものたちを見つけた。いい気分の下りコースでも、でも、ブレーキレバーをひいた。あのシーンかもしれない。 ずっと以前、芸北の臥龍山から掛頭への縦走路の緑の森の木漏れ日をスポットライトにした蝶の群れにつつまれたことがあった。そこに木漏れ日をかき回すように白い虫取り網が振り回されて、そして老人があらわれ、それはギョッとする仙人と、のような出会いだった。 蝶の名は、を聞くと、アサキマダラだと教えられた。すこし地味ですね、蝶は派手な、例えば夜の蝶なんて・・・と軽口がいけなかった。この蝶は、フジバカマに集い、台湾へと半島へと海を渡るのだ!とすこし怒った、いや屈辱されたかの熱い感情が降りかかってきた。MTBで下ってきたことも、御不満だった様子。少々の説教の時間があって、また網が振られ、採った蝶を確認して放す作業が目の前で始まった。 何処かで採取されて、羽に場所と日付がマーキングされているか、を確認しているのだと、まだすこし青みがかった、わからんだろう!の拒絶のまなざしで見据えられた。忘れられない。白いフジバカマの花にMTBが寄りかかっていることにヤット気づいた。 八ヶ岳の谷にフジバカマを畑に栽培し、アサギマダラを待っている、いや旅立ちへの応援をしている夫婦をTVが放映していたのを見たことがある。夏の終わりに、もみの木公園のフジバカマの花が終わって、薄毛にまとわれた種たちをコースのそこかしこに振って歩いている。この蝶、“なにかもって、なにかを変化させる”。 もみの木公園にもアサグマダラが現われている、ヨ!あの芸北の青いまなざしの老人に伝えたいと思った。 先の戦争に出兵した学徒が前線で博士論文を完成し理学博士となったとの話題をもつ植物学者・前川文夫が、大陸で見た人里の様々な観察から日本に古代に渡来した稲作に伴ってやってきた植物を「史前帰化植物」と区分した。
「九州・佐賀県、唐津平野の菜畑水田縄文晩期遺跡、福岡県、福岡市博多区の板付水田晩期遺跡は水田造成、農具は高度な技術水準であるといわれる。稲作農業は中国大陸ではすでに4000年という長い実績を経てきて、すでにあらゆる条件に適応できるレベルで紀元前400年前後に横滑り的にわが国へ入ってきた結果によるのである。 水田の考古学・工楽善通」 稲作農業を新天地で展開できた人々、この国のパイオニアたちの痕跡は九州だけでなく、岡山市・松山市・高松市・姫路市・松江市・井波氏・茨木市・東大阪市など挙げられている。何処にもある「ワダ」の地名もこのパイオニアたちに関わるそれは、、というロマンもある。「ワダ」へと、走りたくなる。
「史前帰化植物」には稲作に伴って渡来した、“水田雑草”、畑に伴った“畑雑草(人里植物)”、そして畔などに成長する“田畑共通雑草”に区分されている。前川文夫はこの三種を約120の植物としてリストアップしている。 “水田雑草”は田植えに合わせて芽生え、稲刈り前に実をつけ種子を散布させ冬には土に潜む。秋の七草のなかに挙げられるものが多い。“畑雑草”は稲刈りのあと日差しをうけた田に芽生える。春を彩る花々で、それらの中で、春の七草にもあげられている。麦作伝来に伴われたとも、いう。 稲作が始まってからの景色に、稲作以前の縄文時代の植物たち・日本原産の花々は人々の生活圏にはほとんどみられないのではないか、といわれる。七草の選択基準の意味は今誰も説明しきってはいなようだ。だが、その草々に稲作の景色を感じることは、だれも同じではないだろうか。
「九州の菜畑遺跡、板付遺跡の開発期の水田土壌には申しわせたようにツツジ類の種子がかなり多くみつかっている。この灌木は縄文時代以来の自然林を切り開き、水田となった周辺の閑地には、春になるとツツジが咲き誇っていたのだろう。弥生人はこんな景色を眺めながら、田植のための田ごしらえをしていたにちがいない。水田の考古学」 いまは住宅地になるのか、新しい開墾地が放棄されて野に帰るところにツツジは最初に繁茂する。おなじ景色が生まれる。稲作伝来の開発最初の景色がいまも昔も同様にこの国の大地に生まれている。開墾地に田作りされた里山の景色は2000年以上も繰り返され、自分のDNAに、いや魂にインプットされているといえるのかもしれない。田園のあぜ道や棚田のトレッキングから生まれるなつかしさで確かめられる。
秋の七草にライアップされているフジバカマは“水田雑草・畑雑草・田畑共通雑草”の中には挙げられていない。だが「中国から有用植物として持ち込まれたもの、或いは、古里を思い出させるもの」としてもたらされた、と前川文夫はいう。フイバカマは薬草で利尿作用があるという。
パイオニアが伴ってきたフジバカマの花が咲くころ、アサギマダラは海を越えて、パイオニアたちを訪ねてきたのだろう。そしてまた海を渡るのだろう。
あの青い目の老人は、そう考えていたのかもしれない。彼の魂は蝶たちと海峡を超える旅へ出ようとしていたのだろ。拒絶の眼差しは、これからの冒険への勇気があふれ、こぼれていたからだろう、と。 #
by forumhiroshima
| 2017-12-13 08:17
福島正則の広島は1601年から1619年広島在住とされているが、彼は留守がちだった。「1607年江戸城修築、1611年丹波篠山築城、1612年から名古屋城築城の直接参着、工事督励を勤め、1612年から1616年江戸参勤滞在を余儀なく」と 図説広島市史にはある。 名古屋築城では海からの導入線の堀を開設し、その堀は福島左衛門太夫正則の名から“太夫堀”とよばれている。 その正則は広島では東西に横断する西国街道を導入し、北への雲石(出雲・石見)街道を整備した(広島県史)。広島でも忙しい。浅野藩となっての江戸期1633年に幕府から国々へ巡見使という観察役が派遣され、それによって道が整備。 雲石街道の道幅は7尺の2.12mほど。道は馬と牛と人とが使えればよかった。ちなみに古代飛鳥の西国街道の幅は二十数mという。奈良・平城京の中央の朱雀大路は70m、道じゃない、まるで天安門広場や金日成広場とイメージです。
古代西国街道の痕跡は一番近くて西条町の東・土与丸交差点辺りにその痕跡があるときいて、その気配を嗅ぎに走ったことがある。十数メートルの道幅の痕跡ぐらい匂うだろうと。そこは古西国街道でもあって山中に一里塚の痕跡が残っている。古代街道は直線に建設されたというのだが。交差点東の広い谷間と直線の道路はそれなのだろうか。大変な工事だろう。でも巨大古墳造った時代なのだ。古今、為政者にとって道の建設は最重要事項なのだ。
広島築城の毛利輝元の元城下・吉田―広島のルートは「慶長以後往還土橋通り五竜山南麓下小原往還筋広島より三次へ本海道に相成 高田郡村々由来記」に書かれたのが最初とされている。関ケ原の合戦のころの記録とされている。往還と呼ばれるのはいまの国道とか県道とかのように役所に指定された公用道だという。たしかに江戸期の街道とされたコースがそう呼ばれる。また、各地の御坂とよばれる峠は京へのルート上にあること、とも言われる。古代に税は個人で運んだころがあったという。故郷へ帰れなくなった、イヤ帰りたくなくなった人々が奈良一体に国別に町をつくり、古里の名で今も呼ばれる。故郷へのルートはのちのちまでも記憶されただろう。
正則によって整備されたとされる雲石街道は可部の町で分岐して石見へは西へ南原ダムを登る。登り口に一里塚遺跡が整備されている。出雲へは北の上根峠へむかう。 「村々由来記」にある五竜山はJR甲立駅前からR54へ向かった道路が江の川を渡ったところで、小原の地名がこのあたりにある。JR芸備線とR54が広島をでて初めて出会いそこに江の川がある、という交通の要所だ。東へ世羅台地、西へ高宮との交差点でもある。安芸高田市の古代からの郡名の高田はこのあたり高田原をいう。中世の領主・宍戸氏の名が五竜山ふもとの宍戸神社とのこされていて、領主の屋敷をいう「館・ヤカタ、タチ・タテ」が甲立の地名の由来か、と妄想している。
戦国の道のスタートが土橋とある。安芸府中の町から尾長へ府中大川を渡る橋は少し前まで府中土橋と呼ばれていた。「村々由来記」のルートはR54でなく旧高田郡の交通の要所-甲立へのJR芸備線ルートではないか?との疑問があった。可部の奥の崖を登る上根峠、吉田の入口になる土師ダムからの流れの可愛川と南からの斐川が合流する地点の入江・石原・久保などの氾濫原の地名が思わせる湿原の通行困難さ(ここはR54ほか通過ルートがない。明治政府の木戸孝行充・またの名・桂小五郎の祖先はここに城を築き通行監視と通行料徴収)などが疑問だった。 だが福島正則の雲石街道整備伝承ルートと「村々由来記」ルートとの関係は浅野藩広島入城時の地図を見ていて、「これか!」と気付いた。西国街道から分岐する地点は堺町になるがそばに土橋町がある。そのあたりに地図に堀がみえた。そこを渡る土橋が地名で今にのこっている。 堺町から街道は寺町をぬけ、天満川は渡し舟での渡りだったという。分岐から渡し場まで直線に延びている。いかにも計画されたルートに見える。道に連なるお寺は正則が武田氏城下の祇園にあった寺や牛田からも移設さしている。直線のルートを地図で伸ばし、北上すると、阿武山の南の双耳峰の権現山山頂へぶつかった。権現の地名はそこら中にころがっている。神も仏も習合して権現と呼ぶ。どこにもある名だが、ここでは道先の案内で道の鎮守の権現さま。ではと、南へと直線を伸ばすと、残念にも舟入南で本川へ落ちた。 この直線ルートを見ていて、平安京の西の風水といわれる、都の西にわざにおかれたという木嶋大路(現・周山街道)を思い出した。この大路の北の基点の双ケ岡と権現山・阿武山のありようが似ている。 正則が「直接参着」したという名古屋城はその中心軸を磁石の極北線を採用していて、西に街道が北上している。都市設計に風水は戦国大名のトレンドなのか、などと、おもってしまう。 正則が整備した西国街道の東は尾長の才蔵寺の才蔵峠からだろう。その道も愛宕明神前から猿猴橋までの直線をもっている。 「芸州福島左衛門太夫正則の家中で、七百石可児才蔵吉良・カジサイゾウヨシナガといえば、太閤存生のころから世に知られた豪族だったが、奇癖があった。この男はしんぞこから自分は人間ではない、と思いこんでいるようであった。山城愛宕の勝軍地蔵が、かりに人間の姿に現じてこの世にあらわれているのが、とりもなおさず可児才蔵である、と信じているらしい。勝軍地蔵とは、愛宕権現ともいい、軍神として諸国の武士から尊崇をうけている仏霊である。「うそではない」と才蔵はいうのだ。「わしは愛宕の勝軍地蔵の縁日である二十四日にしぬるぞ」その予言が証拠だという。愚にもつかない。 司馬遼太郎 “おれは権現”」 「元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。日本伝承大監」 日本伝承大監は解説で、才蔵は1613年に死去、福島正則の改易は1619年と史実と違うとある。この道も権現を守護神としている。 ※司馬さんは才蔵が広島城南の猿楽町に屋敷を持っていたと書く。その町で自分は生まれた。コバイイ。
福島の名の川は埋め立てられたが、町名で残っている。「明治39年、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年3月23日ついに福島町となった。 新広島市史」 「八助は正則の夭折した嫡男の正友か、養子の正之か、ともいわれる。家康の養女が妻の正之は正則から「乱行だ」とされて幽閉、餓死」ウイキペディア。 幽閉・餓死の記述に驚いた。 1619年改易となり信州・川中島へ49万8千石から4万5千石まで減転封となったが、ここにも堀をつくり太夫堀の名をのこしている。 #
by forumhiroshima
| 2017-10-31 09:54
毛利の広島城下町は京橋川、流川、平田屋川、西搭川、と縦断する川や掘割の運河で南北に区分され、それらを東西に連結する道は設置されていない。築城に材料置き場だったといわれるいまの平和公園あたりの中島から城への元安橋が猿猴橋・京橋とならんで築城当時の橋だといわれる。戦国末期に活発化した船の運輸をとりこむ基地としての機能以外に毛利のお殿様は必要としていなかったようで、「縦(立)町」都市ともいわれる。いまならメイン滑走路の二本の掘割を完備した飛行場のようだ。
この飛行場を横断する道を福島正則が設置した。これが、市内のいまの「江戸期西国街道」にあたるルートは江戸時代に幕府による指図で整備されこの時期に一里塚があらわれてくる。
猿猴橋から西国街道はホテルのビルの敷地に消えて、南へ次の交差点を西に渡ると京橋商店街の道で現れる。西の京橋を渡って、「西国街道」のルートは幟町交番で左折し南下、電車道を渡って二つ目の交差点を右、三越デパートの南の胡通りから金座街に入るルートが多くのガイダンスにある。幟町交番の道が薬研堀という運河だったから、これに道が遮られて南下したのかなどと、想像する。
胡神社はこの街道設置の際に十日市交差点の西の榎町にある恵比寿神を、この界隈の賑わいの核として街道に面した胡神を拝むには都合よい場所に勧請した。と思えるが、浅野藩広島入城の後1644年の城下地図には赤いラインがひかれて、さもこれが街道です、とある。ルートでは、京橋を渡って交番まで行かずに、二つ目の信号で左折。電車道を越え弥生通りを南下し徳栄寺角を右折し中央通りを渡って広島パルコ横から金座街に入る。
本通りそばの袋町小学校の2年生だった昭和29年(1954)に通学路に天井ができた。アーケイドといって、びっくりしたし、見物客が通学時間にもたくさんおられた。金座街のアーケイドは遅れて1961年だそうだ。
本通りと金座街とのL字の連結部にはアーケイドな設置されてない。軒先の雨よけほどの構造物がある。思えば奇妙な空間が空に開いている。空間から東へ、パルコの北側にアーケイドが設置されて、天井に「KINZAGAI」と透かし文字が見える。 福屋デパート南のアーケイドは金座街のデザインとは違っている。ここは胡通りで金座街ではないのだ。天井のアーケイドのデザインを比べて見なきゃ区分できない。中央道りを越えて神社まえに同じデザインのアーケイドが設置されてこの道が胡通りなんだと分る。
「地霊」という言葉がある。ゲートのファウストの冒頭にあるという。もちろん読んでいないのだが。都市の変貌、都市の変化の話などといわれても、あのあたりのことだとイメージ出来るときと、できない時がある。できると、その変貌・変化がああ、あの土地辺りのことだとイメージでき、その話が理解できる。それが「地霊」の存在が現れるときだという。
その「地霊」が自分に現れるのがここだ。三つの商店街が巴に重なり合うなかで、ポッカリと空に突き抜けた空間は、ここにキリンビールのビアレストタンがあり、府中のイオンはキリンビールの工場跡で、西国街道に面していた、などイネージすると直ちにカンビールに手が行くのも、ここに「ビールの地霊」がいるから。 だから、アサヒビール館の信号を渡って入る金座街アーケイドが16440年城下地図の西国街道だろう、と決めた。アーケイドがこの商店街の境界の空間の地霊が現れた。
もう一つ・奇妙な、と感じる場所がある。京橋の西から2ツ目の信号から弥生通りへ入るあたりにそれを感じる。京橋川河畔の厳島神社の土手の石垣の内側につけられた道への小さな坂道と、えらく明るいが雑多な空気が漂う橋本公園がある。河畔のレストランも雑多さに風を送り込む。この辺りは京橋川雁木群と呼ばれる雁木の集合地帯で厳島神社ばかりか、金毘羅さんも鎮座して海の神様も集合する船の港だった。
埋立地にはこの土手内の道はつくられない。その区分が景色で見分け出来る。堤を造り中の水を抜くのが干拓で、土を運んで埋めるのが埋立地。干拓は後で作る水路から水が取れ農地が生まれるが、埋めると高くなって、水路は地表より深くなって灌漑出来にくい。客土と呼ばれる土砂運搬作業には多人数が必要になる。コストパフォーマンスは干拓にあるのだろう。古くからの土地づくりの伝統が見える。
空鞘神社の前も公園と土手内道路がある。もとは船溜まりの川湊だろうか。公園は船溜まりの痕跡か。遥か昔の賑わいが漂っている。「サヤ」は溝の意味もある。サヤマメには溝があって筋を抜くと、豆がでてくる、そのサヤだ。「空」は「上」ほどの意味と考えれば、上流の掘割となろうか。
弥生通りから金座街へ右折する交差点の徳栄寺は戦国の石山寺合戦で毛利方水軍の水先案内人・休信のいた光明坊が前身だという。広島城下に引き込まれた海の匂いがしてくる。 #
by forumhiroshima
| 2017-10-15 15:19
平和公園の慰霊碑と原爆ドームを結ぶ聖ラインを横切る道を公園の設計図には記載されてなかったといわれ、西国街道という歴史が考慮され残されたと聞いている。元安橋から公園に入ると道が屈折する。 公園ができる前の町の図を中国新聞が掲載していた。これにはかぎ型に道が作られていた道が、いまの公園では緩やかな曲線にかえられているが、痕跡としてのこったことがわかる。西から侵入する敵を待ち構える「遠見遮断」という。「道」は武力の舞台。 この街道を毛利氏退去の城下に設置したのは福島正則で、東の府中町にあった古代西国街道から城下に引き込こんでいる。
福島正則の痕跡は白島から牛田へ渡る神田橋のそばに小さな祠の八剣神社がそうだといわれる。 「福島正則公のこの地に残る唯一の治世の史跡である」と掲示されているが、この祠だけとは、ちょっと正則公がかわいそう、だ。この神社は正則公の故郷尾張の荒神さんを勧請したのだろう。 「愛知の神社」(愛知県郷土資料刊行会)という本を図書館で読んだのですが、その本によれば、 毛利輝元の築城の際に行った吉田からの引越しのルートは吉田町の東の峠を越え向原へ出て三篠川沿いに下り、狩留家から馬木の峠越で温品に降りるといわれる。府中の南には海が迫っていた。西に横たわる尾長の尾根の先端は岩鼻と呼ばれる岩礁が海に洗われていた。温品からの毛利の引越便のルートと思われる大内越の峠道は大正のころまでただの小道だったと、矢賀郷土誌・山田隆夫にある。引越荷物はどう運ばれたのだろうか。 大内越に入らず南下する矢賀の尾根の麓の道周辺は毛利時代に直轄領となり、城の東の守護の目代が置かれていたという。引越のルートは大内越ではないようだ。では、尾根をどこで越えたのだろう。
福島正則の広島での末期の地図がある。 となると福島正則の西国街道のルートは西から進むと猿猴橋から直線に尾根に登り、家臣であった可児才蔵の伝承がある才蔵寺・味噌地蔵が名高い前寺をすぎ、トップから急坂を下ると矢賀の古道に恵比寿の祠よこにでる。これが正則の西国街道なのだろうか。この峠を矢賀峠とも才蔵峠ともいうのだそうだ。 恵比寿からの急坂は旧市内屈指だろう。ヒルクライムでは、とても達成感のあるルートだけど、岩鼻の岩礁も細粉・撤去されマンションが林立してから、車が走ってることが多くて、車に尻に付かれると、こちらは遅すぎて申し訳なくなって、やめてしまうことになった。久しくいってない。市内屈指なのに、なぁ。 正則公時代の地図から40年のち、浅野藩の時代になっていた1653年に洪水の災害が尾長、矢賀などで発生し、そのときの堤を修復した地図がある。 尾長の尾根を回ることができるようになっている。この堤が峠下の恵比寿の祠へと結ぶ。矢賀土手道と呼ばれた。
修復された矢賀土手道は1663年に作成された浅野藩の地誌・芸藩通史の矢賀村の地図に記載され、岩鼻から府中の土橋(いまの府中大橋のすこし上流にあった)へ直線の道が記載されている。1633年に幕府が各藩に幹線道の整備が命じられ検分使が派遣されている。この整備で作られたといわれるが、街道松が見える。コウノトリがこの街道の松に営巣したとの記事が残っている。兵庫・豊岡のコウノトリたちは三次市三良坂のダムに現われている。広島に現われるのを待っている。早よ、こいヨ!。 江戸期1825年改訂版の芸藩通史にある城北の図は広島駅周辺地図。そこに古川村が書き込まれている。今の天神川は古川と大須新開の干拓の排水路をいっているのかもしれない。府中大川への排水口の水たまりあたりに南蛮樋門の記載がある。 これらの堤防道を推定でだが、たどってみた。「オタク、だなー」が感想でした。 #
by forumhiroshima
| 2017-10-03 10:20
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