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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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オケ・ヲケの兄弟

畿内の西端へと走ってると、真新しい神社にでくわした。すべて新品だ。仁賢・顕宗神社とある。ここに神社の説明が掲示してある。
「安康天皇3年10月1日(456年11月14日)父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年(481年)11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。ウィキペディア」

古事記、書紀、播磨国風土記と古代の有数な記録すべてに掲載されている話で、古代がどうこう?なんてやっていると、どこかで出逢う話だ。その主人公たちが神社になっているとは!
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絵馬も新しく、説話の場面がきれいに描かれている。
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このふたりの天皇がここで神様として神社に鎮座するわけ?って、この場所にいただけなのに、なんでだろうか、と走り出した。
すると次の集落の小さな神社にでくわした。そこがこの兄弟が身分をかくしていた、この地方の有力者の忍海部造細目の住居跡だという。5世紀の話なのに。この丁寧さが、たまらない。
オケ・ヲケの兄弟_d0089494_181061.jpg

この忍海部からここの地名の押部谷になったと、資料にあった。この忍海部一派は奈良にいた渡来の人々で、このあたりが古代の製の生産地で、ここに大和朝廷の屯倉がおかれたのだという。その屯倉は志深・シジミ郷という。押部谷は明石川の流域だが、忍海部造細目の統治した場所は北の志染になるという。そこに、この兄弟が隠れ住んだ巌屋があるのだと。
自分でも好きだな??と思うけど、再び有馬温泉へ登って、志染の谷へ走った。
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巌屋はとてもその中に住めるようなものじゃないが、ここに二人は住み着いたのだ。そうなのだ!
そう思わなきゃ、楽しくない。その巌屋への小路に、この兄弟をみつけて、都へ連れ帰った人の石碑まである。
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「伝承者として、歌舞を業として畿内を巡遊する芸能集団の存在が窺われ、物語素材も史実とはかけ離れた芸能的世界の所産であろうという。ウィキペディア」
この谷の北の山中に兵庫県で一番古い村の歌舞伎の舞台が残っている。藁葺きの神社や舞台もけっこう各所に点在していて、その演劇の題目が天皇の話で、かつ自分たちの故郷のことだとすれば、きっと盛り上がっただろう。その伝統がいまに息づいている、ってことのようだ。
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現在この話は史実であろうとする大学の先生たちが多いのだそうだ。まさに歌舞伎の舞台が強力な説得力をもっているってことだろう。よかったね。
# by forumhiroshima | 2011-04-08 18:13

畿内

西宮に暮らし始めて、もう1年。いろいろ走ってみたけど、ここが畿内、つまり王城から1000里やく60kmのなかにあるってことが、中国地方との一番の違いだと思った。
どこも云われがある、二千年の歴史を持っていて、それだけに、どこも歴史に形作られた景観だと、思い知らされている。人力の及ばざるところナシ。すこし、うっとおしい。

その王権のおよぼす地域を大化の改新646年にこのように規定している。
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この大化の改新のとき、その王城は難波宮にあったことになる。そして古代幹線は西へは、有馬(有間)へ向かっている。
有馬へ宝塚からは船坂へ5kmほどの峠道を向かって、そこから尾根をこして温泉へと登る。船坂への登りは車も少なくて、へばっても、車の運転手さんから冷たい視線とジャマ!って空気を浴びなくてすむ、お気に入りのパスハンになってる。これは631年舒名天皇が有馬へいっている記録があるから、このルートが古代幹線ルートになるのだろう。
有馬温泉のメイン交差点の神戸電鉄有馬温泉駅から西の、カタ越峠をこすと、唐櫃・カラトからちいさな古々山峠へ。大新興住宅地の中を志染川ぞいに下ってゆく。このまま川沿いに走ればダム湖をすぎて三木市へ。ダム手前から峠へとりついた。

これが古代幹線かどうかはわからないのだけど、この峠をぬけると押部谷という明石川上流の広い谷へでる。

畿内を政令できめたとき、その畿外との境で、いまの地形に比定されてないのが、明石の櫛淵。ウイケディアでも櫛淵は明石の海岸がリアス式の櫛の歯のようだから、櫛淵が明石の海際にあるといっている。しかし、ここに掲載した畿内の地図を推定した木下良という先生は、「当時の山陽道は海岸線沿いでなく、有馬温泉を経由するルートであり、赤石の櫛淵は現在の神戸市西区押部谷町細田の明石川に奇淵または櫛淵と呼ばれた場所があり」そこに比定している。
このことから、有馬温泉をぬけて、明石へと、このルートを走った。明石川一帯は5世紀ごろは赤石郡とよばれ、その後7世紀中葉から明石郡と美嚢郡とに別れているらしい。だから畿内の西端がここにあるのでは。だったら確認でしょうね。
もう一つ、兵庫県立考古博物館が、古代山陽道を発掘されている。H23/3.6に古代山陽道の駅家の邑美駅家の説明会がネットに発表されていた。
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この図の右下に破線で古代ルートが記載されてる。海岸にそってるのか、山越えなのか?。
その合流地点から西については、かなりの発掘調査がすすんでいるようだ。
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もう一つ明石川の中流域の櫛淵あたりといわれる細田の山億に近衛寺がある。この寺は、7世紀中ごろ近江の国琵琶湖のそばに、光り輝く一本の桜があった。これを霊木だからこれを刻んで観音像をつくり安置しようと播磨の国へ送ろうとしたら、木は空を飛んでこの押部についた。安置する場所をさがしていると、ひとりの老人があらわれ、安置する場所に案内し、わたしはスサノオである。仏を守護してやるといって消えた。その場所にできたのが近江寺だという。キンコウジと呼ぶらしい。畿内の東の合坂山は琵琶湖のほとりにあって、この話はどこか畿内を国の羅列でなく道の端としてきめたことと、なんだか共通するように思えた。

近江寺は、広い境内とたくさんの石仏、点在するお堂、古木の巨木、苔むした石垣。
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明石川の河畔に住吉神社を見つけた。川にガンギがつくられて、船付き場のようだ。
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そこに神社の説明があって、やぶれている場所にここが奇淵だとあった。
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いやはや、木下良という先生、しっかり現地調査されてる。ぼくも確認しました。ここが古代の畿内の西端なのでしょう。ここが、です。
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# by forumhiroshima | 2011-04-02 16:17

指南

指導者を指南と言ったりするが、南を示すことが教えるってことになったという。南北を決めることが出来る、こと。それが指導者の資格だったということになる。

先日枚方の交野山が、古代平城京から784年に移されて、都となった長岡京の中心線を決めた山だときいて、わざにご苦労さんに、走った。残念にも山頂には上がれなくて、そこから京都平野をながめることができなかった。
重苦しいTVのニュースから離れたくなって、大阪から京都をむすぶ京街道と京都から西宮をむすぶ唐街道(西国街道)へと。

京都、九条の東寺からR171という、面白くない唐街道が、やっと向日市で古街道にであえる。この町に長岡京の中心、大極殿が公園となって保存されている。が、とっても判りにくい。ここが都で遭ったのは14年ほど。宮殿も大阪・難波宮の移築とあって、影が薄い。遷都1228年になってるのだけど、ね。
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大極殿の南の空に交野山があるはず。ちょうど春分の日があったばかり。午後の太陽は真西ちかくに沈んでゆく。その90度左の景色を探した。

平城京から長岡京への遷都をきめた桓武天皇は、交野に幾度か行幸している。そこで中国の道教のお祭りを実施した最初の天皇で、あとはその孫にあたる天皇がおこなったきりのお祭り。
天皇の母は朝鮮半島の百済からの渡来の人の系列で、その祖先は百済王につながるという。しかし、この地では母の父は下級書記官であったという。天皇家の血筋ながら傍系であった父が、急に天皇となり、その息子桓武天皇は、母・高野新笠の実家、この向日にあったといわれる、で育ったという。百済からの渡来の人々は難波の猪飼野の百済郡と交野に多く居住していた。その交野の信仰の山が交野山だろうという。父の光仁天皇と母は無名の時代に結ばれていて、傍系貴族と渡来の下級官僚の娘という家庭が、なにか、想像だけどほほえましい感じはする。

桓武天皇が渡来の文化の影響がこい人であって、交野に特別の思いがあったとしても、長岡京の中軸線を交野山へおくことが、現実にできたのだろうか?なぜに、そんなに南北線にこだわるのだろうか。指南してほしいものだ。
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公園に長岡京の絵があった。
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この絵は中心軸をまちがっていて、石清水八幡宮のある男山に置いている。これって現地にゆけば実に普通のことと判る。実際的なのだ。しかし、この男山に八幡宮が宇佐から勧請されるのは860年で、ここ長岡京が建設されるころには京都・平安京も、もちろん存在していたかった。

大極殿から細い道がすこしうねりながら南下している。地図に大極殿と交野山とを結ぶラインを引いておいた。
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これをトレースしてゆく。家並みと工場のビル、高速道路や新幹線の高架橋で見通しはきかない。アパートやマンションの階段にあがってながめてみる。まるでアキスネライ状態。でも見えない。
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桂川が淀川となるすこしの河上にかかる橋から、やっと男山のすぐ東に交野山らしい、ぽっこりの山陰がみえた。
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これかな?と決め手はない。しかしどこか枚方でみた山容におもえる。
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山はなにかそう思うと神秘的な様相におもえる。
# by forumhiroshima | 2011-03-28 20:52

トライアングル

地図の中の古道らしきもので長い直線とか、四角形とが、人工的な道をみつけると、どうしても走ってみたくなる。ただし、地図の縮尺は実際にはとても大きくて、その直線的な形をとらえることはみつかしい。見通しのきく直線の景色のであったりして、想像、いや妄想に落ち込むことになる。

難波宮から有馬への道が、尼崎の昆陽寺のそばを抜けて北西に伸びていたという歴史学者の見解のなかに、この寺を三角形に囲む直線の古代道があるともかかれている。さあ、妄想の時間だ。
有馬道、と加茂道に西国街道がつくるトライアングル。有馬道がこの国最初の官製国道の設計だとして、西国街道は駅舎が設置されるもうすこし後の時代で、これも設計は直線であった痕跡があるという。いまの西国街道は豊臣秀吉の朝鮮遠征の際に整備された「唐道」だというから、時代はずっと新しい。が、寺の前に石畳のひろい古道があって、唐道・西国街道とはちがっていて、「なにか!」がそこにあるようだ。
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加茂道は北西にすすんで、川西市の鴨神社へ吸い込まれる。この間に自衛隊の駐屯地が横たわっていて、直線の道を分断している。

直線で囲まれたもの、三角、四角、五画、六角・・・・直線が交叉するもの十字、は不思議な印象を送ってくる。それが古道で、その時代も古代であるとすれば、なおさらだ。古代の幾何学てき存在って、引き込まれる。

地図上での想像を実際に実行するとなると、とくにその痕跡がとぎれとぎれである場合は、どう走っていても、正しいと思い込んでしまう。そして、また降り出しへ帰らなきゃいけない。JPSがあるのじゃないか!と。でもそれって古代の設計を最新技術でなぞってみても、その正確さのギャップを感じるだろうし、道をリサートする判断力をうしなってしまって、機械だよりって自転車のりらしくない。自力進行。
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案の定、昆陽寺からの北上は試行錯誤で、あきらめて、加茂社、いまは鴨神社から南下に変更。神社の鳥居からそれなりの直線で参道が延びている。
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この神社は標高40mの丘に鎮座しており、この丘には石器時代からの遺跡がかさなって発掘されているのだそうだ。このあたりの中心地であり、聖地であったことのようだ。
参道にならぶ民家は、そんな長い時間をここに保持されているのだろうか?なんて、キョロキョロしてみる。

振り返ってみても。マンションや民家に遮られて、この丘がみわたせることはない。そこで、すこし東へ移動してみた。中国道をこえる陸橋ちかくから、丘にひろがる鎮守の森がみえた。この丘を目指して直線にのびてきた参道のランドマークだったのか?
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昆陽寺そばに南北朝時代に殺された幕府の武将・高師直の記事が「太平記」にあって、ここに堤があったと記されていると、その墓標に書かれている。
ここに武庫川の船着場でもあったのか、そこからの参道か、と、知ってる限りの情報をつないで妄想の時間に浸ってみた。
# by forumhiroshima | 2011-03-26 12:49

温泉旅行

神戸、六甲の北にある有馬温泉は、なにせ歴史がすごい。蘇我馬子の時代にはこの温泉は知れ渡っていた「摂津国風土記」にあるぐらい。その馬子の子供や孫が朝廷のクーデターで敗北すると、この国最初の都が大阪・難波に置かれた。大阪ってところが、ちょっと不思議です。大阪人には、すみません、です。
クーデター騒ぎが落ち着いたころ、天皇が有馬温泉にでかけてます。この時代温泉は大地からの力を授かるところで、天皇の許可なく入浴できなかった、らしいのです。

そのクーデターで、国つくりのプランが発表されて、法律になったのですが、その法律に畿内を決めています。畿内は天皇の鎮座する都の千里四方、よくわからないけど60km半径「王城の方千里以内」としています。
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古代では山陽道は有馬温泉経由ってことのようで、大阪城のあたりの難波宮から天神橋商店街を天七までもぬけて、長柄橋へ。そこから宝塚へ直線に。古代の道路のならいの直線道です。
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この道がいまに判別できるって、情報を発見!です。ご報告します。

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歴史地理という学問があるようで、すごく刺激的です。なにせ、古代の道を走れるのですから。もうびっちり、妄想状態に堕ちてます。
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地図での直線確認もOK!
今の地図にコースおとしてみます。
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淀川の長柄橋までの直線みルートはみつからないのですが、猪名川にこんぽラインは渡る場所まで、痕跡を見つけられます。そしてこのルートにランドマークのように神社がならんで、そしてのそ祭る神様が多くはスサノオです。猪名川にそばの椋橋神社には、こんな表示がありました。
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阪神タイガースの根拠地にカープですよ。それもスサノオの乗り物ですよ。ことしはいけますよね。どちらが、かは?

ではこの直線の道の設計はどうしたのか?いつものランドマークをさがします。ひとつは宝塚にくだる六甲山の尾根にあるお寺、塩尾寺です。ちょうど武庫川の左岸の直線も道の正面の尾根にあります。このお寺は聖徳太子が四天王寺を建立するときこの尾根に観音菩薩を安置したという伝承があって、その菩薩が宝塚の温泉を教えたという神話もあるのです。尾根の塩尾寺の上宮の写真はネットにありました。
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ここの立ち木に鏡をぶらさげて、クラキラと光らせたら、充分の目印ですよね。ついでに鳥居は、その鏡の働きが鳥のようだ、なんて。

その尾根を正面にみて、後にもう一つのランドマークがあれば、この直線の設計が完成です。
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これがその尾根の断面で、
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これがその尾根の写真です。さあ、どうですか?

もう一つのランドマークは古墳です。御願塚古墳といって、標高7mほどの小山に神社が頂上に鎮座してます。これなら、古代この氾濫源だった河原の目印になった、なんて考えました。
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この直道が古代の道であるなら、古代って「なんなの」といまの自分を問わなきゃいけないのです。古墳から後の山陰をさがしてみたけど、家しか見えない。でも椋橋神社前の橋からはかすかに尾根がみえるのです。塩尾寺のピークらしきものも。そういえば自動車のってると、振り返れない、ですね。自転車いいですよね。
# by forumhiroshima | 2011-03-22 20:53


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