こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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神楽

秋祭りの真っ最中のこのごろ。
石見のサイクで神社本殿を覗き込むと、たくさんの神楽の衣装がいっぱいに干してある。市山から八戸川の今田の水神さんのおおきなケヤキのそばをぬけて谷に入る入口にあった大山祇神社がそうだった。ここの神様は谷川をわたって木立の中に木漏れ日をうけて真っ白な立てられた御幣だった。その前にある拝殿はあけっぱなしで衣装が風にゆれていた。
江の川ぞいの川平のは八幡宮の拝殿も衣装でいっぱいになっていた。
どこかのお祭りに呼ばれて舞った後始末になるのだろう。

「市はもと、冬に立ったもので、この日が山の神女が市神であった。・・山人は、山の神であり、山の巫女は山姥となって、市日には市にでて舞うた。・・山人が携えて来るものが、山づとと呼ばれて、市で里人と交易せられた。折口信夫」

江の川から4kmの登りで入った芦山谷であったおばあさんは大声で歌っていた。日陰がこくなった午後の森にひびいていた。一山越えてちいさな交差点のお地蔵さんの祠からコンクリートで舗装されていても草がそのすきまにひろがって巾は自転車がやっとの、これが杣道かいな?とおもった道がいっきに下りだして、ロードのタイヤにごつごつコンクリが当たる。神様パンクなして、お願いとくだって、やっと車道におもえた道も巾は軽四トラックいっぱい。そこが清見・セイミ。人里らしくなって登りつめると井沢・イソウ。
古代八戸川から江の川、そして西にある島の星山までを、この井沢と呼んでいたという。近頃までといっても、戦後すぐぐらいまで、この土地では焼畑が行なわれていたという。
たしかに深い山里。途中で幾度もであった川平の郵便局員さんのバイクでしか、やっつけられないと、自転車がすこしかわいそうだった。上代に、市山へと山人がで
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てきて踊ったら、それは異国の人たちに里人は思えたかもしれない。

風の国に戻るつもりが長谷から八戸川岸へと下ってしまった。くだりながら、はたして帰れるのかいな?と不安だった。それでも下ったのは、以前通っていた居酒屋の老夫婦のおばあさんがこの川岸の八戸の出だと聞いていたから。
ひろびろとした河原のそばから、すぐに引き返して、風の国で温泉しても、ご時世ビールは飲めない。それなら広島であの老夫婦の居酒屋でふるさと話を聞いてやろうと。
それに川戸は川の入口、八戸は谷戸で谷の入口、その真ん中が市。そこにでてくる人たちが山人を、わからん話でけむにまいて、なかなかサービスしてくれない大盛のつけものを、ねらっていた。これが自家製でうまいんだ。

かえってすぐに居酒屋へ。でビール。案の定八戸のはなし。地名といえば、とミニ知識お披露目してた。そういえば風の国は昔は湯谷っていうのだったよね。温泉昔からあったの。なにいってるの、風の国の温泉は左に入るけど、右へはいった池のほとりに宿があるよ。入浴料はたしか風の国の半分ぐらい。エー!!
でも漬物は大盛りでした。
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# by forumhiroshima | 2006-10-21 17:50

民俗学者たち

風の国にパークして江の川へ。
幕府の代官さまの巡回コース、石見中通りは長谷で新しい車道のもう一つ山の中の旧道のそのまた上にある。旧道を入る。
谷にそってつづらの折り返しで市山の集落へ降りついた。

日本中を歩いた宮本常一さんが先生をやめて、民俗資料を集める目的ではじめて歩き始めたところがこの石見。川平から清見・セイミに宿泊して、市山へ。きっとこの道筋をゆかれたのだろう。

市山には清見にいた民俗研究者とつれだって、ここの研究者をたずねている。牛尾三千夫という人。
「《島根民俗》という雑誌をだしている人で、折口信夫博士門下の俊才であり、この地方の大田植の事に深い関心をもち調査にかかっていた。・・宮本常一」昭和14年のこと。この時と翌15年に石見を歩いてその資料を、石見サイクの参考にとひっぱりだしていたので、この牛尾さんのおられた町だとブラブラしようと思っていた。

島根県歴史街道にある石見中通りをトレースして走ってるのだけど、そこにこの市山と川戸のルートが掲載されている。
「四回も連続する川越え・大森銀山をスタートした代官様は、川戸へ江の川を渡り、川戸から隣の小田へ。集落をぬけ川を渡り今田へ。さらにもう一度今田水神のある大ケヤキのそばから渡川で市山へ。市山は諸国巡検使・代官さまが宿泊地としたところで、伊能忠敬の測量隊も宿泊している。往還に沿って家並みが続いており、宿場町の雰囲気をかすかに留めている。島根県の歴史街道より」

川面より少しだけ高地になっているこの宿場町の中央に小高い丘がみえた。地図には鳥居。小高い潅木が赤い屋根をかこんでそこへの石段に鳥居。八幡宮。石見では鳥居の足6本が多い。宮島の鳥居と同じに見えて、厳島神社かとおもってしまう。瀬戸内海の八幡宮にはこんな形の鳥居はみてないのだ。なにか?ある?

石段のそばに古い無住の民家があって、そこに牛尾家のムクという標識。ムクの木はクズのツルをまきつけて、古い民家をおおっていた。八幡宮に参拝し別の入口へ。そこに神社にはめずらしく墓地がそばにある。真新しい墓標に牛尾三千夫奥城とあった。あの牛尾さんがここに寝むられている。そうなると、もしかしてこのお宮の宮司さん?
石見でよくみる神社と保育園のセットのそばから入った鳥居に
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回って、さきほどのムクの木の家に。

亡くなった年にたてられた業績を刻んだ石碑が茂みにつくられていた。国学院大学卒とあるから折口信夫の生徒だったとわかった。そして石見神楽の神官舞の伝承者でもあったようだ。
入口から玄関へ。そのきは大元神楽伝承会事務局と消えかかった標示の板。表札に牛尾三千夫。
常一さんとの会話がどこか聞こえてきそうな陽だまりで一服しました。
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# by forumhiroshima | 2006-10-20 16:44

江の川

西からはじめた石見詣でもいよいよ江の川に到着。
江の川は大河のしてはほんの一部が安芸の国との国境で,あとはゆうゆう石見の真中を流れている。川が交通の障害でななかった・・と。
石見中通り街道がこの江の川を渡るところが川戸。いまは桜江大橋がデーンとかかっている。その東端の堤防に一本の木があって,ここに江戸時代には番所があったとある。
その木と道をはさんだ山側に地蔵堂があって,朽ち欠けた標示板にこの渡航がまだ渡船にたよっていた昭和34年に事故があって一人の乗客がなくなったことが記されていた。そのころまで橋がなかったということになる。

江の川の地図でコースを決めているうちに,この川岸の集落で渡川するほか,そこに行く道がない集落をみつけた。瀬尻。集落にはJRの鉄道も通っているのに駅もない。

川戸からその集落の手前やく1kmほどか,道が入っている。いまJR三江線は普通になっていて,もしかしたら鉄道の線路伝いにいけるかもしれないと。
その行き止まりの集落への入口に3kmで行き止まりの標識がごていねいにも二つもあった。でも走りこむ。ちょうど大田川右岸道路のような気持ちよい。最後の民家からほどなく行き止まり。路線への踏み跡もあって線路にたった。ふとトンネルがあったら真っ黒。と思いつく。コワイ!

橋に引き返して川沿いにくだる。瀬尻の集落あたりは竹薮で対岸からは見えない。次の橋をわたると川平。橋のたもとに道を見つけて入るけど地道ですぐに行きとまる。

こじんまりとした,いまは列車もこない駅前に手作りの案内板をみていると,郵便やさんがとおりかかった。瀬尻には川沿いにはいけないことを教えてもらった。そして山側から入るルートを丁寧におしえていただく。左,左だよ!左。とホンダ・カブで走り去った。

川平は伸びやかなたたづまいで,神社やお寺をフラフラして集落のはずれの橋で地図をみていると,郵便やさんにすれちがった。橋を渡っても,渡らなくても,この谷をのぼることになる。そこで左。と念押し。そうしてきついよ!!
へなへな!でも,また郵便やさんに出会いそう。行ってないとハズカシイ,とスタート。

谷をつめるといっきに急坂になって,分岐。井戸君石碑。集落の端によくみかける。谷をつづらにおりる。路面は小枝と落ち葉。道に歌声が聞こえる。すぐにその声に追いついた。ちいさなおばあさん。こんにちは。あんたは誰?自転車乗り。えぇー。
おばあさんは歌をやめて道端のしげみの高い所に,そばにあった小枝でなにかを引っ掛けだした。ムカゴでもありますが?いや,あのハッパをとる。じゃあ,とその枝をひっこぬいて渡した。

あんたは川平の公民館の人か?いや,自転車乗り。と話は絡まない。
この谷をくだった瀬尻へいきたい。そうかい,でも瀬尻の人四軒はこの春そろって,まちへでたよ。おばあさんのところは?今は自分ともう一軒。おばあさんは家族は?自分は一人。あとはイノシイとクマ。

瀬尻への急坂は道いっぱいの小枝とはっぱ。もう山へ帰り始めていた。
午後2時をまわると山々には日陰がどんどん広がってくる。あたたかい,霞がかった杉林にスポットライトのように陽射しがさしこんで,ここの,この冬は・・。
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# by forumhiroshima | 2006-10-19 14:31

木地師の痕跡は?

石見・六日市の深谷に木地師の墓があると観光パンフにあって,そこへの標識も設置してあるのだけど,まだ訪れてはいない。来年の新緑の季節に走ってみようか,とはおもってるけど。きっと急坂の連続なんだろう,とおそれている。

でも木地師という人たちの痕跡にはひかれている。
先日風の国森林公園の西南の木立の中の古道のそばの集落を通過していて,ふと谷をみると大きな杉の森に鳥居をみつけた。
道の下,谷に鳥居はつけられているから参道とは反対,神社裏からの参拝。ちょうど陽射しがさしこんで高い杉をとおりて光がそそいでくる。まさに,旅。こんな時間みなさんお働きになってるのだもの。八幡宮。

木地師たちは石見では江戸から明治はじめの飢餓でほとんど壊滅したという。森で木を切り,小さく刻んで,ロクロにかけてお盆や椀をつくる。そうして市で売る。その場所でそんな木製品をの材料の木々がなくなると,また移動して小屋をつくり営む。それを漂泊というのは,感傷だろう。
この山々を自由に移動することが許されたのには訳がある。
この人々,最盛期には全国で四万はいただろうとされる人々はどんな山でも七合目以上の高い場所の森で営みは一通の古文書の写しをもつことで行われた。
近江の小椋谷にある筒井八幡宮とその奥山にある高松御所の大皇大明神神社が,この木地師たちのとっての役所。ここの氏子となってこの古文書をの写しをいただく。その古文書は皇太子であった小野宮惟喬親王が天皇の後継争いにやぶれ,小椋谷に住まいしたとき,このロクロをつかって木器をつくることを住民に教え,また自由な移動の許可をあたえた。この古文書はニセモノだといわれるのだけど,豊臣秀吉はこの慣習を公式にみとめて,近江から全国へと木地師たちは拡がったという。東北のこけしも近江から移動した木地師たちの製作がその発端だという。
中国山地にもこの古文書をもって木地師たちが移動した。広島県戸河内から十方山へはいるとある那須の集落もそんな人たちの中心地であったという。先日NHKでこの集落の最後のマタギを紹介していた。

木漏れ日のなか,八幡宮の本殿のそばに小さな祠があって,表示板がつくってある。この祠は米を和紙でつつんだものが御神体で,一年に一度お祭りにその和紙を開き,保存された米の状態で新しい年の稲作を占うとある。その際すこしの新しい米を追加しておくのだそうだ。
木地師たちはそのうち漂泊をやめ,焼畑からすこしの田をつくりはじめたという。子供達の義務教育の制度がそんな時代をつくったようだ。日原の町に中学生の為の寄宿舎があったという。

鳥居から降りる道はすっかりブッシュになって,この時期寒くてフラフラとするまむしチャンがいそうで,つっきる勇気はなかった。
これじゃ木地師にはなれそうもない。
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# by forumhiroshima | 2006-10-17 13:10

シキミ

あまり気分が良い話ではない。が、なにかに引かれて覗き込む気分になる。
丸原の集落周遊から車道にでて美又温泉方面にぬける。丸原からいきなり山すそがせばまって、そこにおおきな樹木が数本そびえている。その根元にちいさな祠の屋根が道路からせばまった山すそのみえる場所がある。
自転車ではこんな場所は見逃せない。それに登り勾配、休むイイワケにもなる。

標識があった。大久佐川のネズミサシ、ヒヨクヒバ、エノキ、そうしてシキミの群生が町の天然記念物。民家をまくようにエノキ、ヒバがそびえて御幣もあたらしい祠がその下の茂みにかくれるようにある。ネズミサシをさがして裏庭にまわる。西向きの尾根にいくつもの墓標がくずれるようにならんで、その並びは三重につらなって、そこの端に古木のネズミサシ。シキミは並んだ墓標の上にずらりと茂っている。
広島の葬儀は造花が多いが、シキミの木の葉の茂った献花もみる。関東の葬儀ではほとんどシキミだとおもう。シキミはそんな用途の樹木だ。

地名でミサキタニとかケショウタニ、ウシロダニ、ジゴクダニ、ショウブタニ、イヤダニ、アシヤとあれば、それも山中にみつければ、だいたいおおきな樹木と祠。石見では大元神社があるようにおもう。荒神は山口でみかける。
そんな場所は民俗学の本には、石の墓標ができる前、江戸時代前期までの土葬の場所になるとある。
大麻山周回のとき山の北側に青川が入っていて、ここの青という場所もおなじような古埋葬地になっていて、おおきな桜の木をみつけた。東京・青山墓地もそんなところからの名だろう。

宮古島のユタ(シャーマン)の女性の話。[「先の墓・ウタキの神はそれぞれの集落の祖先、それもりっぱな人をまつったもので、神様は人間がなったもので、別のかみさまがあるわけではない」「死後の世界・後生・グジョウに死んだ母の袖につかまって、いったことがある。この世にある一切のものが後生にもある。各自はこの世でくらしたのとまったくおなじような生活をする。この世へは空を飛んで帰った。後生の渚に大勢の人たちが並んで見送った。みんな白い衣装を着ていた。後生の神があとをふりかえってはならぬといった。途中でいましめを忘れてふりかえった。すると、大勢の見送り人はすべて骸骨であった。谷川健一・神に追われて」
ウタキには宮古島ではユタしか入れない禁足地になっている。

古埋葬地の樹木は切ってはいけないのだそうだ。ここの大樹もそんな言い伝えのなかでのこってきたのだろう。いまここに車道が入っていること、は、とてもいけないことになっていただろう。宮古島でももうユタはいなくなっているそうだ。

この祖先を祭りるという場所を共有してきた人々は、小野氏とか柿本氏とか和爾氏とか集団となってこの場所で営みを続けてきた。いま、そんな営みの結果の中の景色を走っている。
神社もその昔の人々を区分していまに伝えてくれる。

次の集落はどんな氏族がつくってきたのだろうか?
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# by forumhiroshima | 2006-10-14 17:07

御神本

石見は中世には益田に本拠をおいた益田氏が支配していた。・・というのが教科書の歴史になるのだが、この益田氏は12世紀初頭に石見国司として下向・ゲコウした藤原定道がその祖先となるのだそうだ。下向といえば中央の役人が朝廷の任命でやってきたようにおもってしまう。この藤原氏はいまの浜田の東、伊甘に土着して、そののち御神本国兼と称した。そうして伊甘から益田に移ったという。

この島根県の歴史にあった記述をよんで、御神本とはまたたいそうな名だと、記憶に残っていた。石見・中通りという江戸時代に大田・大森の銀山から津和野の銅山まである天領をみまわる代官様の通われた古道をたどっている。津和野からはじめて、とごれとぎれにやっと高速道・浜田道の旭インター周辺までたどりついた。さて、と、ここからやっと江の川へ。そのコースをさがしていて地図をひらくと、インターそばに御神本という集落をみつけた。

人の苗字はその出身の土地の名をつけることが普通なこの国で、大仰な御神本が地名だとはおもってもみなかった。益田が歴史が上代からといわれる伊甘よりも豊かな土地で中世あったとはおもえない。高津川の河畔の河原がその時代にいまのような田園風景であったとも思えない。なのに益田へ・・??

インターのそば旭温泉街のそばに駐車。走りだす。御神本の集落にある神社は、その名も鳥居にもあげてないほど寂れていた。石段は草むらにかくれそうで、ちいさな本殿の屋根にがおおきなハチの巣。高速ができて背景の小山は工場団地にひらかれて、集落の家のそばの墓はみな新しい。団地造成で家々に移転してきたようだ。
集落はずれの国道のちりをかぶるようなお寺にもあがってみた。ここも大正時代火災にあってここに移転してきたという石碑があった。
なににもドキドキすることなく、石見中通りの古道へと入ろうと美又温泉へ近道をとった。が、通行止めの標識。この標識はなかったものとしてダートになった道を下ってゆく。と、ばっさり道がなくなって、その20m先下、川がながれこむ先にめざす道がみえる。打つ手なし、と引き返した。ダートの急坂!!

表通りにかえって、ふと川向こうの小山に茂みがみえる。どうみても鎮守の森。ソバの畑の中の古道にはいって、小山へ。
森には、この集落出身の名古屋・熱田神宮の神主になった人のおおきな石碑。その森のそばに薬師堂。ふるびてはいるがけっこおうおおきな祠。その祠に説明板。ふるくここに薬師を祭り近郊からの参詣が絶えなかったとあって、その薬師をここに安置した家がその隣にりっぱなたたずまい。その家のトイメンに石碑になった神主さんの名を表札にした、これもりっぱな家。それが古道をはんさんで、古道は民家数件をその両側において、小山にむかう。
そこに天神宮。この神社の神主さんがさきほどの石碑の名の家かと、想像した。その天神宮までの道端に小さな鳥居と茂みとその奥のしろい御幣だけが暗がりにゆらいでしる祠。
もうすっかり昔気分。

この集落は丸原・マルバラ。
オオクニヌシがこの里は麻呂が心にかなえり、といったのでマルバラ。このマルはオオクニヌシではなくて柿本人麻呂。柿本族は小野族、春日族、それから和邇・ワニ族とおなじ系統。和爾を丸爾とか、単に丸とか記す古文書もあって、ここには人麻呂が田植えを手伝ったという伝承もあるという。[丸原は和爾系の人々の漂着した歴史を思わせる。白石昭臣]とあったりする。
御神本氏が益田へ移動したのは、益田周辺に小野、柿本、和爾の一族の痕跡が多いことからも、なにか伝わってくる。
国司として中央から派遣・下向ってことなんかじゃ、ないだろうな。
低い陸にうねうねと古道が上り下りして、その下に小さな田んぼはひろがり、家裏の斜面にも、道の交差点にもちいさな祠がおいてある。その向こうに稲か草か焼いている煙がまっすぐにのぼっている。里の秋。ですね。d0089494_175141.jpg
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# by forumhiroshima | 2006-10-13 17:05

神久山神明宮

長浜から裏山へ国道をこえて谷間の登りからゴルフ場へとあがる。
路地のあった神久山がこのゴルフ場にある塚ケ原山とある頂になるのかとそこに神命宮をさがしてみた。送電線の鉄塔が目立つ建築物で、ゴルフ場ぼ芝生の中には一人の老人が動かすカートがゆるゆる移動しているだけ。彼のゴルフをしばし見つめていた。風におおきく球は流されてしまった。
塚となずけるほどの丘の上の突起には墓地でもとおもっていたが、ただ眼下の浜田の海がひろがってみえる禿山だった。
今日は浜田市街地の東にたつ三階山の山頂の神社マークがひとつのこのサイクの目的地だった。もしかしたら、むかしこの長浜がこの海岸の中心であったとしたら、あの神久山へのルートは長浜からが参道であったのだろうか。だからここに、よく古道をルートとする中国自然歩道があるのかもしれない。などと考えてみた。丘陵地帯をトラバースする古道には、一定な区分で六体のおじぞうさんを並べた六地蔵があらわれてくる。
神久山はカグヤマと読むのだろう。天とつければ奈良の天香具山になる。この山の神様はアメノカグヤマノミコト。この神様はウマシマジノミコトとともに尾張、美濃と大和朝廷として平定して越・北陸から石見へ軍をすすめている。ウマシマジミコトは大田市・物部神社の神様で物部神社のある八百山が天香具山ににているからと宮殿をそこにつくったとあり、それがいまの物部神社になる。
古代、神様に位をつけているのだけど、この大田市の物部神社と佐渡、甲斐の物部神社が高い位にあって、そのそばに金銀の鉱山がどこにもある。

ゴルフ場からはずれてスイッチバックの下りから、朝鮮からつれてこられた陶工が住まわされたという内田におりる。そこは周布川の河畔となる。ここから今ダムでせき止められている周布川の右岸(河口からみれば左)へ東の丘陵地帯から下る道がなくなる。キッチリと川で区分されてしまっていて、地図からは、国境線のようにおもえた。東に流れる浜田川とにはさまれた丘陵地帯の中央に目指す三階山がある。

内田の集落は下、仲、上と小さな内田川にそって、バラバラと民家をみる。古道になる道で川をつめると一気の登りになった。昔の陶工の登り窯の跡を探してみる気分だったけど、当然この目ではみつからない。

林道となった道はそれでも、六地蔵の祠を道端にのこしている。分岐があって三階山神社西登山口とおおきなカンバン。路面がダートになって、すぐにブッシュ。引き返す。山を左回りに周回することになった。三階ぐらいなら・・とはじめた登坂はすっかり十階ぐらいに。
東登山口のおおきなカンバン。やっと参拝できる、と勇んでみたが、急勾配にトホトホ、徒歩。

すこし朽ち出した木製のおおきな鳥居から路面はコンクリートに。自転車は鳥居の話し相手に置いて歩き出した。500mはあろうかと長い参道から明るい山頂の広場にはいる。手前に小さな祠。その奥にりっぱな拝殿がデーンとたっている。

賽銭箱に刻まれた神紋をみて、びっくり。○のなかに三日月と☆。こんな紋章をもつ神様は知らない!!。拝殿横の由来にこの神社は古くは三光峰権現と称し、日、月、星を祭っていたとある。
大田市周辺には星にかかわる話が多いことに、この石見サキク詣でをはじめた動機のひとつなんだけど、それは江の川を東に渡ってからのこととおもっていた。まさか、浜田で古代天文台をみつけるとは?d0089494_14573917.jpg
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# by forumhiroshima | 2006-10-01 14:54

長浜人形

石見・三田といわれ平野は太田、浜田、益田だそうだけど、浜田市街周辺に田園風景は見当たらない。その浜田市の体育館に駐車。田園をさがさずに、海へむかった。
中国自然歩道がはいっている外浦へ丘をこえる。丘は生湯という所になる。石見瓦のはじまりは、浜田城を築くとき奈良から亙職人を呼び寄せてからになるのだそうだ。この技術が幕末に二人に伝えられる。その一人がこの生湯で製造をはじめた。このころ瓦は黒色だったそうだ。

丘のテッペンに瓦工場がありふるいレンガ作りの煙突がある。写真にとっていると、通りがかりの奥さんがけげんそうに見ていた。幕末の瓦職人、大吉屋がここですか?と尋ねるのはやめた。焼鳥屋をさがしてるのだはないから。
丘から海への野道はどこだってうれしくなる。明るさへとびこんで走るようだ。外浦から浜田市街へ忠実に海岸をトレース。どんどんコンクリート。

水産加工工場街をぬけるとながーい砂浜にそって家並みに。熱田、長浜。
豊臣秀吉の朝鮮役に浜田藩も陶工を拉致してきている。李陶仙、金陶仁という名がのこっている。この二人はこの長浜から一山こえた内田という集落で窯をひらいている。お隣の津和野藩でもそうだったように、この窯は絶えてしまった。だたこの技巧を子供のころ見ていた本地屋治平という人が再開しその子孫になって人形をつくりだした。この人形が長浜人形で江戸時代には藩に保護されていたという。
長浜にはすでに書いた長浜刀がある。この刀は岡山備前からきた刀工たちであったようで、戦国時代にこの長浜の豪族、周布氏が毛利氏に敗北するとこの刀工たちもこの地をたち去っている。周布氏は尼子氏につながる一族で、この長浜の刀工の刀が山中鹿之助の使った石州和貞であったという。

家並みが西端でとぎれるところに小さな流れが入っている。路地としてしか見れない道がその流れにそってほの浜の背後の丘陵へのぼっている。その丘陵を一山こえたところに内田の集落がある。内田のそばを流れる周布川を西へ山中にはいると周布地や井野の砂鉄生産地がある。

その路地に入るまえにとって返して細長いこの集落の裏道へ走った。そこに神楽面・長浜人形・岩本竹山陶房のカンバン。店には日焼けしたカーテンがかかって扉は動かなかった。集落そこかしこにお寺がちらばって、それがこの集落の賑わいのなごりのように思えた。
また海岸から路地へ入ろうとした。そこにちいさな白木つくりの標識がある。神久山神明宮入口。地図にも自分の記憶にも神久山はない。神明宮・・・??明神なら・・・???
道はさきはじめた彼岸花がいいじゃないですか。ナゾを荷物に登りはじめる。
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# by forumhiroshima | 2006-09-28 19:42

周布

田橋の集落から新しい車道、そして櫟田原・イチイタハラへの旧道へ。ところがここも工事で通行止め。石見中通往還のコースでも必ず通行止にであう。迂回路ともいえない大回りが指示してあるが、実は強行突破している。自転車担げばどこでもいける!か?が身上。
ここの通行止はガードマンがおられて、親切に大丈夫だから、工事に注意して。工事中の現場もみなさん手を休めてまってくれる。

今広島から中国山地越えのJRはすべて通行止。芸備線も三江線も復旧の見込みなし、とJRのHPにある。
旧道は勾配をくねくねととりながら上がってゆく。バス停に観音とある。その下に張り紙があって、工事のため運休、やく1ヶ月。見込みなしよりマシと思うことなんだろうか?
観音の集落といっても、民家一軒しかみえない。観音とあるからには祠が、とさがした。小さな分岐があって、その古道におおきな杉が暗闇をつくっている。その下に古いと新しいとの観音さま。

石見の旧山陰道では、こんな野仏さんに出会うことはなかったけど、山中に走ると、とにかく六地蔵さん。観音さまははじめて。それも新しい仏様にはびっくり。どんな願いがあるのだろうか。

櫟田原の集落は道から深く沈んだ川筋ぞいの、それも高台にある。その間は黄金の稲穂の棚田。この道からいったん川筋へおりて、また高台へあがる。そんな集落徘徊はぽつぽつと落ちだした雨にあきらめた。

もう一つの峠をかたずけるとあかるく、ひろい田園とまっすぐなおおきな車道にかわる。ここが周布地。きっと井野といわれる地域の中心になるのだろう。
井野って名は匹見・道川の美濃地庄屋屋敷にあった資料館でみた。砂鉄たたらの中心地として、栄えたというこの道川の原料の砂鉄は井野から運んだとあった。
道川のたたらは江戸時代末期のことだそうだけど、その前からここが砂鉄生産地であったから、周布地というのだろうと考えていた。
周布という地名は浜田の西部にあって、そこに古墳もある。周布は四国伊予にもある地名で、四国からここへやってきた人たちだろうと。

1423年この浜田・長浜、いまの浜田商業港に朝鮮水軍の船が遭難して流れ着いた。この乗組員10名を救助して、母国まで送り届けている記録が韓国の古書にある。その救助し援助した人物がそのころこの地の豪族であった周布兼仲。帰国させるとき、この地で作られていた刀剣を送っている。長浜刀という。

周布氏は尼子氏に属していて、その尼子氏は近江の佐々木氏に属し、その佐々木氏の本拠に柿本氏があり、人麻呂はたびたび近江へ旅をしている。

そんな、こんなで井野へ。
先日新聞に近江の古墳から見つかった朱は四国阿波産だと報道されていた。そら、ぐるーと回ってきた。石見なんです。
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# by forumhiroshima | 2006-09-09 20:41

春待つ国

雨が落ち始めた広島を早朝でて石見へ。
どんよりとした海はすこし波がたかい。折居の海岸の集落は人気もないようだ。
見上げる山にテレビ塔が林立している。大麻山。この山頂の大麻神社には二度も登っている。山頂、杉の大木の森に鎮座する神社はアメノヒワシ命とオオアサヒコ命、サルタ彦命と盛りだくさんな神様がおられる。
オオアサヒコ命は四国阿波から火の玉となって渡来されたという。アメノヒワシ命は忌部氏という占いの部族。九州筑後に韓国から渡来された神様。なぜこの山頂で重なっているのか?

[まれびと]という言葉がある。古代、大空から、海のあなたから、ある村に限って、富と齢とそのた若干の幸せをもたらして来るものと、村人が信じていた神のことなのである。この神は宗教的な空想に止まらなかった。現実に古代の村人はこのまれびとの来て家の戸を押す音をきいたのである。この音を聞くことを、[音ずれ]という。折口信夫。

このおとずれを聞き、宮廷の門に明け方、中臣と忌部の人たちが御祓いをしてまわって、神のおとずれをつげたという。

この石見・大麻山周辺の古代の村人がきいたおとずれは、いまどんな景色としてひろがっていおのだろうか。大麻山を仰ぎ見て暮らした人々の村々は山襞をかきむしって平地に耕し、そういった集落がポツン、ポツンと点在して地図ではみえる。
そうなら、この大麻山を周回してみたら・・と時計回りに折居のちっちゃな駅からスタートした。
山をめぐる道はだたただ林道。民家も墓所も出会うことなく、のぼりがつづいた。幾度か開けた谷筋には降りるルートもなくただ登る。下りはじめて地形が交錯してくると、やっと集落に入った。

1kmの直径の円におさまりそうな谷間の、複雑ないくつもの川筋にモザイク模様に広がる稲穂のたわわな田と、その間の小山の森と赤瓦と白壁。ここが横山・田橋のようだ。集落にはいるいくつかの道は、なぜかそこかしこで通行止。山間を抜ける。

谷間の秋色の集落に目を奪われていたとき、足元で動くものがある。ストップ。
40cmばかりの細い茶色い蛇が二匹、いそいで山側の石垣の茂みへいそいでいる。これも見とれるほどの可憐さ。その石垣の上におおきな一本の樹木に気づいた。おおきく枝をいくつもひろけて、そこにちいさなカンバンがある。大麻桜。
いまの二匹の蛇はこの桜に住まう神様だと、まじおもってしまった。

それにしてもこの石見で山中に巨木の桜にいくつであっただろうか。この木々が満開になる春にはそこらじゅう走り回りたい。
石見は春のおとずれを待つ国のようだ。花吹雪のおとをきいてみたい。
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# by forumhiroshima | 2006-09-08 19:20


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