こひちろうの独り言 |
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関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府の統治が始まると石垣を持つ城が築城されるブームが到来。徳川の大阪城1620-1629年、名古屋城1610年、熊本城 1606年、丸亀城 1615年。 それに比べ広島城1592-1599年 それに先行した三原城1582年と毛利氏の築城は早い。強力な武力と権力を思わせる。
普通に築城は台地や小山、尾根の崎などを立地としている。砂州や岩礁などの軟弱な基盤への毛利一族の築城は、海へ進出のためにその困難さを乗り越えてようとした。 全国に地方空港が建設された“航空機の時代到来”のように、大型船の時代到来を迎えていた。秀吉の1592年築城の伏見城(指月山)は淀川から引き込まれた水路と船溜が造られている。山から川へ海へ、水路(澪標・ミオツクシ)を求めて城が動いていく。 早く築城していた三原城を見本にしたような秀吉の伏見の城だ。 三原城は海の中に浮かぶ城といわれている。海に向かっての城下に市街地はつくられていない。明治27年(1894)城郭は駅になった。そのころの駅の写真の海に市街地はない。
広島城は、西搭川・川幅17.5m/河岸9m,平田屋川・川幅26.7m/河岸寸法11mの海からの運河があった。西搭川埋立地が紙屋町南向の電車通り、平田屋川の埋立地が並木通りになった。本川左岸に住吉神社が置かれた船溜と水主町という、港の施設となる町もあった(日本建築学会中国史部研究報告 第32巻H21/3)。 二つの運河(平田屋川、西搭川)を渡る橋は少なく、町の賑わいは配慮されていないように見える。城塞として築かれている。
海が洗う荒野に設計された二つの城塞はその設計に制限を加えるストレスは、膨大な石、砂、木材、人力ほかなく、その意味、力があれば、自由だった。自由だからこそ都市設計に、「いつの時代にもわれわれが求めているのは意匠の“普遍性”ではなく、そこに神話的なものが付与された“固有性”ではないだろうか。鈴木博之・建築家」という思いはなかったのか。
神秘的な固有性、その都市伝説・レジェンド、トラディション。できるだけ密やかに息を潜めてうずくまっている幾つかの伝説が、ときにクロニクル・年代記としてふきだしてくる風。それに向かってアゲンストに向かって行く神話への旅。それが自分のクロニクルのページ。なんて、いい!
地球は南北と呼ばれる軸を芯として回転する。その回転方向を東西と呼ぶ。この宇宙の運動を小さなピースにして土地に引き込む。そのピースで化粧された土地は宇宙・神の差配する場所となり、人を集め、レジェンドが芽を出す。はず、が、なぜに毛利一族は、都市設計の中軸を南北からはずしたのか?。南北中軸の都市伝説が彼らの支配を強化してくれるのではなかろうか。 スポーツのトップスターに自社のマークを付けるだけで、“レジェンド”にしようとする今の意図は彼らの思いの前では砕けちるしかないだろう。
「近世の城郭立地に関する風水思想からの考察 岡山大学・曽我とも子」を見つけた。 「“北東の阿武山を玄武(北方面の守り神)として、そこから南西方向に朱雀大路がとられている。・・・四神相応の地といえる”。そして西の茶臼山が白虎、東の府中町の茶臼山が青龍、南の海が朱雀。見立てした三滝山・比治山・黄金山・二葉山・己斐松山の交差地点に天守閣を置いた」とある。朱雀大路は紙屋町家電量販エディオンの西から南へ抜ける築城当時大手門からでてくる大手通り(白神通り、とも)になる。
三滝山、比治山、黄金山、二葉山、己斐松山に牛田見立山、宮島・弥山とは、地図上で広島城天守閣で交差する。これだけで、都市伝説資格あるかも。が、朱雀大路が東に傾いて宇宙の運動に竿さしている。“阿武”が“玄武”とは、どうなのだろうか。ゆるくはないか。
三原城の南に筆影山がある。GoogleMapに山頂の筆影山公園から南斜面に降りてゆく建造物が薄っすらと見える。国土地理院の三原1/25000図にここに鳥居のマークがある。そして三原城と同じ子午線東経133.083の位置にある。三原城は宇宙の運動のピースが埋め込まれているのか。
こうなれば、大好きなラインごっこ遊びだ!筆影山から南へラインを下す。瀬戸田港を見下ろす向上寺の国宝三重塔のそばを抜け、しまなみ海道多々羅大橋東詰めの観音山山頂を通る。向上寺の秘仏は聖観音菩薩という。
振り返れば三原城の真北にある金毘羅神社を抜け三原城北面の最高峰・龍王山665mにたどり着く。 筆影山の名は江戸期の歴史学者・頼山陽が名付けたといわれる。書家でもあることから、「筆影」と呼ばせたことでもあろうが、筆で残した文章を隠した、とは読めないだろうか。 などと・・・・。
三原市観光協会HP「筆影山の南西に位置する竜王山445mは北にある龍王山665mと区別し、1185年に屋島の合戦で敗れた平家の泰四郎圀重がここを開いたという伝承があり葉田竜王山と呼ばれる」とあった。三原城北の龍王山が特別扱いされている。 龍王山から北へ子午線をのばすと、どうしたことか、御調八幡宮に当たる。
「769年称徳女帝の下で臣下の身で帝位を望んだ道鏡の野心を、宇佐八幡宮の信託によって退けた和気清麻呂がそのことで罪となり大隅(鹿児島)に流されたとき、清麻呂の姉・和気広虫姫は備後に流され、この地に身をとどめ、斎戒沐浴し円鏡をご神体として宇佐八幡大神を勧請し(三原市観光課)」神社は古代の表通り西国街道に面する。備後と安芸の国境に座る「龍」の山。国境の分水嶺。 天皇家の伝承にかかわった神社の神の所在の龍王山が、天皇家の血統、「一品」を誇る毛利家の海の要塞の守護となった。
1592年ごろ、朝鮮出兵の為に九州・名護屋へ向かう途中、豊臣秀吉が三原城を訪れ、御調八幡宮に桜の木を手植えしている。三原城と御調八幡宮との深い関係がここにあるような話。頼山陽が筆を隠した何かが、ここに。南北の軸心は宇宙運動を安芸・備後の国境と生口島観音山の伊予・安芸の国境に引き込んでいる。
筆影山の公園に走った。三菱前の和田の信号から3.6km標高差300m。いい勾配角度ですね。足つきを何回も重ねてしまう。山頂公園から石段を下った。 そこにある海に落ちそうな場所の広場と休憩所は、まだ新しい。神社らしき雰囲気を探した。 打ち捨てられて、朽ち果てた小さな祠を広場の裏に見つけた。神額もなかった、が神の在り方は“あった!”。 やはり、ここがただならぬ場所に思えた。
御調八幡宮が守護する龍王山から生口島観音山へ、いやもっと南の四国までつながるこの子午線を測った天文台の跡ではないのか。狼煙山なら同じ子午線を選ぶことはない。磁石では偏角が場所、場所で違い、磁鉄鉱などと反応する。子午線E133.083の精度は半端ではない。地球に緯度経度の番地をつける時代はもっと先の18世紀になるのだから。(ここに記した緯度はGoogleMapによるGPSからの成果)
観測の結果でないとすると、奇跡でしかない。 三原城はこの経線と東の最高峰・鉢ケ峰山と西の小さな尾根に鎮座する三原八幡神社とのラインの交点に所在する。
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by forumhiroshima
| 2017-07-08 03:08
広島城施主の毛利輝元は1563年-11歳のとき、父隆元を亡くし、家督を継ぐが幼く、祖父毛利元就が後見として差配してきた。18歳のとき元就が1571年に死去する。彼は吉田、郡山城そばに元就の墓所と菩提寺の洞春寺を建設している。
自分が23歳で父を亡くし家業を継いでから、フラフラの人生だったから、18歳の輝元の西国一の武将の家の家督相続の重みの凄さはとても測れない。きっと大変であっただろう、とだけ、おもってしまう。少しだけ身近なのだ。
1589年、城普請の見立、1591年 輝元は、まだ未完であった城へ入城。そして完成1599年。 入城すぐの1592年に吉田・郡山から洞春寺を広瀬神社の位置に移築している。この場所が元就厳島合戦戦勝祈願の己斐旭山神社(己斐松山)と天守閣を結んだラインにある。元就の拝み墓所に思える。天守閣から己斐松山を俯瞰すし、そのまま目線を落とせば、大クスの木の繁る広瀬神社と祖父のある洞春寺が見分けられる。それは、懐かしい気持ちか、すがりたい-なにか、か。
広瀬神社HPにはここに広瀬弁財天社があったとある。城に西の本川河畔に中津宮社(宗像三女神の二女・湍津姫神(たぎつひめのかみ))東の京橋川河畔に厳島神社(市杵島姫神)と宗像の陰が濃い。ここが田心姫神(たごりひめのかみ)であったら、そろい踏みなどと妄想する。毛利氏が戦国屈指の勢力となった合戦の厳島の女神がちりばめてある。ちなみに日本三大弁財天は厳島(宗像)、琵琶湖・竹生島(弁財天)、鎌倉そば・江の島(弁財天)とされている。
宮本常一が尾道沖の百島を歩いた時「墓がいろいろのところにある。畑の中に、ブタ小屋のうしろに、家の軒下に、渚近くに。どうしてこんなところに墓をたてたのか、きいてみると、死者のあったとき、その人の年齢やその年の干支など見合わせて、その方向をきめるのだという。時間があれば僧にもあってくわしく聞いてみればよいのだが、そういうことはしなかった。瀬戸内の島々はずいぶん歩いて見た。そかし墓がこんなに方々にバラバラにあるのもめずらしい。私の日本地図6 昭和44年発刊」
25年ものちに百島に渡って走ってみた。小さな島で何とか海岸線は一周できる。島中央の茶臼山にも登ってみた。注意して見てみたが宮本のいうバラバラな墓は見られなくて、きっと集められて集合墓地になったのだろう。集合では方角は選べない。 ただ猫の多い島の印象が残っている。
「墓所・墳墓・古墳の築造の際に主軸の方向を揃えず、はなはだしいのは隣同士で逆方向になったりしているのは、風水思想にとって築造されたからだと思う。家宅を建てるにも都市を建設するのにも、この道家的な神仙思想からの風水思想を法則としている。 松本清張・日本書紀を読む」
広瀬神社(洞春寺)の位置は掩蔽・エンペイ(occultation):陰に隠れる:になる。日食、月食などの天文学用語 特別な位置関係がそこにある。
「風水は、前もって良い土地(脈により気が集まる場所)を、こまごまとしてわずらわしく複雑なノウハウの蓄積で指定できるというシステムである。中国では伝統的に“術数”とよんできた。また“地理”とも。 風水講義・文春新書488」
先日将棋のコンピュターシステム“ボザンナ”の製作者の山本一成さんがTVでの話の中で、「システムのメンテナンス作業は工夫と失敗との連続作業で、うまくいった場合、それができた訳はわからないのだ。結果オーラーなのだ。それはヨーロッパの中世の黒呪術と同じように感じる。」と話されていた。“風水”と“ボザンナ”とは、似ている!。
“上洛”という言葉はなぜか京都に入ることだが、平安京が建設されるとき、京の東半分を中国の都市“洛陽”とよび、よって洛陽に上ることで上洛となった。西半分を“長安”とよんだが、のち西半分、右京は湿地が多く荒廃して忘れられた。地下水脈が移動したともいわれる。中国の都市のコピーは風水思想のコピーになっている。
双ケ丘の南山麓に鎮座する木嶋神社(蚕の社)の森を元糺の森といい、鴨川と高野川の合流地点の下鴨神社そばの鴨河合神社と下鴨神社の境内の森を糺森とよばれる。元糺の森が枯れたのだろうか。今はただの鎮守の森です。この二つの森は朱雀大路を中心線にしてそれぞれ900丈、5里の地点にある。古代の都市計画が浮かび上がってくる(足利 健亮・NHK人間大学)。 が、現在はその中心線の朱雀大路のほとんどは路地になり、大内裏は家並みに沈んでしまって、走ってみても大きな感動はなかった。京都は結構新しいと思ったりした。 直線で構成された区画に構築物をシンメトリーに配置した“平安京内外の計画 (足利健亮・京大元教授)”です。
1993年台湾からの大阪大学留学生の黄永融氏が京都府立大学で発表した『風水思想における・・・平安京・・・日本古代宮都計画の分析研究』が最初といわれるぐらいあたらしく、風水の研究はただの占いの扱いだったようだ。
黄氏のレポートは読めなかったが、「風水と天皇陵 講談社現代新書・来村多加史」に“東アジア最高の風水の宝地”のページがあった。ほかに学教授などの著作は見つからなかった。
『平安京は理想的な風水の宝地に営まれた都である。堪興家・カンヨカ(風水師)が重視するすべての要素を兼ね備えている。背もたれとなる“大帳”は鞍馬山・貴船山 両脇を抱える“左砂”は比叡山・東山、“右砂”は愛宕山・嵐山、南の“案山”は男山、“水法”は賀茂川・桂川』と書く。まぁよくわからない。決めつけれ、それを飲み込まされる不快感がある。
平清盛時代の平安京の想像図に風水都市京都のいくつかの風水たるところを記入してみた。右京はすでに失われている様子。が、書いている自分はどうしてそこが風水の場所なのか、わかっていない。のだけど。 松本清張先生は「直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかない。」とおっしゃっていますが。これみてください。遊戯は面白くなくっちゃ。
都市中央の最北部にまつりごとの場所大内裏を置く。その背景に天の回転の中心、北辰・北極星を頂く。この星を太一とも太極ともいい、また天皇大帝とよばれる(風水講義・中公新書488)。南を向き、まつりごとを発する。指南とされる。それらがデザインされた都市が風水都市といわれる。 船岡山と木津川の向こうにある甘南備山とのラインは東経135.44にあって、平安京の中心軸とされている。京都の水は鞍馬山と貴船山を水源とされていた。飛鳥、藤原京の記憶により、船岡山が耳成山、畝傍山が双ケ丘、天香久山が吉田山に比定され、古代飛鳥に発祥した朝廷を復活させている。
大内裏が消失したのちの京都御所は双ケ丘と吉田山の東西線を踏襲し、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念事業として建設された平安神宮は、京都荒廃のおり、仮御所に刻まれた今朱雀大路をその中心ラインとしている。 風水思想による都建設の企ては、のちの世にも踏襲されたのだろう。
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by forumhiroshima
| 2017-06-17 09:31
龍は山脈に流れる「気」を示す。その「気」をうまく受ける、得ることで、その地、また人生の良いことが起きる、と風水の解説書はいう(はかる科学・中公新書)。その山脈とは、どうも普通に思う山のことだけでなく、すこしでも高い所も「山脈」であり、雨が降って現れる水路は「山脈」がつくっている、という。(風水講義 文春新書)イメージがわいてこない。
中国では風水を地理ともいう。五行や易によって判断する方法と、「脈」を地形判断から立地を見る方法とがある。広島城築城立地の判断は風水による地形判断があったとすれば、後者になる。七つの川の三角州といわれた広島のケースなら、水脈の判断があった痕跡を探してみることになる。はたして?迷宮に入り込んだ、ね。
中国にながれる長江、淮水、黄河を「三大幹龍」とされ、平原に大山脈のないかわりに、水が「脈」として「気」を導くとされる(風水講義)。とあったが、どうして山が川なのか?と、モヤモヤしている。説明しずらいから、占いで決着なのだろうか。“中国三大幹龍総覧図”が挿絵があって、ホットして覗き込んだ。 「黄河はなァ、この星宿海で生まれて、五千四百六十四キロも流れていって、渤海で終わるんや。ちょっとでも暴れたら、村や町どころか、ちっちゃな国でも流してしまうほどの凄い河やのに、それが始まることは、星宿海っちゅう、星の数ほど小さな湖が集まっているところなんや ・・・・中国では二千年近く、黄河の源流がどこなのかわからなくて、さまざまな伝説が生まれたが、なぜか星宿海は、瓢箪・ヒョウタンの形をして、絵地図に描かれるようになった・・・・宮本輝 星宿海」 「三才絵図の星宿海の形が、ひょうたんが選ばれたのは、この植物はあたかも子宮のように万物の種を宿すとする伝承にもとづいているのであろう。黄河の源流には、小さな無数の沼沢が星屑のように考えられていたとしても、まさかおおきなヒョウタンがコロリと横たわっていると当時の人々にイマージされていたわけではあるまい。(差し当たり宮本輝氏の『星宿海への道』を読まれよ) 風水講義 三浦圀雄」 で、『星宿海への道』を開いたわけです。 広島城築城に東の尾根に現れた「龍」が、太田川の源流に440年のちに現れた。 昭和14年11月 民俗学者・宮本常一は島根半島の旅から島根県の江の川に郷土史家たちを訪ね、そこから芸北町にバスでやってきている。そのころ奥三段峡にまだ聖湖(樽床)ダムはできていない。今のダムの建設地あたりにあった峡北館という宿に宿泊し、主人の後藤吾妻さんにより聞いた話を「村里を行く・土と共に」に残している。
「『古事記』の大蛇退治はこの芸北・八幡村のできごとであろう、と説こうとしている人があるという。国学院大学をでたという相当の人物のようであるが、講演にきて土地の古い話を聞き、苅尾山は臥龍山、樽床は八つの酒樽を並べたところ等々と解釈し、この地方の屋根に千木をうちちがえているのは、神代様式の建築であったという。本気で言ったのであれば、いささかどうしているのであり、冗談半分の仕草であるとすれば罪が深い。土地の人は学者の言葉として、これを信じようとしている。 宮本常一」 「苅尾山は、龍が臥していたところとして臥龍山。掛津山は龍が頭をもたせかけた場所として掛頭山となり、比尻山は聖なる場所として、聖山にしてしまったと思われる。 それにしても苅尾山または刈尾山という山名をカリュウあるいはカリオという名称が、山麓の雄鹿原、橋山、小坂、八幡、樽床で現在も使われていることはまぎれもない事実である。 “カリウ”の初見は1663年芸備国郡志である。“苅尾山”という字の初見は“八幡村御建山野山腰林帳1716年”である。・・・・戦前の陸地測量部発行の旧5万分の一図には苅尾山とあった・・・・千五の昭和二十二年版より“臥龍山”に改められているので唖然としてしまった。 西中国山地 桑原良敏」 戦後にあらわれた「龍」に唖然としたのは広島女学院大学の先生だ。(掛頭山東斜面が芸北国際スキー場です)
宮本常一は樽床をでて三段峡の中間地点の餅ノ木峠をぬけ、水越峠の十方山西山麓の林道横川峠を雪の中一人でぬけて匹見へでた。この年十方山の東の打梨川沿いに立岩ダムが建設され、ダム湖は龍神湖と名付けられた。宮本はこのダム湖の名称をきいただろうか。他にも三段峡の入口に龍ノ口、樽床ダムへでた場所に龍門と名付けられている。山を枕に「龍」はよっぱらって酒樽を枕に寝そべっているのが、聖湖。いやいや、もっと意味深いものがあって、村人がひきつけられたナニカが「龍」にあったのではないか。などと思っていて、思い出した土地があった。
「龍」が天に登るすがた、「飛龍に観える-飛龍観」の日本三景の一つ・京都・天橋立。枕詞の「瓢葛・ヒサカタの天の梯建・ハシダテ」のヒサカタは“ひさごの形=ヒサゴのカタ”で、ヒョウタンの蔓がのびて、天にのぼる梯子であるという意味。そのころ、天がヒサゴであると想像されていた。 (谷川健一 古代人のコスモロジー) 丹後国風土記逸文にイザナギがイザナミの住む天上の地に地上から架けたハシゴが倒れた形が天橋立とある。このハシゴの素材がヒョウタンの蔓。東アジアの神話の広がりを瓢箪は感じさせる。
前方後円墳を横から見ると瓢箪を二つに割った形だといった民俗学者の三品彰英の説がある。
奈良、天理から東へ笠置山地に登るいくつかの峠に頭上に勧請縄というしめ縄がかけられ、時間の扉のように感じられる。境をこえる。深い森の中に鳥居が白く浮き上がっている。その多くに、九頭龍神社とあった。必ずそばに小川が流れていた。
「九」という奇数の極数と「龍」との組合せは、偶数の極数「八」と「大蛇」の組み合わせとどこかにている。龍はイザナミ・イザナギとの組み合わせのようだ。大蛇は当然スサノオとの組合せだ。京都守護神・スサノオの神社が八坂社であることも、そんなところかもしれない。 #
by forumhiroshima
| 2017-06-12 10:35
広瀬神社から空鞘橋を渡って中央公園の芝生のマウントに着いた。己斐をスタートして、やっと広島城が現れた。 お城の背景に二葉山の尾根が円錐形に見える。そのトップあたりに旧陸軍高射砲あとがあってそのすぐ下に金光稲荷神社奥宮が鎮座しているのだが、当然判別できない。芝生を踏んで進むと、二葉山の後背にある尾長山が天守閣と稲荷奥宮の尾根に重なってきそうになる。が高層アパートが己斐と二葉山のラインの見通しをさえぎってしまう。 お堀端にでて、尾長山と二葉山と天守閣の不透明な三角関係を確かめたくなって、天守閣へ登ってみた。尾根山の山頂は二葉山の仏舎利塔の先っぽの向こうに隠れているようにみえる。ゆっくりと移動すると二つの山が重なるポイントはその二つがつくるラインを保持してくれる。航海者たちはこれを“山たて”という。 己斐と二葉山とのラインは国土地理院デジタル版やGoogle Mapで面白く描き出される。かつ、正確な情報に基づいている。しかし、毛利輝元の城普請の設計図のできた時代はそうはいかない、だろう。
「地図の話 武藤勝彦 昭和17年発行 岩波書店」巻末に“父兄ならびに先生方に”と編集部から解説があって小学校上級生と中学生向けとある。最適なテキスト。
「まず日本全国5万分1地図製作のスタートに当たって原点を東京、麻布の旧天文台の場所と決め、そののちに基線を測量する。そしてその距離を測る。明治43年東京で始まった。基線は神奈川県相模野での5210mだった。 作業は地表に杭をたて行われもした。そしてその向こうの測量地点は、多くは見通しのある山に置かれた。そのポイントの三角点は地中深く埋め込まれた石柱として残された。
ヨーロッパで始まった地図作りでは教会の塔が目標にされた。“ゴシックの教会は町とその周辺をつばさでおおうようにおさめよと建てられた。遠い道にまよう巡礼者の集まる地点になれ、避難所になれ、かれらの燈明台になれと建てられた。教会の鐘の音が夜人々の耳にはいるとおなじく、搭は昼、人々の目になれ”と彫刻家ロダンは教会の美しさについてこう書いている。この搭は地図作りの目標とされ、ある曇った日に搭のステンドグラスの反射でその位置を確認できてから、日光を鏡で反射させる器具ヘリオトロープがつくられ、精度が飛躍した。」
己斐。旭山八幡神社の御神体の鏡を光らせ、二葉山の金光稲荷神社の鏡をその名の通り金色に光らせ、そのラインを確認することは、できるのではないだろうか、など、とおもった。 Google Mapに己斐-二葉山のラインを東に延ばせばどこにたどり着くだろうか?と遊んでいた。長尾山のトップを通って呉沙々宇山の尾根へ抜ける。呉沙々宇山からは城は目視できない。地図を拡大したとき長尾山の尾根にマークが現れて「龍の頭」のテロップが書かれていた。
己斐の旭山、牛田の見立て山と昔の言葉や伝承の中に、毛利輝元という武将が首府を新しく作る、その思いや指針がユラユラしていた。そこに「龍」が登場した。
尾長山から続く牛田山への尾根の西斜面に真言宗・龍蔵院が地図にある。その龍へむかった。急斜面の上にテーブル状に広がる住宅地の谷筋に赤い鳥居があらわれ、階段の参道が森の中の静かな山道になって、そこに読経がこぼれて聞こえる。 寺のある谷は清水谷とよばれ、ここから縮景園に送水された場所になる。清水とうおばれる所以だろう。いまは住宅街に沈んで、清水谷と呼ばれた余韻もない。 風水は「山はひとかたまりの土くれと石の小山ではなく、風、雲の調和をもたらす“龍”にみえてくるのである。次に風水師たちは、この龍をさがしに出る。風が山に当たり水を吐き出す。風が立つ方位とで大地の吉兆を占う。これらが生み出すエネルギーを“脈”という。山脈・水脈はこれをさす。人にあっては、血液の流れを読むことを“脈”をとるという。 風水地理入門 崔昌祚 チェチャンジュ」
Google Mapで現れた“龍の頭”のある尾長山へ向かった。山根町第3公園そばの石段から細尾根を踏む。落ち葉がすごい。あまり歩かれていない様子、急坂。岩場が次々現れる。Google Mapに写真で掲載された岩場に着いた。ここが「龍の頭」とあった場所だろうか。お城の天守閣はビルの陰、その向こうの体育館が見える。己斐は判別できない。鏡の反射光があったら。 山の名で「頭」につくのは、自分の知っているかぎりでは、吉和の十方山の丸子ノ頭と三段峡のサバノ頭、どちらも内黒峠からの尾根のピーク。ならばここの「頭」もピークでは。尾根を登ってトップに向かった。体育館を探し確認しながらのぼる。トップは茂みの中になった。木立の中から二葉山の南斜面を接するような視線でやっと体育館を見つけた。己斐-天守閣のラインはここに集結するようだ。Google Mapにある龍の頭には違った意味があるのだろうか。 尾長山トップの木立の中に西広島飛行場との標識のあるアンテナらしきものがフェンスに囲まれている。そばに小さな古い石垣が残されている。これって、見立て場の証拠!きっと、その時ドヤ顔だっただろうね、妄想を強化した。 毛利輝元一行の見立ての人々が見ていた景色は、いくつもの砂州が海に洗われ、川は自由気ままにルートを変えながら海へ入っている太田川(佐東川)の河口だった。龍たちの遊び場に見えたかもしれない。 #
by forumhiroshima
| 2017-06-04 09:59
大内氏の内紛ののちクーデターを成功させた陶晴賢との厳島での対決が迫った1555年9月 毛利元就は先に滅亡させた武田氏の居城であった銀山城にいた。そして兵士たちの待つ草津へ向かった。(新編広島市)その途中、己斐の八幡社で早朝に昇る朝日に戦勝祈願をしている。後に神社の名に旭山が付けられた。と、言われる。
厳島の合戦は10月1日早朝始まった。旧暦の晦日、9月29日夜の月は月齢0.3の新月、大潮の夜を元就は、はやる戦士に待つようにと抑えていた。その夜は闇夜の暴風であった。のち合戦の勝利を己斐八幡社は旭山八幡社と名をかえて元就参拝祈願を記憶した、という。 この合戦は陶軍を島に引き付ける作戦がすでに始動しており、決戦の日を元就は決定していた。
しかし、です。朝日への祈願、戦勝としても、旭山と記憶させる強い何かがあるように感じる。
己斐には、古代港であったこの地に伝承の人、神功皇后が立ち寄った伝説があって、その際に鯉を献上したことも地名由来といわれる。古代この辺りは己斐氏が起こっており、また厳島神社の祭神の宗像三神が鎮座する九州筑前・宗像の宗像氏一族・許斐氏のここへの到来も考えており、「鯉・カープ」の陰が薄くなる話もある。
元就が兵站基地とした草津はこの戦いの軍港であったことから、イクサツからの地名だといわれるが、九州国東豊後の宇佐神宮が、古くは宗像三神を祀っており、のちこの女神が厳島に現われ、ここにも渡ってきたことがあって宇佐津と呼ばれたこと、ともいう。宇佐の女神はのちに神功皇后にかえられて、宇佐八幡とよばれる。 宗像の神々に由来する神社が厳島だけにかかわらず、この海一帯に繁栄している。宗像「海人」のざわめきが聞こえてくる。
古代の己斐津に淡水魚の鯉の神話が見られることが、すでに港の機能は失われていた、のではと思わす。元就は朝日参拝に、砂州に太田川、そのころの佐東川が幾筋にも流れる景色をみたのではなかろうか。 9月24日には陶軍はすでに厳島に上陸し展開している。朝日にきらめく流れの先に厳島をを見ていた元就の姿が浮かんでくる。
この神社に孫の輝元36才が現れたのは、厳島合戦ののちの34年後、元就の死去から18年後だった。広がる砂州と干潟の海に城を築く場所を決めるためにやって来た。
古代の朝鮮半島では、「百済の始祖である温祖王が漢山に登り、地勢を観望し、天剣地利の形局であるので首都に定め、また高句麗の流瑠王は、周囲が険しく土地が肥えていることで、尉那城を置いた。風水地理入門・崔昌祚」などと風水の術で調べる大地の活力の如何が国家、国土に重大な影響を及ぼすという考え方を大切した。風水の調査指定の手順の中に、朝日山(旭山)がその起点になるという記述がある。
織田信長が長良・木曽・揖斐川が集まる井之口であった集落を城下町に再編成する際、風水により求められた中国・周王朝・発祥の地の岐山を引き、岐阜(阜は丘の意味)と新しい地名にした(風水講義 三浦國雄)。風水は深く武将たちに支持されていたのではないか?。毛利輝元にも。
旭山八幡神社を毛利輝元が物見・国見のスタート地点にしたのは、祖父毛利元就の故事によるばかりか、風水の影響があったのではないか?だから城下設計の主軸が東へ傾いでいることの訳ではない、などと、思い始めた。が、風水はとてもとても理解できるような頭がない事ぐらいしかいくつかの解説書をみたが、サッパリわからなかった。手に負えない。そこで、広島城天守閣の位置決定のラインの一つを地図に落としてライン上から天守閣とそのラインを点々でしかないが、走ってみた。 毛利元就が隠居所は祇園の銀山城にするといったが、新しく作るつもりもあったともいわれる。決戦の前にみた景色に中にその場所があったとしたら、その景色は砂州と干潟とそこに突き出た岩礁や砂山ではなかったか?。楠や松がまばらにその土地に枝を拡げていたのではないか?。岩礁や砂山が神社として残っているのではなか?。 まずは、岩礁の上に鎮座する白神神社へ向かった。お参りの多いお宮さんで、拝殿左の奥の常盤稲荷にも参拝者は切れない。その祠の右横の拝殿の下、奥の暗い岩礁の岩がこぼれ出ているその一つに翁が座っておられる。それはいつのころからか、参拝の機会にお会いするのが楽しい。竿があれば、まるで釣り姿。ここが城建設当時の波打ち際、渚であることは、神社横の由来説明にもある。 真西にある、己斐の社の尾根のすそもそのころの渚にあらわれていたのだろう。 旭山神社から踏切をぬけ西国街道をとって東へ、己斐橋を渡り西郵便局の裏へ左へ。ここが昔のことだが、福島川が埋められてできた道。少しくねった道筋でも川の姿の痕跡は感じられない。大通り(相生通り)を東へ広瀬橋を渡って川土手の遊歩道から広瀬小学校の南側へ。広瀬神社の大きな楠の境内があらわれる。己斐の社から天守閣の直線ラインにこの神社がある。 大楠の木は神社のHPによると樹齢300年以上とある。小山の端にへばりつくようにして、繁っている。400年前ここに毛利輝元が廣瀬市杵島大明神として社領を寄進したとある。 毛利元就の郡山の墓所の場所に吉田時代の洞春寺が元就によって建立されていた。築城に際して吉田・郡山からここへ毛利家菩提寺の洞春寺が移された歴史があって、毛利氏が萩へ移った時、洞春寺は萩からそして山口へと移転している。旭山から天守閣へのライン上に毛利家菩提寺が置かれたことに、感慨がわいた。 このラインに元就の菩提の寺を置いたことには、旭山で祈願した元就の夢は戦勝だけでなく、城の建立もあったのかもしれない。輝元にはその思いが深くあったのだろう。
奈良・山辺の道が通る崇神天皇陵(行燈山古墳)の中心線が大和川が奈良盆地から大阪へ流れ出るところに鎮座する広瀬神社を指している。飛鳥時代に天武天皇が厚く信仰した「広瀬」の名と、ここの広瀬神社とが、どこか気分の中で交差した。 「前方後円墳の並び方は乱雑に見える。主軸の方向が揃ってなく、はなはだしいのは隣どうしで逆方向になったりしている。これは風水思想によって築造されたからだと思う。 松本清張・日本書紀を読む」 広島城築城の主軸が風水によっているのでは?、の思いに力強い意見だ。が、続いて「主軸のブレについて、直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかないと思う。」
ガッツン!です。・・・・でも、でも・・・。 #
by forumhiroshima
| 2017-05-27 10:33
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